2017年4月24日月曜日

【俳句新空間No.3】 夏木久の句 / もてきまり


西行をクリックすれば花ふぶき 夏木久
夏木さんのPCのデスクトップには「西行」というアイコンがあり、そこをクリックすると「花ふぶき」のごとく沢山の作品がでてくる様子を想像した。最近、『神器に薔薇を』というハンドメイドの句集を上梓されたのだが、句集自体そのものがオブジェのようであり、所収されている句も攝津幸彦が生きていたら、思わずニヤリとするだろう句が並んでいる。他句に〈鮮明な義眼の夢を水中花〉「鮮明な義眼の夢を」というひねりようといい、下五の「水中花」をさらにゆらゆらと揺らす効果として格助詞「を」で切る技が冴えている。季語を手放すことなく前衛的な試みをしている作家だ。

2017年4月23日日曜日

【俳句新空間No.3】 筑紫磐井の句 / もてきまり


アガペーもエロスもつどへ盆をどり 筑紫磐井
おおまかに言えばアガペーとは神の愛、無償の愛。エロスは異性間にある愛と言えるか。まぁ、ここでは色々な愛が集え(命令形)と言っている。そして「盆をどり」をご一緒にということなのだ。この「盆をどり」とは、句会、吟行、結社、同人誌の集い諸々である。俳句は、奇しくも他者がいなければ成立しない表現形式なのだ。加えて〈一流であつてはならぬ俳の道〉なるほどと思った。俳句で一流、二流というのはないのかもしれない。大先生も、時にとてつもない駄句(しかし駄句の魅力というものはある)を発表するし、攝津幸彦のように母上(攝津よしこ:S55角川賞受賞・代表句〈凍蝶に夢をうかがふ二日月〉)に攝津の句を電話で披露したら「なんだい酔っ払いの句かい?」と言われたエピソードなどを思い出した。この無記名の句が真ん中にある表現形式の不思議さとその恩寵のようなものをいつも感じさせられている。 

2017年4月21日金曜日

【俳句新空間No.3】 真矢ひろみの句 / もてきまり



初夢の瓢箪鯰という構図 真矢ひろみ
瓢箪鯰は辞書に瓢箪で鯰をおさえるように、捕え所のない要領を得ぬ男をいうとあった。ここでは「という構図」とあるので、具体的な絵としての瓢箪と鯰であろう。初夢から滑稽まじる複雑な夢。具象画を提出しておいてアナロジーがいくらでもきく「という構図」。しかも中七のぬるぬる感を保証するべく下五で句の重心を効かせた技術的したたかさに感服。他句に〈三界の無明を照らす初茜〉凡夫が生死を繰り返しながら輪廻する三界(欲界、色界、無色界)の真っ暗闇が少しずつ茜色に染まりゆく。極めてアイロニーの効いた一句。

2017年4月18日火曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [佐藤りえ] / 小野裕三


厚着して紙を配つてゐる仕事  佐藤りえ
紙を配る仕事というのは基本的には単調な仕事のはずだ。仕事、という言葉でぶっきらぼうに句が終わるのは、そんな苛立たしさを言葉の行き止まりにぶつけているようでもある。だが、そんな気持ちとは裏腹に、手の動きに正確に正比例して紙束の山は着実に減っていく。そんな気持ちの停滞と物理的な進捗との間を繋ぐのが、その作業を執り行う肉体だ。なんとも板挟みのような肉体は、ただ厚い衣服に包まれるばかりだという。そんな幾層もの温度差の行き違いに、洒落た諧謔性の見える句。

2017年4月16日日曜日

【俳句新空間No.3】 北川美美の句 / もてきまり



チリ紙・水・電池を積みし宝船 北川美美


 東日本は、本当に地震が多く宝船も時代により載せる荷物が違ってくるのだ。今は非常時持出し袋の中味であるチリ紙・水・電池などを積んでいるという諧謔。他句に〈重箱の中はしきられ都かな〉年末、デパートなどで予約するお重などは細かく仕切られている。下五の「都かな」と表現されたことでまるで京の都のような料理の華やかさが目に浮かぶ。


2017年4月2日日曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [川島ぱんだ] / 小野裕三


風呂の中繋がっている冬の川  川島ぱんだ
一読した際に、「なるほどいいところを見ている」と感じたのだけれど、よく考えるとそんなはずもなくて、特に冬の冷たい川ともなれば、風呂と川が繋がっているはずもない。だとすれば、ぱっと句を見た時の印象として「いいところを見た」と思わせた、この不思議な錯覚は何なのか。きっと騙し絵みたいなもので、この言葉の配列をこの視点から見た時にしか、その錯覚は成立しないのだろう。なにやらカラクリめいたセンスが光る句。

