2016年1月29日金曜日

【曾根毅『花修』を読む 31 】  極めて個人的な曾根毅様へのメール  /  家藤正人




今年のまる裏俳句甲子園もお世話になりました。

早いもので昨年曾根さんが出場されてから1年、またお目にかかれて嬉しゅうございます。優勝は逃したものの会場の沸かせっぷりとしてはあの試合がベストバウトだったんじゃないかと。


さて、大阪での「俳都松山宣言2015大阪キャラバン」にて「書いて」と言われた句集『花修』の書評の件。

イキオイ「喜んで!」と返事したものの、書評なるものを書いたことがないワタクシ。メールの形をお借りして諸々書き綴ることでご容赦頂ければ幸いです。


気に入った句に付箋を付けながら再読していったんですが、自分が惹かれるものはどうも無季だったりすることが多いようです。


立ち上がるときの悲しき巨人かな 
快楽以後紙のコップと死が残り 
体温や濡れて真黒き砂となり 
少女病み鳩の呪文のつづきおり 
馬の目が濡れて灯りの向こうから


「つづきおり」の時間経過を含んだニュアンスとか特に最高ですね。行為に対する語りの必然といいますか。

世の中には季語がないなんて!という方もいらっしゃるとは思うんですが、個人的にはそれが詩としての力を発揮しているならいいジャナイと思うたちです。

そして句集を通読していくと俳人としてのバックボーンというか、底力が伝わってきます。その基盤がしっかりしてるからこそ、冒険的な言葉の組み立て方をしても詩の質がぶれない。


くちびるを花びらとする溺死かな 
暴力の直後の柿を喰いけり 
落椿肉の限りを尽くしたる 
凭れ合う鶏頭にして愛し合う


また、観察の行き届いた句が随所できらっと光ります。発想の大胆さや奇抜さだけに留まらない確かさがまた魅力。


堂に入る落花一片音もなし 
山の蟻路上の蟻と親しまず 
身の内の水豊かなり初荷馬 
竹筒をくぐり抜けたる春の水 
ゆく春や牛の涎の熱きこと 
乾電池崩れ落ちたる冬の川


改めて勉強になるといいますか、「句集」という数をまとめての作品になった時に何が重要かということ。

それはなによりも「作者という人物のオリジナリティ」が見えてくることなのではないか、と思わされました。

短詩であるからこそ、他の誰でもない自分らしさの確保が重要であり、『花修』は独特の暗さと軽快さでもってそれを達成しているように感じます。


以上、つらつらと綴って参りましたがこんな感じで大丈夫でしょうか。
月並みではありますが、今後も一層のご活躍期待しております。




追伸
ここで書くことでもないのですが、第14回まる裏俳句甲子園で登場したこの句、


昼更けて寒の椿を潜りけり


作者の名前こそ明かされなかったものの、この句の世界観は曾根さんじゃないかなあ~と睨んでいるんですがいかがでしょ。またなにかの折に答え合わせできれば幸いであります。




【執筆者紹介】

  • 家藤正人(いえふじ・まさと)

イベント司会者。松山市主催「俳都松山宣言」など担当。