『花修』には人間がほとんど登場しない。作者はいつも一人で、その自由さを楽しんでいるようだ。
羽衣の松に別れを習いけり
化野に白詰草を教わりし
虫干や時折人を離れたる
松や化野から習い、人から離れる。人間という枠にとらわれず、あらゆる動植物や物質、果ては原子サイズのものとも平等な位置に立って、それらを見据えようとしているのだ。その目は鋭く正確で、そして時にはとても面白い風景を切り取る。私が特に心ひかれたのは、以下のような句だ。いずれも、穏やかな雰囲気の中に可笑しみが仕込まれている。
永き日のイエスが通る坂の町
春昼や甲冑の肘見当たらず
次の間に手負いの鶴の気配あり
鰯雲大きく長く遊びおり
教えを説きながら坂の町をほのぼの進んで行くキリストに、「おーい、甲冑の肘、何処へやったっけ」なんて声が聞こえてきそうな春昼。さらには隣の部屋には負傷の鶴(きっと機織りの天才)の気配。物語や人物像がどこかユーモラスで、くすっとしてしまう。まさに人間の枠を超えて、彼は「大きく長く」遊んでいるのだろう。
その一方で、彼はおそらく人間の最も重大なテーマの一つである死に対して、人一倍敏感である。
墓標より乾きはじめて夜の秋
我が死後も掛かりしままの冬帽子
春近く仏と眠りいたるかな
墓や死というダイレクトな言葉は句集のいたるところにちりばめられている。そのほかセシウムやマイクロシーベルトといった語句も、死のイメージとして登場するものなのかもしれない。そして死は、神や仏といった観念的なものを引き連れてくる。
『花修』には、作者の人間の枠を超えて自由に世界と対峙するという一面とどうしようもなく死にとらわれ続けるという一面の、はてしない対立がある。その対立こそが、この句集最大の魅力ではないだろうか。
【執筆者紹介】
- 野住朋可(のずみ・ともか)
関西俳句会「ふらここ」会員。