2017年3月24日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [中西夕紀] / 小野裕三


夜店の灯平家の海を淋しうす  中西夕紀
栄華と零落。平家の血を彩る波乱の物語は、日本の風土のどこかに深く刻まれているのだろう。都が栄華という光の部分を象徴するものであれば、海は零落を想起させる影の場所だ。そして夜店もまた、たくさんの影に囲まれた小さな光の場所である。その対比を誰もが知っているから、夜店の明るさはどこか切ない。夜店を愉しんだ人はみな、巨大な夜の暗がりに押し戻されていく。まるで平家が落ち延びていった、あの海のような淋しさへ。

2017年3月17日金曜日

【俳句新空間No.3】もてきまり作品評 / 大塚凱



 前述(編集部注:俳句新空間No.3の中の作品評)の大本義幸や仲寒蟬の作品と同様に社会性に富んだ作品であったが、本作は退廃的なナショナリズムがひとつの大きな主題である。特に寒蟬の作品が「国家と戦争」を詠んだ一方、もてきまりの作品は「国家と私」により焦点が絞られている。

  えゝ踊りみせて裸木病む国家
実際の景としては、裸木が激しい風に吹かれているのだろうか。作者はそれを「えゝ踊りみせて」と表現した。「えゝ踊り」からは、江戸末期の混乱の中で広がったかの「ええじゃないか」という民衆の狂乱を思わせる。作者の眼に映る「国家」には、飢えた四肢のような裸木のしずかな狂気が満ちている。主観的・主情的な把握が「裸木」に投影されているという構成が鮮やかである。「裸木」の「裸」という文字が絶妙に利いているのではないか。

  しのぶれど死者は戻らずドラム缶
上五中七は一種の定型的なフレーズも言えるが、そこに「ドラム缶」と接着したことで死者のイメージとドラム缶がオーバーラップされた。ドラム缶は死者の冷たさや重たさ、つまり物体としての死者を象徴するようであり、一方では、偲べども死者は戻らぬという事実に直面した徒労感や虚しさをどこか象徴しているかのようでもある。

2017年3月10日金曜日

【俳句新空間No.3】堀本吟作品評 / 大塚凱


  蟻地獄臨月の身を乗り出すな
「蟻地獄」と「臨月」という言葉の衝突に惹かれた。他者の死を待つものと、他者の生を湛えるものとの対比が鮮やかだ。きっと蟻地獄を「覗く」程度の動作であろうが、「乗り出す」と大胆に表現したことで蟻地獄と人間のスケール比に不思議な狂いが生まれ、あたかも蟻地獄から人間を見上げているかのような視点すら感じられる。「乗り出す」という言葉の選択で既に句の面白さは十分に生まれているのだから、個人的には「乗り出すな」と述べてしまうよりも、臨月の身が蟻地獄に乗り出していると素直に描いた方がドライな詠みぶりで過不足ないと思うのだが、どうだろうか。

  堂々とででむし遅れ月は缺け
この句も「ででむし」と「月」のオーバーラップが面白い。「堂々と」「遅れ」ているという言葉の捻じれが巧みである。ででむしの存在感やある種の滑稽さも感じられるだろうか。缺けた月の動きがそのようなででむしのスピードと重ねあわされているかのようで、句に静謐さが満ちている。月もまた缺けながらも堂々たる光を放っているのであろう。作者の無聊なまなざしまでもが感じられる点に加え、珍しく夜のででむしが詠まれているという興もある。

2017年3月3日金曜日

【俳句新空間No.3】真矢ひろみ作品評 / 大塚凱


  林檎植うこと穢土に子をもたぬこと
「植う」は連体形の「植うる」としたいところではあるが、林檎を植えることと子をもたないことの並列が抑制して書かれた作者の感情を伝える。それは淋しさ、切なさ、気楽さなどと言った単語では表せないいびつな塊であろう。「林檎植う」が繋ぐ原初からの生命のイメージだ。

  人に添ふ冥きところに雪降り積む
「人に添ふ冥きところ」とはどこであろうか。影法師か、ひょっとしたら、それはもっと内的な「冥きところ」かもしれない。雪は眼前のものすべてに降りかかる。人間の影にも、そして、こころの影にまでも等しく降り積もる。雪はその「冥さ」を弔うように、慰めるように清らかに白い光を放つのである。

