曾根毅氏の『花修』評については、すでに「週刊俳句」において〈真の「写生」〉と題して書かせて頂いた。そこでは、真の「写生」とは、あくまで日常的な体験に裏打ちされながらも、単なる「写実」が陥りがちな些末描写や観念的な寄物陳思とは異なる物我一如という深い詩境において生命や宇宙の神秘に根ざしたものでなくてはならないと指摘した。そして、そうした真の「写生」を感得するものとして以下の句を取り上げた。
春の水まだ息を止めておりにけり
桃の花までの逆立ち歩きかな
さくら狩り口の中まで暗くなり
初夏の海に身体を還しけり
時計屋に空蟬の留守つづきおり
今回、これらの句については割愛するが、この度、再度、『花修』を再び読み直す機会を得て、前回触れることができなかった秀句について感想を申し述べたい。
爆心地アイスクリーム点点と
長崎での被爆二世である私としては、どうしても浦上の爆心地公園を思い出す。もちろん、掲句では、溶けて地に落ちたアイスクリームの痕跡を詠んだものだと思うが、それはまた被爆者の焼け爛れて熔け落ちた身体の一部のみならず無念の思いも重なる。アイスクリームが自由に食べられる現代の平和と原爆の惨劇とが対照的に彷彿とされて、そこに単なる写実を超えた詩境が感じられる。
草いきれ鍵をなくした少年に
かつて私も鬼怒川の河川敷で車と自宅の鍵をなくして難儀したことがある。一時間くらい捜索してようやく見つかったから良かったものの、探しているときの不安は尋常ではなかったのを思い出した。もっとも、掲句は、そうした事実性のみならず、少年が大人社会へと参入するための「鍵」が想起される。しかし、殺伐とした大人の社会への漠然とした危惧が「草いきれ」に暗示されている様な気もする。
水吸うて水の上なる桜かな
樹木において根から吸収した水分を上部へ運ぶのは維管束の導管と言われているが、そのメカニズムの詳細はよく分かっていない。満月の引力が関係するものもあるようだが、いずれにしてもその不思議の上に桜が咲いていると思えば、改めて天然造化の妙を思い知らされる。掲句は、そうした不思議を湛然と捉える作者の感性の鋭さが表れている。
竹の秋地中に鏡眠りおり
周知のように「竹の秋」とは、地中の筍に養分を与えるために竹の葉が黄ばむことに由来する。植物にも世代間の思いやりがあるような気がして不思議である。「子は親の鏡」というが、やがて筍もまた成長して親竹となれば、同じように次の筍を育てるのだろう。もちろん、掲句における鏡はそれそのものとして地中に埋蔵されていても良い。いずれにしてもそれは真澄鏡として「情の誠」を照らし出すのである。
醒めてすぐ葦の長さを確かめる
パスカルの「人間は考える葦である」を思い出すが、そうすると睡眠中、つまり思考停止している時、人間は単なる葦そのものということになってしまう。掲句では、眠りから覚めて自我を取り戻す刹那がうまく捉えられている。もっとも、このことは睡眠後の覚醒時だけではない。新しい自己成長への気づきは至る所に存在するはずである。それを確かめる作者の透徹した炯眼が感じられる。
我と鉄反れる角度を異にして
そもそも人間の血球の主成分はヘモグロビンであり、生命にとって鉄がとても重要な働きをしている。一方、現代におけるインフラや工業製品においても鉄はその根幹を支える素材として不可欠のものである。つまり、生体も社会も鉄によって支えられていると言っても過言ではない。もっとも、それらにおける鉄は、その分子構造において異なっていることは言うまでもない。鉄化合物や金属鉄との違いは、分子レベルで見ると、その原子価角の差異による。もちろん、そうした「物の微」はさてしも「我」と「鉄」の共鳴に感得される「情の誠」も相俟って深い詩精神が立ち現れている。
【執筆者紹介】
- 五島高資(ごとう・たかとし)