2015年10月30日金曜日

【曾根毅『花修』を読む 6】  『花修』のありか  / 青木亮人



■現在、「現代詩手帖」で俳句時評欄(タイトル「俳句遺産」、2014年1月~)を担当しており、本年十月号に曾根毅氏の句集を紹介した。「東アジアから考える」の特集号だったため、それに沿った形でまとめたのが下記文章である。

----------------------------
「俳句遺産22 詩情と俳句 曾根毅『花修』」

■東アジアも様々で、各地域の「詩」の差異と共通項を体感するのは興味深いところだ。仮に戦前の日本語俳句で考えると、台湾在住の俳人が「まさをなる一葉飛び来ぬ霧の中」と詠んだ時、高浜虚子は次のように評した。

「『※(女+査)媒』とか『榕樹』とかいふ言葉を使ひさへすれば台湾の写生句になる如く考へて居る人が沢山あるやうであるが、(略)台湾の句と思へばさうもとれる、又内地の句と思へばさうもとれないことはない、といふやうな句が本当の台湾の写生句であらうと思ふ。この句の『まさをなる』といふ文字は巧まずしてその地方の特色を出して居る」(「ホトトギス」昭和四年三月号)。

含蓄のある評で、各地域の文化や風景、歴史等の差異を含みつつそれらを蒸溜した有季定型句こそ「俳句」と見なした虚子の眼には、現代より多様な文化の諸相が映っていたかもしれない。

 各国や土地に独自の感性があるように、同一言語の文学ジャンルにも差異があり、同時にそれらを越えて伝わる詩情もあろう。俳句と詩でいえば、一種の「写生」句や有季定型を駆使した句は詩人に伝わりにくく、逆に芭蕉等の古典や、昭和の前衛俳句等は感じとりやすいかもしれない。その点、曾根毅(一九七四~)は現代詩に心を寄せる人士にも受け入れられやすい俳人であるかに感じられる。

 曾根は最晩年の鈴木六林男――「追撃兵向日葵の影を越え斃れ」等を詠み、大阪で結社「花曜」を率いた前衛系俳人――に師事し、六林男没後も句作を続ける。二〇一四年に第四回芝不器男俳句新人賞を受賞し、その副賞として句集『花修』を上梓した。曾根が新興・前衛俳句の系譜を継承する俳人としては、句集中の次の句群が分かりやすいだろう。

  この国や鬱のかたちの耳飾り
 悪霊と皿に残りし菊の花
  爆心地アイスクリーム点点と
 少女また桜の下に石を積み
 五月雨や頭ひとつを持ち歩き
 原発の湾に真向い卵飲む

 これらに見える語彙や取り合わせ等は「ホトトギス」系の俳句観に見られないもので、師匠の鈴木六林男が戦前から属していた新興俳句系の雰囲気が濃厚であり、また俳句業界以外でも理解されやすいかもしれない。無論、これのみが曾根の特色ではなく、次の句群は季語が条件付けられた有季定型の興味深い側面が見られる。
   
 教室の家族写真や花曇
 どの部屋も老人ばかり春の暮
 家族より溢れだしたる青みどろ
 水風呂に父漂える麦の秋
 神官の手で朝顔を咲かせけり

 これらは言葉の目指すべきコンテクストが奇妙にぶれており、先の引用句群と異なる特徴を湛えている。ただ、それは俳人と詩人では受け取り方が異なるであろう。

 ところで、『花修』所収の次の句は他言語に翻訳しても「詩」として理解されやすい可能性が高い。深刻、ユーモラス、超現実、感傷…いずれが強調されるかは、文化やジャンルによって異なるかもしれないが。

 我が死後も掛かりしままの冬帽子  毅

--------------------------------------

以上である。補足的に加えると、「この国や~」句以下の引用句は、おそらく俳句を専門としない文学関係者にも魅力的に感じられる可能性が高い。それは、氏が「新興・前衛俳句の系譜を継承する」(上記本文)措辞や趣向をよく身につけた俳人であることと無関係ではあるまい。

一方、「教室の家族写真や~」以下の引用五句は、「この国や~」以下の六句と位相が異なるかに感じられる。
 
まず、奇妙な実感が痕跡のように句に宿っている点だ。それも「家族写真」「水風呂」「神官」等の名詞でなく、下記の

・「家族写真『や』」
・「家族『より』溢れ『だしたる』」
・「水風呂に父『漂える』」

…の『 』に見られる動詞や助詞に作者の割り切れない実感が宿っている。「割り切れない」というのは句の内容や意味、または取り合わせの新鮮さや既視感といった論者側の判断からこぼれ落ちる類の作者の実感の痕跡に他ならない。

