2016年1月22日金曜日

【曾根毅『花修』を読む 30 】 飲むしかない / 宮本佳世乃



今年の正月も箱根駅伝がテレビで放送された。画面のなかを走る学生たちはみな健気で、もちろん心身の限界まで頑張っていて、「挑む」という言葉がしっくりくると思ったものだ。そのなかに、襷をつなげなかった選手がズームアップされる。息を切らし、走り込んでゆく選手。あるいは意識が朦朧とする選手。お茶の間から感情が漏れる瞬間かもしれない。

もし、選手全員が顔を歪めたり息が上がる様子もなく、みんなが一列に笑顔で余裕綽々と走り抜けていたらどのような感情が沸くだろうか。



気が重い。
曾根毅の『花修』は、平成23年の東日本大震災、それに引き続く福島の原発事故を抜きにしては語れないと思うからだ。実に半分以上が震災に関する感情を述べ伝えてくる。まさに叙情、それに応えなくてはならない、それも道徳的に……といった、「第三者」がわたしに入り込んでくるのだ。

永き日のイエスが通る坂の町 
黄泉からの風に委ねて蛇苺
正確には、新年から開くにしては、気が重い句集なのだ。

それは、「セシウム」「プルトニウム」「マイクロシーベルト」といった、放射能関係の言葉が剥き出しになってそのまま「ある」ということもある。それから、「イエス」「十字架」「黄泉」「三界」などの言葉がそのまま「ある」句も散見されるからだ。あるいは、「鬱」。いや、まだそういった用語が絡んでいるほうが、読みやすいのかもしれない。


凭れ合う鶏頭にして愛し合う
スカートとポインセチアが無造作に
本句集の装丁と句群のように、愛と鬱は似ている。凭れ合うままに生きている。もしくは、開かれるままに。

ロゴスから零れ落ちたる柿の種 
音楽を離れときどき柿の種
柿の種の連作である。柿の種は、さよならは言わない。二句目が後にある。もちろん、そのほうがいい。

以前、週刊俳句第430号 では、震災以後、死に関する表現が「3人称の死」から「1.5人称の死(わたしとあなたの間の死)」に変化しており、さらにその死が自分に向かって「ある」ために俳句によって作者自身が照らされているのだ、といったことを書いた(つもりだ)。

繰り返しになるかもしれないが、死はその瞬間まで誰にも経験できない。同じように、危機的状況によってもたらされる事象は、一人ひとり異なるものであり、主観的であるがゆえ、他者には同じ経験はされることがない。

萍や死者の耳から遠ざかり

穴は空いたまま、埋まることはない。

もし、穴が埋まったと思うのなら、それは、違う盛り上がりができたからだ。

折れた柱は、修復できない。いくつかの柱に支えられて、天板のかたちに平衡を保って安寧があるとしたら、折れた柱以外が太くなるか、いくつかの柱の高さを合わせて平衡を保つしか方法はない。

原発の湾に真向い卵飲む

飲むしかない。何かに裂かれるほどに。息をするように飲むしかないのだ。



【執筆者紹介】

  • 宮本佳世乃(みやもと・かよの)

1974年東京生れ。2015年、「オルガン」を始動。「炎環」同人、「豆の木」参加。
句集『鳥飛ぶ仕組み』。