前述(編集部注:俳句新空間No.3の中の作品評)の大本義幸や仲寒蟬の作品と同様に社会性に富んだ作品であったが、本作は退廃的なナショナリズムがひとつの大きな主題である。特に寒蟬の作品が「国家と戦争」を詠んだ一方、もてきまりの作品は「国家と私」により焦点が絞られている。
えゝ踊りみせて裸木病む国家実際の景としては、裸木が激しい風に吹かれているのだろうか。作者はそれを「えゝ踊りみせて」と表現した。「えゝ踊り」からは、江戸末期の混乱の中で広がったかの「ええじゃないか」という民衆の狂乱を思わせる。作者の眼に映る「国家」には、飢えた四肢のような裸木のしずかな狂気が満ちている。主観的・主情的な把握が「裸木」に投影されているという構成が鮮やかである。「裸木」の「裸」という文字が絶妙に利いているのではないか。
しのぶれど死者は戻らずドラム缶上五中七は一種の定型的なフレーズも言えるが、そこに「ドラム缶」と接着したことで死者のイメージとドラム缶がオーバーラップされた。ドラム缶は死者の冷たさや重たさ、つまり物体としての死者を象徴するようであり、一方では、偲べども死者は戻らぬという事実に直面した徒労感や虚しさをどこか象徴しているかのようでもある。