それらは、奇妙な「何か」として作品内に安らいつつも何物かの残余として佇んでおり、その足元から伸びる影はそれぞれの句の季語の詩情をいささか変質させているかに感じられる。

例えば、「教室の家族写真『や』」というある感情のクライマックスが示されつつ、それらを引き取るとともに一句を締めくくるのは「花曇」であった。なぜ、「花曇」でなければならなかったのだろうか。作者はなぜ、季語「花曇」をあしらうことで一句は完成したと判断しえたのであろう。

無論、そこから何かの意味や物語を見出すことはできようし、この取り合わせに説明を付すこともできよう。ここで述べているのは、一句に「説明を付す」以前に作品のありようである。

 加えて、「教室の~」以下の六句は、私見では作者の述べたかった何物かと、結果として有季定型に助けられつつ出来上がった作品の間にはいささか溝があるかに感じられる。これを否定的に捉えるのではなく、むしろ曾根氏のある種の作品に見られる奇妙な齟齬として肯定的に見なした方が、「俳句」として面白いかに感じられる。


■以上、補足的にとりとめなく私見を綴った。芝不器男俳句新人賞受賞作ということもあり、世間的には称賛か批判、または肯定や否定といった判断が性急に下されることが多いかもしれない。
 
 「私は『花修』が好きだ」
「私には『花修』はさほど面白くなかった」
 「『花修』の佳作を挙げると、○○、○○である」云々

 ……と、これらのように価値判断を性急に下すのはある意味簡単ではある。そうではなく、肯定や否定等の判断の手前に留まり、句集『花修』の句群はどのようなあり方で、なぜそのようなあり方でなければならなかったのか、あるいは作品が見せる表情と作者が見せたかった表情は合致していたのか否か、仮にずれがあるならばそれは意図的なのか、無意識であったのか…等々を検討することで曾根毅という俳人の佇まいを考察することは、『花修』に対する価値判断とはおよそ別の営為であろう。




【執筆者紹介】

  • 青木亮人(あおき・まこと)
1974~、近現代俳句研究。現在、愛媛大学。単著に『その眼、俳人につき』(邑書林)、編著に『都市モダニズム詩誌22 俳句・ハイクと詩2』(ゆまに書房)、学術論文に「スケート場の沃度丁幾 山口誓子の連作について」(『スポーツする文学』所収)、「明治の蕪村調、俳人漱石の可能性について」(「日本近代文学」)など。









【曾根毅『花修』を読む 5】  ネガの貫之 / 橋本小たか


          
正岡子規が大いにくさしたせいで俳人にも有名になった。

『古今和歌集』であって、四季の巡りと朝廷の繁栄を予祝する、我が国はじめての勅撰和歌集。歌いぶりはめでたく大らか。たとえば素性法師の「見わたせば柳桜をこきまぜて宮こぞ春の錦なりける」。

どうしてめでたく大らかな気がするのだろう。もちろん『新古今』ほどに内容が込み入ってないということもある。しかし、先ほどの歌を声に出してみれば、あるいは、

霞たちこのめも春の雪ふれば花なきさとも花ぞちりける
というような紀貫之の春の歌を口すさんでみれば、もっとシンプルな秘密にわれわれは気づかないだろうか。アカサタナなど、「ア列」の多用である。

貫之の歌は「かすみたち」とはじまる。「このめも」とくぐもったかと思うとすぐさま「はるのゆき」。「ふれば」を前ふりのようにして、「はななきさともはなぞ」と「ア列」が怒濤のように連続する一首のサビにむかう。そして「ちりける」と収束。

貫之の秋の歌を見てみよう。

やどりせし人のかたみか藤袴わすられがたき香ににほひつつ

先ほどの「霞たち」と「ア列」の使い方がよく似ている。ほとんど「ア列」を際立たせることに主題を置いた、言葉の音楽のように見えてこないだろうか。

あのころの歌は宴など大勢が集まるパブリックな場で披露され、喝采を浴びるための芸だったから、花やかな調子が必要だった。四季の運行を司る神様を鼓舞するにも明るさは必要だったに違いない。アイウエオの中で最もひらかれた「ア列」の音は朗朗と人へ神へ歌い上げるための要だった。

そして曾根俳句もまた、「ア列」でできている。

立ち上がるときの悲しき巨人かな


のっけから「たちあがる」「かなしき」。その他、句集前半から「ア列」多用の句をざっと拾ってみよう。

桃の花までの逆立ち歩きかな
かかわりのメモの散乱夕立雲
玉虫や思想のふちを這いまわり
影と鴉一つになりて遊びおり
かたまりし造花のあたり春の闇
初夏の海に身体を還しけり
玉葱や出棺のごと輝いて
墓場にも根の張る頃や竹の秋
五月雨や頭ひとつを持ち歩き
或る夜は骨に躓き夏の蝶

