2016年1月8日金曜日

【曾根毅『花修』を読む 26 】 「花修」雑感 / 杉山 久子



 次の間に手負いの鶴の気配あり

熱さと冷たさを同時に感じさせつつ緊張感を湛えた一句。選び抜かれた言葉がこれ以上ないバランスのもとに配されていて、ひどく美しい。

 句集全体を覆う不穏な気配、緊張感は、存在のよるべなさ、自分と自分を取り巻く世界の確かさと不確かさに否応なく気づかされる。それは震災を経て一層深い思いとなって言語化されはじめたのではないか。

 明日になく今日ありしもの寒卵 
 頬打ちし寒風すでに沖にあり 
 我が死後も掛かりしままの冬帽子 
夕ぐれのバスに残りし春の泥

そんな中、一通りではない感情を諧謔でもってさらりと詠んだ句に心なごみもする。

夜の秋人生ゲーム畳まれて 
秋風や一筆書きの牛の顔 
水風呂に父漂える麦の秋 
夏料理とぐろを巻いていたるかな 
秋深し納まる墓を異にして

 こんな暑苦しい「夏料理」の句は初めて見た。墓の句は、震災関連の句の中に置かれているので、一緒に墓に入るはずだった家族が離れ離れのままになってしまった悲しみを詠んだものかもしれないが、一句独立して読むと、私はむしろ安らぎを感じる。

 原子まで遡りゆく立夏かな 
 形ある物のはじめの月明り 
 台風の目より輝き子供たち

 恐怖や痛みを抱えながら、原初のエネルギーを取り戻そうと希求する姿を見る。
 
生と死の間にあるそのせめぎ合いを普遍的な思念にまで昇華させようとする試みが感じられる装幀も美しいこの一集を、これから幾度となく開くことになるだろう。

獅子舞の口より見ゆる砂丘かな


【執筆者紹介】

  • 杉山久子(すぎやま・ひさこ)