  電波か魂か初空のきらきらす
初空はなぜきらめいているのか。「電波」と「魂」の交錯がそのきらめきであるのだ、と独断した作者の把握である。電波と魂、つまり物理の世界と精神の世界のものがひとつの空の下で飛び交っているというドライな空想が面白い。初空の明るさを分析的に想像する視点のユニークである。様々なきらめきを包み込む初空の大きさが見えてくる。

2017年2月24日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [池田澄子] / 大塚凱



  
 
  東京広し銀杏落葉を踏み滑り 池田澄子


 「滑り」で一句になった。穏やかな秋空の下で、作者は銀杏並木を歩いているのだろう。普段はめったに意識しない東京の広さを、「踏み滑」ったときに意識したのである。そもそも、「東京の広さ」とはなんであろうか。たしかに、東京は世界の大都市と比べても面積が大きいけれども。しかし、滑った作者が仰げば、高層建築が空を押し広げている。銀杏の木々の上には澄んだ青空が広がっているだろう。滑ったときに仰いだそんな「東京の広さ」。そして、そのように滑ってしまった自分ひとりが、広い東京のなかで「ここに在る」という心地。蟻のようにあふれる東京の人間のひとりでありながら、並木道のなかでひとり滑ってしまった。そんなちょっとした恥ずかしさがユーモアの中に描かれている。

2017年2月17日金曜日

【俳句新空間No.3】豊里友行作品評 / 大塚凱


  小鳥来る我が煩悩と遊ぼうよ
「煩悩と遊ぶ」ということがどのようなことなのか僕にはわからない。わからないが、この句からは右肘を膝につき、さながら「考える人」のかたちで小鳥を眺めているような人物が見えてきたのである。どこか孤独なこころが小鳥の存在を求めているかのような詠みぶりだ。その一方で、「遊ぼうよ」にはなげやりで自虐的な含みをかすかに感じるのである。

  東京は春鍵盤のビルの海
都会がビルの海であるという把握には既視感を感じるが、「鍵盤」という一語が句を豊かにした。黒鍵と白鍵のような街の陰影、春の音色などが感じられてくる。

 本作品は他の二十句作品とは異なって、十句作品と「『桜』に見る季語再考」という文章から成っている。せっかくなので、文章にも目を向けたい。歳時記が春夏秋冬で区分されていることで「季節の多様な世界を俳句では詠めない」と述べた上で、沖縄での季感を異にする大和・江戸での季感で歳時記が決定されている現状を「中央集権的」だと批判している。前掲した「小鳥来る」の句が〈出稼ぎの父と雪来る上野駅〉と〈桜ひとくくりに活ければ 日の丸〉の間に並べられていることはその批判に基づくのだろうか。しかし、「上野駅」の直後であれば「小鳥来る」は東京であると解釈するのが自然であり、この句順はむしろ東京における「季節の多様な世界」に背いている。季節の変遷を、句を読み進めるスピードに伴って表現できることが、連作形式のひとつの効用であると僕は信じている。沖縄特有の季節感も同様に表現可能だろう。「季語再考」を謳うのならばせめて、この十句作品でそれを貫くべきではないだろうか。

2017年2月10日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [西村麒麟 ] / 大塚凱



  
  泳ぎゐる一塊のしめぢかな     西村麒麟  
  しめぢ又たぷんと浮かび来たりけり 同  
  沈めたるしめぢのことを思ひ出す  同

秋興帖の西村麒麟五句から三句を掲げた。五句全て「しめぢ」が季語である。「しめぢ」を執拗に描写する作者のまなざしにかすかな畏怖すら覚えた。「泳ぎゐる塊一塊」「又たぷんと浮かび」は「しめぢ」の質感を素直に描写していて妙。作者はキッチンの水にたゆたう「しめぢ」を慈しむが、両者には調理する者と調理される者という一般的な関係性が保たれている。ここに、読者が読みを深める隙が存在しているのではないか。そのドライな偏愛が〈沈めたるしめぢのことを思ひ出す〉に凝縮されている。

2017年2月3日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [小林かんな] / 大塚凱



  星涼し奴婢の運びし石の数 小林かんな
ピラミッド然り長城然り、古代の遺跡の莫大な石を運んだのは奴婢であったか。「石の数」という下五からは、巨大な石の壁を目の前にして驚嘆や畏怖の混ざり合った心地が感じられる。かつての奴婢と、ここに居る私。恐るべき石の姿と、それを見ている私。「星涼し」から広がる時間と空間である。どこか異国の香りのするのも、「星涼し」のこころだろう。