引用句を飛ばさずまじめに読んだ人には、そのほとんどが「ア列」ではじまり中七でくぐもってまた「ア列」に還るという不思議にパターン化された音楽となっていることが分るだろう。ちょうど、貫之のように。

曾根が『古今集』その他王朝和歌から、宴の調子を学んだとは言わない。

ただ「ア列」の多用によって無意識に感じさせられる明るさ・めでたさ・大らかさの中で、われわれ読者はその予感を裏切るいささか不吉な言葉の連なりを見守ることになる。めでたい口調で不吉なことを詠むこの調子は、きっとオーウェルの『1984』ではなく、ハックスリーの『すばらしい新世界』に近い味だ。

そしてもう一つ、この「ア列」多用のため、曾根の句のパブリックな性格が高まるという事情も重要だ。それは一個人のつぶやきというよりも、ちょうど宴で披露されたあの宮廷歌人たちの和歌に似て、音がひらかれている。貫之の歌の声量が大きかったように、その入れ込まれている内容自体はポジとネガのように明暗反転しながら、曾根の句もまた声量が大きいのだ。曾根俳句は二十一世紀という宴に参加せざるをえないみんなのための歌だった。そういえば、例のセシウムの句も「薄明と…」と、めでたく「ア列」から始まる。

おもしろいのはこうしたスタイルが、『花修』という(そう、「ア列」はじまりの)タイトル及び表紙の美しいイラストと、その中身の関係にも当てはまることだろう。ここにもまた、からっと不吉な「すばらしい新世界」がひろがっている。彼は本の形式を利用して自らの句風を再現した。


さて、ことのついでに曾根の作品から上五に使われた「ア列」はじまりで且つ曾根らしいマイナスイメージの単語を拾ってみよう。

爆心地、敗戦日、悪霊、墓場、般若、化野、断崖、三界、暗室

つぎは、唐突な出だしシリーズ。

かたまりし、限りなし、ありありと、傾いて、やがて微塵の

※『古今和歌集』の歌は岩波文庫版(佐伯梅友校注)から引いた。ただし一文字開けは反映していない。




【執筆者紹介】

  • 橋本 小たか(はしもと・こたか)







2015年10月23日金曜日

【曾根毅『花修』を読む 4】  「この世」の身体によって  『花修』覚書   岡村知昭


 
 夏のはじまる前に届いたこの一冊を、秋の真っただ中で読み返しながら、ある一句からもたらされる手ごたえの拠って立つところはいったい何なのか、この一冊がもたらそうとする「手ごたえ」はどこへ読み手を連れていこうとしているのかを、しきりに考えさせられてしまうのであった。もちろん読んだあとに「つかみとった」と感じとった「手ごたえ」のありようはいくらでも存在して、そのたびに言葉を尽くそうとするのに、かえって言葉を選びだせずじまいとなってしまう。そんな鑑賞という行為の苦心の繰り返しから、『花修』に収められた作品たちがもたらしてくれた「手ごたえ」として、まずはっきりとしているのは、作品中に登場する「もの」たちそのものが持ち合わせている質感の確かさ、いわゆる「物に託す」からもたらされる(と思われている)像や抒情からはどこかはみ出しているように思えてしまう、そんな「物」たちの姿である。

 いつまでも牛乳瓶や秋の風

 この一句を読んだときに浮かび上がってきたのは、牛乳瓶を形作っているガラスの分厚さであり、曲線と直線を併せ持った瓶そのものの形なのであった。この一句と出会う前に、牛乳瓶をモチーフとしたほかの方の作品は見かける機会が多かったのだが、これまでの「牛乳瓶」の作例を見てみると、空っぽになった牛乳瓶に季節の花を挿そうとしているものが目立っていたように思われる(わたしも試みたことがあるのもので)。しかし、この一句における牛乳瓶は「いつまでも」あくまでも、徹底して「牛乳瓶」であり「牛乳瓶」以外の何ものでもない。分厚いガラスによって形づくられたびんそのものの質感は秋風をかき分けながら、読み手へ向かって押し寄せてくる。そこにはかつてよく見かけていたのに、今ではなかなか見ることができなくなっている「牛乳瓶」へのノスタルジーも含まれているかもしれない。だが、そんなノスタルジーすらも、この一句の「牛乳瓶」はたちまち跳ね返してしまい、さらに己が質感をはっきりと示してやまないのである。

 殺されて横たわりたる冷蔵庫

 この一句における「冷蔵庫」の質感も、普段の冷蔵庫のそれとは大きく異なっているように感じられる。「殺されて横たわ」っている冷蔵庫ということは、すでに本来の役割を果たしていないだけでなく、これから解体され、捨てられることがあらかじめ定められている、つまり殺されるだけでなく、これまでの働き、これまでの存在を徹底的に存在しなかったことにされてしまうのだ。

