冬めくや世界は行進して過ぎる
こう書く作者は、過ぎゆくものをじっと見つめ、思索にふけっている。『花修』の格調と批判性を伴う作品群に何度も立ち止まらせられた。
立ち上がるときの悲しき巨人かな
暴力の直後の柿を喰いけり
この国や鬱のかたちの耳飾り
そのふるまいに悲哀の宿る「巨人」。柿によって「暴力」のイメージにつながれる我々。耳飾りとしてこの世の鬱を負う「この国」。行進は軽快なものではなく、不安の様相を帯びる。
月明や昨日掘りたる穴の数
欲望の塊として沈丁花
春すでに百済観音垂れさがり
初夏の海に身体を還しけり
原子まで遡りゆく立夏かな
つるはしで、ドリルで、ショベルカーで、素手で―世界中に掘られた昨日の「穴」。生き残るための人の行為の跡が月光に照らされる。動物や昆虫を加えれば、昨日の「穴の数」は無限だ。この透徹したまなざしは、沈丁花の香りに欲望を観、優美な百済観音に願いの重さ、疲れを感じ取る。作者の思索は、海から陸に揚がった生命の歴史や、物質の根源にまで及ぶ。その調べは嘆きとも怒りともちがう、作者の世界観の表出である。
山鳩として濡れている放射能
葱刻むところどころの薄明り
祈りとは折れるに任せたる葦か
見えない放射能は、濡れた山鳩の形で提出され、読者の頭の中に不気味な揺らぎをもたらす。葱を刻む日常の「ところどころの薄明り」を希望と読むか諦めと感じるかは、読者に委ねられる。身を折る葦の「祈り」は、容赦ない時の流れを思わせ痛切だ。
句に持ち込まれる硬質な抽象語にとまどうこともあった。世界の行進を見つめる作者の目は、句集の後半、より細部をとらえ、句の奥行きが増してくる。この世界の条理・不条理、美しさ、悲しみを刻もうとする強い意志を感じた。
師・鈴木六林男の晩年、曾根さんは彗星のように「花曜」の句会に現われ、中高年が占める会員のなかで異彩を放っていた。それは、温かな希望だった。『花修』のそこここに六林男の背中を見たが、曾根さんはこれから、悠然と己の山を登っていかれることでしょう。
【執筆者紹介】
- 大城戸ハルミ(おおきど・はるみ)
1959年生まれ。「六曜」編集同人。現代俳句協会会員。