2017年1月27日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [竹岡一郎] / 大塚凱



  蟹星雲産んで溽暑のとほき股 竹岡一郎
超現実的な魔力を感じる一句だった。蟹星雲は牡牛座にある星雲。手元の広辞苑第六版によると、藤原定家の「明月記」と中国の記録とによって一〇五四年に木星ほどに輝いた超新星の残骸である、とのこと。ロマンあふれる星雲のことを、作者は考えている。その折り、「溽暑のとほき股」を見たのかもしれない。熱された大地のゆらぎの上に遠く立つ女。その生命が蟹星雲を産んだのかもしれない、と空想した。星雲を産むかのような女体の神秘は、星雲ほどの遥けさで我々と隔たっているのである。

2017年1月20日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [安里琉太] / 小野裕三



手花火に飽きて煙のなかにをり  安里琉太
ぽかんとした時空を詠んだ、ぽかんとした句。句の情報量はわりと少なくて、手花火から煙が出るのも、その煙の中に人がいるのも当たり前のことと言えるから、さらに加わる新しい情報と言えば「飽きた」くらいのことだ。しかし、このすかすかの情報密度が逆にいい。ぽかんとした気分と、それをとりまくぽかんとした時空が、ぽかんとした密度の情報形式にうまく反映されている。

【俳句新空間No.3】もてきまり作品評 / 大塚凱



 前述(編集部注:俳句新空間No.3の中の作品評)の大本義幸や仲寒蟬の作品と同様に社会性に富んだ作品であったが、本作は退廃的なナショナリズムがひとつの大きな主題である。特に寒蟬の作品が「国家と戦争」を詠んだ一方、もてきまりの作品は「国家と私」により焦点が絞られている。

  えゝ踊りみせて裸木病む国家
実際の景としては、裸木が激しい風に吹かれているのだろうか。作者はそれを「えゝ踊りみせて」と表現した。「えゝ踊り」からは、江戸末期の混乱の中で広がったかの「ええじゃないか」という民衆の狂乱を思わせる。作者の眼に映る「国家」には、飢えた四肢のような裸木のしずかな狂気が満ちている。主観的・主情的な把握が「裸木」に投影されているという構成が鮮やかである。「裸木」の「裸」という文字が絶妙に利いているのではないか。

  しのぶれど死者は戻らずドラム缶
上五中七は一種の定型的なフレーズも言えるが、そこに「ドラム缶」と接着したことで死者のイメージとドラム缶がオーバーラップされた。ドラム缶は死者の冷たさや重たさ、つまり物体としての死者を象徴するようであり、一方では、偲べども死者は戻らぬという事実に直面した徒労感や虚しさをどこか象徴しているかのようでもある。

2017年1月13日金曜日

【俳句新空間No.3】夏木久作品評/ 大塚凱


 本作は西行の和歌十二首を引用し、その一句一句に問答する形で計十二句が並べられている。西行の〈心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ〉に対して〈もうすでに自暴自棄なり百合鷗〉と遊んだり、かの著名な〈道のべに清水ながるる柳陰 しばしとてこそ立ちどまりつれ〉には〈墨東の柳にティッシュもらひけり〉と滑稽さで応えている。

   月を見て心浮かれしいにしへの 秋にもさらにめぐり逢ひぬる

  月光は土砂降り子らの踊り出し
この句の「踊り出し」を季語と捉えるかどうか難しいところだが、月光のなかで子らが踊に混じり出したと解釈した。「月光が濡れている」などの表現はかなり手垢がついてしまっているが、「土砂降り」まで言い切った大袈裟が良い意味で馬鹿馬鹿しい。

   吉野山こずゑの花を見し日より 心は身にもそはずなりにき


  鮮明な義眼の夢を水中花
不思議な句だった。義眼が水中花を見ている空想のようだが、義眼を水中花が比喩しているようでもある。そのわからなさが一種の魅力なのであろう。義眼のまなざしの向こうに、一輪の水中花が灯っているようだ。



2017年1月6日金曜日

【俳句新空間No.3】 真矢ひろみの句 / もてきまり



初夢の瓢箪鯰という構図 真矢ひろみ
瓢箪鯰は辞書に瓢箪で鯰をおさえるように、捕え所のない要領を得ぬ男をいうとあった。ここでは「という構図」とあるので、具体的な絵としての瓢箪と鯰であろう。初夢から滑稽まじる複雑な夢。具象画を提出しておいてアナロジーがいくらでもきく「という構図」。しかも中七のぬるぬる感を保証するべく下五で句の重心を効かせた技術的したたかさに感服。他句に〈三界の無明を照らす初茜〉凡夫が生死を繰り返しながら輪廻する三界(欲界、色界、無色界)の真っ暗闇が少しずつ茜色に染まりゆく。極めてアイロニーの効いた一句。