 だが、死体同然の見立てられ方をされてしまった冷蔵庫は、それがゆえに物としての質感を増し、さらなる重みを手に入れている。まるで電気が通わなくなってしまったことによって、新たな命を吹き込まれたかのようだ。「殺されて」は自分自身のことではないか、との読みも可能なのだが、そのときも冷蔵庫は「殺されて」しまた自分自身の目に、これまでにない、恐るべき質感を持って立ち現われてしまっている。それはそうだろう、なにしろ冷蔵庫は生きているのに、自分は生きていないのだ。

 玉虫や思想のふちを這いまわり 
 暴力の直後の柿を喰いけり

 玉虫と思想、柿と暴力、どちらも一見したところ物が概念に押しつぶされてしまいかねない危惧を抱かせてしまう取り合わせなのにも関わらず、玉虫は「思想」に対し、柿は「暴力」に対し、そのくっきりとした質感を持って拮抗し、むしろ押し返してしまっているかのような印象を与えている。

人によって生み出されたにもかかわらず、逆に数多くの人の命を呑みこんだり、操ったり、そしてさまざまに装いを変えながら、なおも飽きもせずにさまざまな意味での支配の道具となってしまっている「思想」の数々の うつろさ、いかがわしさ。そのような人の営みのまわりをただ這いまわることのみで痛烈な一撃を与える玉虫たちこそが、真に「思想」を行っている存在であるのかもしれない、との恐れは、玉虫たちの蠢きのまぶしさがくっきりしているからこそである。

一方、圧倒的な「暴力」にさらされていくつもの傷を負っているのであろう柿。季節の営みによるものか、それとも人の手によるものなのかは、ついにわからないままに木の枝からもぎ取られ、これから人によって喰われるという、さらなる「暴力」にさらされている柿。しかし、終わることのない危機、逃れられない絶望が、柿の質感にさらなる深みを与え、たくましさと眩しさとを兼ね備えた存在への変身を可能なものにした。この柿はどこまでもこの世において「柿」でありつづけるのである。

ここまで一句の中でモノがもたらしている質感を軸に見直してきて、『花修』のハイライトのひとつとなっている、震災と原発事故を背景とした作品群への賛否が分かれる理由がようやく見えてきたように思われた。

薄明とセシウムを負い露草よ 
桐一葉ここにもマイクロシーベルト 
山鳩として濡れている放射能

 
 「薄明とセシウム」を背負わされてしまった露草は、露草であり続ける危機を背負い続けなくてはならない、つまり露草はすでに敗れてしまっているのだ。「桐一葉」も「マイクロシーベルト」という単位の前にひれ伏さなければならない、なぜならこの桐の葉に注がれる視線は大きく変わってしまったから。雨に濡れた山鳩は合わせて「放射能」をもその身にまとってしまい、山鳩が放射能を浴びたのか、それとも放射能が山鳩に取り憑いてしまったのか、との好奇のまなざしにさらされたまま、立ち尽くしているかのように濡れ続けなければならない。だがこのとき、真に質感を発揮しているのは、露草なのかセシウムなのか、山鳩なのか放射能なのか、その疑問に対する答えが鮮明に立ち現われない印象がどうしても残ってしまう。

これらの作品たちにおいて、もともと質感がより露わとなって読み手に迫ってこなければならないのは「セシウム」「マイクロシーベルト」「放射能」といった、まぎれもなく人々と世界に危機を及ぼしている物たちであるはずなのだ。しかし、「セシウム」も「放射能」も確かに抽象ではないが、確かに目に見える形を持ってはいない。その上、一気に押し寄せてきたこれらの語彙を、なんとか受け止めようとする作業の困難さはいまもなお計りしれない。そのため一句の中で取り合わせる作業がくっきりと行われにくくなってしまい、一句の中における物の質感を高めるまでの効果がもたらされているかについて、読み手に一句そのものの質感に対する疑問を抱かせてしまう結果へと、つながっているのではないだろうか。以下のような、物たちが充実した質感を持っていることによって成立している作品が揃っているだけに、懸命さが及ばなかったと思われる点が、より目立ってしまったのはいたしかたないのではあるのだが。

木枯の何処まで行くも機関車なり
白菜に包まれてある虚空かな
死に真似の上手な柱時計かな
停電を免れている夏蜜柑
木枯に従っている手や足ら
威銃なりし煙を吐き尽し
葱刻むところどころの薄明り
ところてん人語は毀れはじめけり

