2016年3月18日金曜日

【曾根毅『花修』を読む45 】 まぶしい闇 / 矢野公雄



吟行句会をともにする仲間として、曾根君の作風は、暗い、硬い、怖いの3Kだと思っていた。なので、送られてきた第一句集の装丁の、やけに明るいことに吃驚したことを覚えている。
しかしながら、一寸ページを繰るだけでも、溺死、墓標、暗黒、暴力、鬱、殺意、悪霊、といったボキャブラリーの氾濫にぐったりする。

3Kは蔽うべくもなく、その目で改めて装画を見ると、明るさのなかに、なにやら狂気のようなものが潜んでいるように見えてくる。

なんだか、術中にはまった感じ。

3Kなどと乱暴な言い方をしたが、それは、とりもなおさず、曾根君が、暗く、硬く、怖い現実と格闘していることの証左であろう。震災などは、もっとも目をそむけたい現実である。そうしてそれは、彼が、花鳥風月に遊ぶというアティテュードをとらない新興俳句の系譜を継ぐ、正統なる異端者だということでもある。

鶴二百三百五百戦争へ 
くちびるを花びらとする溺死かな 
木枯の何処まで行くも機関車なり 
天牛は防空壕を覚えていた 
少女また羽蟻のように濡れており

いかにも新興俳句的。

存在の時を余さず鶴帰る 
玉虫や思想のふちを這いまわり 
ロゴスから零れ落ちたる柿の種 
鶏頭を突き抜けてくる電波たち 
祈りとは折れるに任せたる葦か

これらの句群の手触りは、俳句というよりも、現代詩に近い。
実際、彼は、資質として、俳人よりも詩人に近いのではないかと思うことが、ままある。吟行中、俳人にあるまじき暴言を吐き、周囲を凍りつかせる。お茶目なことに、植物の名前に疎い。そうして、合評では、些細な言葉にも拘りぬく。

一方で、曾根君は、吟行の最中に矢鱈と「名句が出来た」と吹聴して、周りを焦らせる困った人でもある。名句を志向するということは、おのずから、不易なるものを希求しているということにほかならない。

春の水まだ息止めておりにけり 
滝おちてこの世のものとなりにけり 
頬打ちし寒風すでに沖にあり 
黒南風の松を均していたるかな 
ゆく春や牛の涎の熱きこと

これら、古典的ともいえる、骨格のしっかりとした「名句」において、彼は間違いなく俳人である。
一寸調べてみると、「かな」止めの句が38句、「けり」止めが27句ある。この二つの句形を足すと、実に全体の22%を占める。意外と古風なのである。詩人の資質を持ちながら、俳句ならではの文体を偏愛しているようである。

震災詠という非常にアクチュアルな面がクローズアップされがちであるが、むしろ、古典から、新興、前衛、詩、俳にまたがる多面性こそが曾根君の魅力であり、「花修」の奥行きではないか。

「花修」の読後感は、不思議に暗くない。
それは、曾根君が、現実の闇から取り出す言葉が、ときに不易なる光を放っているからであろう。棹尾の句が、実に暗示的である。

闇に鳩鳴けば静かに火を焚かん


【執筆者紹介】

  • 矢野公雄(やの・きみお)

知っている人しか知らない俳人