2016年1月22日金曜日

【曾根毅『花修』を読む 29 】 たよりにしながら  / 宮﨑莉々香




曇天や遠泳の首一列に

ドキッとする。遠泳の首に曇天を組み合わせるのが曾根毅という作家である気がするのだ。俳句はことばとことばの組み合わせの力によって成り立ち、その組み合わせ方は、自身が作家としてどのようにありたいかを決定する方法の一つであるよう思う。石田郷子ラインの作家なら、「遠泳の首一列に」と言うかどうか怪しいが、「曇天や」はつけないだろう。そうすると、曾根の代表句「薄明とセシウムを負い露草よ」で「負い」とことばを組み合わせた思いもわかるような気がする。事物を繊細に描写することはほとんどなく、故に大味なのだが時に大胆な句を生んでいる。

立ち上がるときの悲しき巨人かな

巨人が立ち上がるその景だけで十分通じる。鈴木六林男の「かなしきかな性病院の煙突(けむりだし)」も細かい描写はなく、煙突と言い切り、煙突から煙が細長く立ち昇る様子を想像させる。それがどことなくかなしい。性病院の煙突を見たことがなくてもかなしみの情緒を味わうことはできる。巨人を見る機会など、アニメか映画ぐらいでしかないが、想像の巨人がゆっくりと立ち上がる様子はわたしたちとは異なって見える。ゆっくりはどこか、かなしい。

曾根毅という作家を考えた時、前述した二点が繋がってくる。一つに大味だということ、二つ目に読者が想像することのできる虚構世界を描いているということである。また、その想像は肉体体験から仮託され、行われるものだと考える。曾根が巨人を見たことがあるわけでも、わたしたちが見たことがあるわけでもないが、わたしたちは巨人のゆっくりと立ち上がる様を考え、かなしいと思うことができる。なぜならそれは、立ち上がる行為には自身の肉体体験が含まれており、わたしたちは無意識に他者(巨人)に自身の立ち上がる体験を背負わせているからである。

薄明とセシウムを負い露草よ

もう一度この句を挙げる。突然セシウムという片仮名が目に飛び込んでくる。わたしも福島のドキュメンタリー番組の映像を見た記憶から想像して、この句を感じることができる。考えてみると句の中の「セシウム」はあまりにも直接的で、しかしセシウムが薄明と同列に扱われていなければ、普通の自然の光景に終わってしまう。セシウムは目には見えないが、「負い」と「薄明と」の効果によりその不安定で不透明な重みを感じることができるのだろう。

暴力の直後の柿を喰いけり

曾根の作品に使われる言葉には重みがあるものが多い。それは今までに挙げた句の中の「首」や「巨人」「セシウム」。この句の場合の「暴力」など。「喰いけり」まで一貫して荒ぶった文体で書かれている。


手に残る二十世紀の冷たさよ

また、セシウムのようにかたちのないものや抽象的概念を句の中に取り込もうともしている。「手に残る」の感覚や体験により、ぼんやりとしたものも感じることができる。

時に身体をたよりに、時にことばをたよりにして、世界をつくりあげようとする。それが句集『花修』の魅力であるだろう。


【執筆者紹介】

  • 宮﨑莉々香(みやざき・りりか)

1996年高知県生まれ。「円錐」「群青」「蝶」同人。