 そして読み手は考えさせられるのである。豊かな質感を与えられている『花修』の「物」たちは、いったい何を語りだそうとしているのか、いやほんとうは語ろうとなどしていないのではないのか、と。

 滝おちてこの世のものとなりにけり

 「この世のもの」などともったいぶった書き方は、普段のこの作者ならまず選ぶことなどないはずの代物のはずだ。しかし「落ちて」でなく「おちて」を選んだのと合わせて、この危うい「この世のもの」との把握を選び取った。いま滝から落ちてきた水も、滝を見ている自分も、神秘でもなく、驚異でもなく、悟りや諦念といったいくらでも付け加えることのできそうな意味付けなどを乗り越えて、「滝から水は落ち、私はここに立っていて、すべて「この世」のことである。そのようにつかみとったとき、滝の水はひたすらに水として、「この世」にむかってまっすぐに落ちてくる。滝から落ちてくる水の質感の豊かさはいうまでもないのだが、その豊かさによって「この世のもの」との書き方がもたらそうとする饒舌を、なんとか食い止め、そこから滝を見る私の質感へ広がりを見せようとする。その先にあるのは「この世」そのものが持つ質感をより確かなものとしようとする試みとなるのだろう。

 祈りとは折れるに任せたる葦か

 「人は考える葦である」というよく知られた箴言を踏まえながらも、この一句で見出そうとしているのは人がなにものかに「祈る」ときの姿勢のもろさ、危うさそのものなのである。両手を合わせたり、あるいは組んだり、ひざまづいたり、座ったり、頭を下げたり、とさまざまな姿勢をとる人々を見守りながら、そのときの身体の「折れ」を見逃さないのは、敬虔な祈りの裏側にもしかしたら「祈り」によって「考える」ことを見失ってしまっているのかも、との疑いから、どうしても逃れられなくなってしまったからだ。だからといって「祈り」という行為へと人々を突き動かす弱さを、責め立てようとするのでは決してない。「折れる」ばかりなのは、いまこのときの自分自身の姿であるかもしれないのだ。だがいかなる「祈り」も現世を乗り越えることはできない。それを承知で身体を折り曲げ、祈り続ける美しさに、「この世」そのものが持つ豊かな質感を見出そうとしているのだ。もちろんそれは、当然のことなのだ、『花修』は作品によって何かを語りだそうとする以前に、「この世」が持つ豊かな質感の数々に突き動かされながら、書き継がれてきた句集であるのだから。
 



【執筆者紹介】

  • 岡村知昭(おかむら・ともあき)

1973年生まれ。「豈」「狼」「蛮」所属、現代俳句協会会員。共著に『俳コレ』(邑書林)





【曾根毅『花修』を読む 3 】 行進する世界  小鳥遊栄樹



以前( )俳句通信第五号にて「花修」の句集評を掲載させていただいたので今回はそれとは違うことを書こうと思う。興味がある方は( )俳句通信のバックナンバーもチェックしていただきたい。

くちびるを花びらとする溺死かな
墓標より乾きはじめて夜の秋
夕焼けて輝く墓地を子等と見る
暴力の直後の柿を喰いけり
快楽以後紙のコップと死が残り

 掲句は花(平成十四年~十七年)から引用した。序盤から「溺死」「墓標」「墓地」「暴力」「死」など、決して明るいとは言えない句材が多く見られるのが「花修」の特徴だと思う。背景に「震災」を匂わせているところが大きいのだろうか。暗い句集なのかと思えば、


きっかけは初めの一羽鳥渡る

 一匹の鳥が飛び立った。その後を追うように三羽四羽五羽…と飛び立っていく。爽やかさを感じる句や、

おでんの底に卵残りし昭和かな
恐らく屋台だろう、おでん出汁の底からぬっと顔を出す煮卵が電球に照らされてつやつやと光っている。懐かしさにも似た曾根氏の実感が下五に表れているような暖かい句や、


天牛の眼が遊び始めたる
地球より硬くなりたき団子虫
一句目、眼をキョロキョロさせているのだろうか。僕はどちらかというと触角を揺らしているような景が思い浮かんだ。

 二句目、丸まっている団子虫の気持ちを代弁したような語り方に面白味を感じる。
このような面白味のある句など、他にもバリエーション豊富に掲載されている。

「花修」のもう一つの特徴として、俳句であまり使われることがない言葉が多く見受けられる。セシウムやマイクロシーベルト、プルトニウム等に関しては( )俳句通信の方に掲載させていただいたので割愛する。

玉虫や思想のふちを這いまわり
憲法と並んでおりし蝸牛
玉葱や出棺のごと輝いて
樹脂管を探しておりし稲光
これらの「思想」「憲法」「出棺」「樹脂管」などは俳句で使われることがほとんどないように思う。それらの言葉を無理なく自然に詠み込んでるのは「花修」の特徴であり、魅力であろう。


