2016年10月28日金曜日

【俳句新空間No.3】 坂間恒子の句 / もてきまり



水鳥の副葬品のごとき声 坂間恒子
うーん、秀句なり。水鳥のあのいっときも整わない群れの鳴き声と遠い時代の副葬品が発見された時の(人骨の一部やら壺の破片やらがばらばらに赤土に現れた)光景とがオーバラップしたのだ。水鳥の声(音)を「副葬品」という景(絵)に転換させた感性がすばらしい。ごとき俳句はいちようにダメなんてことはない。そうしたタブーを乗り越えている。〈のぼる陽と我の真中の浜焚火〉二〇一一年の津波後を非情にも繰り返し「のぼる陽」(極大の赤)と内在化された言葉の「我の真中の浜焚火」(極小の赤)が拮抗していて緊張感ある一句を仕立てた。

2016年10月21日金曜日

【俳句新空間No.3】網野月を作品評 / 大塚凱



  こっちのとそっちのこがらしごっつんこ
こがらしという風には独特の、さびしい質量を感じる。春風や秋風と比べてその強さに大きな隔たりがあるのはもちろん、青嵐や空っ風のような勢いとも異なって、街を吹き渡る。こがらしは街全体に覆いかぶさる風というよりも、街とぶつかり、その中を突き進みながら研がれてゆくような荒々しさを感じるのだ。二つの筋になったこがらしがぶつかりあうひびき、「ごっつんこ」。口語表現の作品のなかにはときに稚拙さを感じさせるものが存在する一方、この句では「ごっつんこ」という擬態語が表現するこがらしの質量をストレートに読ませている。

  駱駝の頭は瘤より低い冬至の陽
そう言われるとそんな気がする。このニ十句作品においては海外詠の匂いがしないから、この駱駝は冬至の日の人気のない動物園などを思い浮かべればよいだろうか。しかし、この一句を読む限りでは、砂漠地帯の風物として読んだ方が「冬至の陽」のスケールが一層引き出されるような気がして惜しい気もする。歩むときなどは、駱駝の頭の方が瘤よりも低いのだろうか。冬至の陽を背景に、駱駝の頭、そして瘤がシルエットとなって目の前を通り過ぎてゆく。冬至の厳しさのなかに、駱駝は屹立しているのだ。

2016年10月14日金曜日

【俳句新空間No.3】 仲寒蝉の句 / もてきまり



民草のひれ伏す上を手毬歌 仲寒蝉
民草は民の震えるさま(おそれおののく)を、草に例えていう語。そのひれ伏す上を繰返される「手毬歌」。この手毬歌はピョンヤン放送、北京放送のようにも思えたが、ひれ伏すまではいかぬものの民草が萎びつつある某国のN□Kのようにも思えた。妙に怖い「手毬歌」。他句に〈若水を闇もろともに汲み上げぬ〉初詣の折に若水を柄杓で汲む。まだ明けやらぬので「闇もろともに」汲みあげた。この「闇」が戦前という闇に繋がらぬよう願うばかりだ。

2016年10月7日金曜日

【俳句新空間No.3】 秦夕実の句 / もてきまり



死者係御中こちら八手咲く  秦夕実
いくら長寿社会になれども、実際、七十歳を超えるとまわりに冥途へ発つ人が多くなる。そんな中、あちら様へ「死者係御中」と封書おもてに書いた。中の文面は「こちら八手咲く」つまりまだまだこちらで頑張る決意。季語「八手咲く」のみごとな使用例。題は「おさだまり」つまり「御」「定」で、最初の十句には「御」、あとの十句には「定」が兼題として入っている。冥途に発つ前に「御定(おさだまり)」ではあるが俳句でおもいっきり遊ぼうという隠し味。最後の句は〈冥府への定期便出づ木菟の森〉。