2017年3月24日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [中西夕紀] / 小野裕三


夜店の灯平家の海を淋しうす  中西夕紀
栄華と零落。平家の血を彩る波乱の物語は、日本の風土のどこかに深く刻まれているのだろう。都が栄華という光の部分を象徴するものであれば、海は零落を想起させる影の場所だ。そして夜店もまた、たくさんの影に囲まれた小さな光の場所である。その対比を誰もが知っているから、夜店の明るさはどこか切ない。夜店を愉しんだ人はみな、巨大な夜の暗がりに押し戻されていく。まるで平家が落ち延びていった、あの海のような淋しさへ。

2017年3月17日金曜日

【俳句新空間No.3】もてきまり作品評 / 大塚凱



 前述(編集部注:俳句新空間No.3の中の作品評)の大本義幸や仲寒蟬の作品と同様に社会性に富んだ作品であったが、本作は退廃的なナショナリズムがひとつの大きな主題である。特に寒蟬の作品が「国家と戦争」を詠んだ一方、もてきまりの作品は「国家と私」により焦点が絞られている。

  えゝ踊りみせて裸木病む国家
実際の景としては、裸木が激しい風に吹かれているのだろうか。作者はそれを「えゝ踊りみせて」と表現した。「えゝ踊り」からは、江戸末期の混乱の中で広がったかの「ええじゃないか」という民衆の狂乱を思わせる。作者の眼に映る「国家」には、飢えた四肢のような裸木のしずかな狂気が満ちている。主観的・主情的な把握が「裸木」に投影されているという構成が鮮やかである。「裸木」の「裸」という文字が絶妙に利いているのではないか。

  しのぶれど死者は戻らずドラム缶
上五中七は一種の定型的なフレーズも言えるが、そこに「ドラム缶」と接着したことで死者のイメージとドラム缶がオーバーラップされた。ドラム缶は死者の冷たさや重たさ、つまり物体としての死者を象徴するようであり、一方では、偲べども死者は戻らぬという事実に直面した徒労感や虚しさをどこか象徴しているかのようでもある。

2017年3月10日金曜日

【俳句新空間No.3】堀本吟作品評 / 大塚凱


  蟻地獄臨月の身を乗り出すな
「蟻地獄」と「臨月」という言葉の衝突に惹かれた。他者の死を待つものと、他者の生を湛えるものとの対比が鮮やかだ。きっと蟻地獄を「覗く」程度の動作であろうが、「乗り出す」と大胆に表現したことで蟻地獄と人間のスケール比に不思議な狂いが生まれ、あたかも蟻地獄から人間を見上げているかのような視点すら感じられる。「乗り出す」という言葉の選択で既に句の面白さは十分に生まれているのだから、個人的には「乗り出すな」と述べてしまうよりも、臨月の身が蟻地獄に乗り出していると素直に描いた方がドライな詠みぶりで過不足ないと思うのだが、どうだろうか。

  堂々とででむし遅れ月は缺け
この句も「ででむし」と「月」のオーバーラップが面白い。「堂々と」「遅れ」ているという言葉の捻じれが巧みである。ででむしの存在感やある種の滑稽さも感じられるだろうか。缺けた月の動きがそのようなででむしのスピードと重ねあわされているかのようで、句に静謐さが満ちている。月もまた缺けながらも堂々たる光を放っているのであろう。作者の無聊なまなざしまでもが感じられる点に加え、珍しく夜のででむしが詠まれているという興もある。

2017年3月3日金曜日

【俳句新空間No.3】真矢ひろみ作品評 / 大塚凱


  林檎植うこと穢土に子をもたぬこと
「植う」は連体形の「植うる」としたいところではあるが、林檎を植えることと子をもたないことの並列が抑制して書かれた作者の感情を伝える。それは淋しさ、切なさ、気楽さなどと言った単語では表せないいびつな塊であろう。「林檎植う」が繋ぐ原初からの生命のイメージだ。

  人に添ふ冥きところに雪降り積む
「人に添ふ冥きところ」とはどこであろうか。影法師か、ひょっとしたら、それはもっと内的な「冥きところ」かもしれない。雪は眼前のものすべてに降りかかる。人間の影にも、そして、こころの影にまでも等しく降り積もる。雪はその「冥さ」を弔うように、慰めるように清らかに白い光を放つのである。

  電波か魂か初空のきらきらす
初空はなぜきらめいているのか。「電波」と「魂」の交錯がそのきらめきであるのだ、と独断した作者の把握である。電波と魂、つまり物理の世界と精神の世界のものがひとつの空の下で飛び交っているというドライな空想が面白い。初空の明るさを分析的に想像する視点のユニークである。様々なきらめきを包み込む初空の大きさが見えてくる。

2017年2月24日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [池田澄子] / 大塚凱



  
 
  東京広し銀杏落葉を踏み滑り 池田澄子


 「滑り」で一句になった。穏やかな秋空の下で、作者は銀杏並木を歩いているのだろう。普段はめったに意識しない東京の広さを、「踏み滑」ったときに意識したのである。そもそも、「東京の広さ」とはなんであろうか。たしかに、東京は世界の大都市と比べても面積が大きいけれども。しかし、滑った作者が仰げば、高層建築が空を押し広げている。銀杏の木々の上には澄んだ青空が広がっているだろう。滑ったときに仰いだそんな「東京の広さ」。そして、そのように滑ってしまった自分ひとりが、広い東京のなかで「ここに在る」という心地。蟻のようにあふれる東京の人間のひとりでありながら、並木道のなかでひとり滑ってしまった。そんなちょっとした恥ずかしさがユーモアの中に描かれている。