冬めくや世界は行進して過ぎる
俳句は瞬間を詠む文学である、とよく言われる。「花修」の世界は一句一句の瞬間と瞬間とが緩やかに繋がって、まるで行進する世界のように一つの物語として読者を楽しませてくれる。




【執筆者紹介】

  • 小鳥遊栄樹(たかなし・えいき)

「里」同人、「群青」同人、「若太陽」所属、「ふらここ」所属





2015年10月16日金曜日

【曾根毅『花修』を読む 2 】  ‐超現代アニメ的技巧‐    川嶋ぱんだ




曾根毅句集『花修』を評する前に言いたいことがある。それは近年のアニメの仕掛けが凝っているということだ。先日『輪わるピングドラム』というアニメを見ていた。その中で荻野目苹果という少女が「プロジェクトM」という計画を実行しようとする。この「プロジェクトM」の実態について始めは分からないのであるが、物語の中に「M」という頭文字のキーワードがいくつか存在している。視聴者はこの「M」が何を表しているのか推測しながらストーリーを観ていくのだ。『花修』の話に戻る。この『花修』は大阪中崎町にある葉ね文庫で初めて見た。店長さんと「句集なのに花修なんだね」と話したことを記憶している。この花修というタイトルは歌集とのダブルミーニングを意識しているのかと思いきや、「あとがき」で別のところからの引用であることを明らかにしている。しかしどこまで考えられているのか。曾根さんの術中にある気がする。やっと句について触れるが

桐一葉ここにもマイクロシーベルト 
薄明とセシウムを負い露草よ 
燃え残るプルトニウムと傘の骨

それまで知らなかったマイクロシーベルトやセシウムといった言葉が理解語彙になるまで福島の原発の影響は大きかった。それは否めないし、強烈な句である。しかし、私が最も気になったのは

快楽以後紙のコップと死が残り

という句だ。実はこの句、超現代アニメ的一句でないかと私は思っている。「紙のコップと死が残り」というフレーズは絶望を感じさせるが、同音で「神のコップと詩が残り」とすると一転、救いになるのだ。つまりこの一句の中に現代アニメ的なダブルミーニングが仕掛けられていると私は思っている。強烈なことばを用いた原発俳句の中に潜んでいる仕掛けが新たな俳句を切り開いていくかもしれない。




【執筆者紹介】

  • 川嶋ぱんだ(かわしま・ぱんだ)






【曾根毅『花修』を読む 1 】 ー事象の裏側への肉迫― 寺田人



句をメモしながら読み進め、目にした瞬間、手が、目が、心臓が止まった句がある。

この国や鬱のかたちの耳飾り

この句が、日本列島の形状について言及するものか、この国の政治・国際的な立場について言及するものかはわからない。だが、この国について言及する上で「鬱のかたちの耳飾り」という比喩の使用、さらに鬱という無形のものをそのメタファーのシンボルとして扱う技量に驚愕した。


「花修の句は良し悪しの判断ができない」「スラスラと読めない」そう思いながら読み進めていた私の思考が停止したのはまさしくこの句を読み下した瞬間。良し悪しの判断、好悪の判断をしながら句集を読むのは私の悪癖であるかも知れないが、それ以前に「解釈ができない」。脳髄に言葉を叩きつけられたような心地だった。


「あれだけの衝撃を与えられては読み進められない」「しかし、もっと読み進めたい」という自己矛盾を結局のところ一ヶ月近く抱え、公私ともに万全の状態でトライしたところ、なんとか通読できた。そして、掲句に対して自身なりの解釈を手に入れることも。

くちびるを花びらとする溺死かな 
暴力の直後の柿を喰いけり 
地に落ちてより艶めける八重桜 
五月雨のコインロッカーより鈍器 
水吸うて水の上なる桜かな 
凍蝶の眠りのなかの硬さかな
殺されて横たわりたる冷蔵庫


被災詠の色濃いものは、全て除外した。「天災に遭った後の人間の詠ずるものは全て被災詠である」という持論があるからである。被災詠であることをモチーフで表現しなくとも曾根さんの句には十二分に被災詠の要素が盛り込まれているのではないか。


福島ほどの被害ではないが、私も幼くして阪神大震災を経験した身。精神や心、魂と呼ばれるものがあれば、そこに染み付いていることだろう。それほどに、自然の暴力は強く激しく恐ろしい。そして、被災後の句全てにその被災の経験がもたらした魂の傷が表れているのではないか。

そしてまた思う、被災詠以上に着目されるべき曾根さんの句の魅力があるのではないか、と。死を、暴力を、人間や事物の暗闇を捉えた句が多く、胸が苦しくなるような重厚な、そして、どこか後ろめたさのある読後感は、それによる物だろう、と。出てくる数々の句の「事象の裏側」に肉迫する句風が、ニヒルでもあり、またシュールでもある。


曾根さんの句風の特徴として「事象の裏側」というものを提示したが、それだけではない。「比喩・擬人化の効果的な利用」「句材として新鮮なものを俳句に浸透させる力」「事象の裏側ゆえの理不尽」「観念的・空想的な句であっても現実へ回帰させる技量」など、様々な手法が見える一冊だ。


今回最も収穫が大きかったのは曾根さんにとっての「事象の裏側」、つまり「常に自身が抱いている思想を句に反映させることが可能である」ということだった。私はまだまだ初学の身、写生を心がけよ、と言われるが、「見たままを描くのであればそこに自身の思想が入り込んでしまうのはむしろ当然」という着想を得たように思う。それができたのは、後述の句のおかげかも知れない。

明日になく今日ありしもの寒卵

事象の裏側を詠む、今日あるもののシンボルとして寒卵を効果的に利用する、寒卵の現実感で実感を持たせるなど、曾根さんの持つ句風の真骨頂だ。


今日当たり前だと思っていたことが、明日は当たり前ではないかも知れない。それは被災後の曾根さんの魂の古傷でもあり、現在抱いていらっしゃる思想かも知れない。この日常という平凡なものが突如として非日常へと変化する可能性があるという「事象の裏側」に心を揺さぶられた。そしてまた同時に、「私の思想もまた、句の中に反映されるのではないか」という新たな期待を私に抱かせてくれた。


明日になく今日ありしものがあるならば、今日になく明日ありしものもまたあるはず。大きな収穫とともに素敵な時間を過ごさせていただいたこの「花修」という句集を生涯傍らに置きたい。



【執筆者紹介】

  • 寺田人(てらだ・じん) 
句歴:4年 所属広島大学俳句研究会H2O、関西俳句会ふらここ、Skype句会くかいぷち運営




【曾根毅『花修』を読む 】  掲載インデックス (連載期間 2015/10/2-2016/4/22 )

※日付は掲載日
2015/10/2
■ (序)    …筑紫磐井 》読む

2015/10/16
【曾根毅『花修』を読む 1 】   ー事象の裏側への肉迫―  …寺田人  》読む
2015/10/16
【曾根毅『花修』を読む 2 】  ‐超現代アニメ的技巧‐   …川嶋ぱんだ 》読む
2015/10/23
【曾根毅『花修』を読む 3 】 行進する世界  …小鳥遊栄樹  》読む
2015/10/23
【曾根毅『花修』を読む 4】  「この世」の身体によって 『花修』覚書  …岡村知昭 》読む
2015/10/30
【曾根毅『花修』を読む 5】   ネガの貫之   …  橋本小たか 》読む
2015/10/30
【曾根毅『花修』を読む 6】  『花修』のありか …  青木亮人 》読む
2015/11/6
【曾根毅『花修』を読む 7 】 眩暈  …   藤井あかり  》読む
2015/11/6
【曾根毅『花修』を読む 8 】    セシウムに、露草 … 天野慶  》読む
2015/11/13
【曾根毅『花修』を読む 9 】  つぶやき、あるいは囁き … 安岡麻佑  》読む
2015/11/13
【曾根毅『花修』を読む 10 】  『花修』立体花伝 ―21世紀の運歩―   …男波弘志  》読む


2015/11/20
【曾根毅『花修』を読む 11 】  水のように  … 藤田亜未  》読む
2015/11/20
【曾根毅『花修』を読む 12 】  花は笑う  … 丑丸敬史  》読む
2015/11/27
【曾根毅『花修』を読む 13 】  震災詠は苦手だった … 大池莉奈  》読む
2015/11/27
【曾根毅『花修』を読む 14 】  推敲というプロセス … 中村安伸  》読む
2015/12/4
【曾根毅『花修』を読む 15 】  見えざるもの …  淺津大雅 》読む
2015/12/4
【曾根毅『花修』を読む 16 】  曾根毅という男 … 三木基史  》読む
2015/12/11
【曾根毅『花修』を読む 17 】  おでんの卵 … 工藤 惠  》読む
2015/12/11
【曾根毅『花修』を読む 18 】  思索と詩作のスパイラルアップ … 堺谷真人 》読む
2015/12/18
【曾根毅『花修』を読む 19 】  彼の眼、彼の世界 … 仮屋賢一 》読む
2015/12/18
【曾根毅『花修』を読む 20 】  きれいにおそろしい … 堀田季何  》読む


2015/12/25
【曾根毅『花修』を読む 21 】  たどたどしく話すこと … 堀下翔  》読む
2015/12/25
【曾根毅『花修』を読む 22 】  墓のある景色 … 岡田一実  》読む
2016/1/1
【曾根毅『花修』を読む 23 】  永久らしさ  … 佐藤文香   》読む
2016/1/1
【曾根毅『花修』を読む 24 】  続〈真の「写生」〉  … 五島高資  》読む
2016/1/8
【曾根毅『花修』を読む 25 】   「対立の魅力」 …  野住朋可  》読む
2016/1/8
【曾根毅『花修』を読む 26 】   「花修」雑感  …  杉山 久子  》読む 
2016/1/15
【曾根毅『花修』を読む 27 】  贈られた花束 … 若狭昭宏  》読む
2016/1/15
【曾根毅『花修』を読む 28 】  終末の後に   … 小林かんな  》読む
2016/1/22
【曾根毅『花修』を読む 29 】  たよりにしながら …  宮﨑莉々香  》読む

2016/1/22
【曾根毅『花修』を読む 30 】  飲むしかない   … 宮本佳世乃  》読む
2016/1/29
【曾根毅『花修』を読む 31 】  極めて個人的な曾根毅様へのメール  … 家藤正人  》読む
2016/1/29
【曾根毅『花修』を読む 32 】  二度目の日常 … 田島健一  》読む
2016/2/5
【曾根毅『花修』を読む 33 】   現状と心との距離感 … 山下舞子  》読む
2016/2/5
【曾根毅『花修』を読む 34 】  ソリッドステートリレー … 橋本 直  》読
2016/2/12
【曾根毅『花修』を読む 35 】   還元/換言   …    久留島元  》読む
2015/2/12
【曾根毅『花修』を読む 36 】  虚の中にこそ  … キム・チャンヒ  》読む
2016/2/19
【曾根毅『花修』を読む 37 】  絶景の絶景 …  黒岩徳将  》読む
2016/2/19
【曾根毅『花修』を読む 38 】  変遷の果てとこれから … 宇田川寛之  》読む
2016/2/26
【曾根毅『花修』を読む 39 】  凶暴とセシウム  ・・・    佐々木貴子 》読む

2016/2/26
【曾根毅『花修』を読む 40 】  曾根毅句集『花修』を読む  … わたなべじゅんこ  》読む
2016/3/4
【曾根毅『花修』を読む 41 】  2016年2月、福岡逆立ち歩きの記―鞄の中に『花修』を入れて― … 灯馬  》読む
2016/3/4
【曾根毅『花修』を読む 42 】 世界の行進を見る目 … 大城戸ハルミ  》読む
2016/3/11
【曾根毅『花修』を読む 43 】  『花修』の植物と時間 … 瀬越悠矢  》読む
2016/3/11 
【曾根毅『花修』を読む44】   伝播するもの  … 近 恵  》読む
2016/3/18
【曾根毅『花修』を読む45】  まぶしい闇 … 矢野公雄 》読
2016/3/18
【曾根毅『花修』を読む46】  Giant Steps … 九堂夜想  》読む
2016/3/25
【曾根毅『花修』を読む47】  夜の端居  …  西村麒麟  》読む
2016/3/25
【曾根毅『花修』を読む48】  得体のしれないもの … 山岸由佳  》読む
2016/4/1
【曾根毅『花修』を読む49】  残るのか、残すのか … 表健太郎 》読む
2016/4/1
【曾根毅『花修』を読む50】 最後の弟子―『花修』をめぐる鈴木六林男と曾根毅 ・・・ 田中亜美 》読む

2016/4/8
【曾根毅『花修』を読む51】  「花修」を読む(「びーぐる」30号より転載)  … 竹岡一郎  》読む
2016/4/21
【およそ日刊俳句新空間より】  人外句境 38 [曾根毅] … 佐藤りえ 》読む


2016/4/22
■  評者を読む … 曾根 毅  》読む








2015年10月2日金曜日

【俳句新空間No.3】 大本義幸の句 / もてきまり



夕暮れがきて貧困を措いてゆく  大本義幸

「夕暮れ」の擬人化。「貧困」という観念の物質化に成功している。昼間は、人それぞれに生きるに忙しく、やれやれと一息つく夕暮れ時になるとなにやら佇まいの貧しさが気になるのである。あるいは人類の夕暮れ時、類としての貧困がどんと卓上に課題として措かれていく意にも取れる。時間的な遠近法といい、こうした句は作れそうでなかなか作れないものだ。他に〈ノンアルコールビールだねこの町〉日本中、どこへ行っても、やや安普請のノンアルコールビールふう町並が増えた。


<冊子【俳句新空間No.3】2015(平成27)年1月作品詠,新春帖所収>