曾根毅句集『花修』には得体のしれないものが漂っている。
誰もがいつか訪れるだろう「死」が色濃く存在し、そこはかとない空虚感、不安・畏れ、鬱屈とした感情が渦巻いている。この感情の渦がある強いエネルギーとなり、異様な空気を放っているようだ。そのことは本句集に一貫して言える事であるが、東日本大震災が与えた影響は大きい。震災という未曽有の体験は作者を大きく揺さぶり、より内面の奥深くにまで迫っていく様子が伺える。
玉虫や思想のふちを這いまわり
本句集のある一面、或いは作者自身を象徴している句ではないだろうか。思想の中心部には、闇が深く広がっているだけで何もないようにも思われる。永遠に中心には辿りつけないと知りながら、もがき続けているようだ。
立ち上がるときの悲しき巨人かな
くちびるを花びらとする溺死かな
暴力の直後の柿を喰いけり
快楽以後紙のコップと死が残り
この国や鬱のかたちの耳飾り
佛より殺意の消えし木の芽風
人間が元来持っている淋しさや醜さ・残酷さ、この世の不条理、目には見えない力への畏れ、これらと向き合い続けるには強靭な精神力が必要だろう。事実、私は本句集を開くたび、どこかが消耗していくのである。答えの見つからないもどかしさに、考えないことを選択することも可能だろう。また、ストレスを回避するために、無意識に考えることをやめてしまうこともある。しかし、曾根氏は、一見するとマイナスのイメージを持つ、見えない何かと絶えず格闘し続けてきた。
そして、その姿勢は震災後も変わることはない。
音のなき絶景であれ冬青草
桜貝いつものように死んでおり
山鳩として濡れている放射能
少女また桜の下に石を積み
眼前に起きていることを詠まないことの方がむしろ不自然であるかのように、
震災も放射能も作者の体験に基づいた等身大のものとして詠まれている。そして詠み続けてゆく中で、感情の更なる深化がみられるのである。
少女病み鳩の呪文のつづきおり
前半の花、光の章では、「暴力」「快楽」「殺意」「鬱」といったように言葉が剥きだしになっているものに佳句が多く見られたが、掲句は表現としての質が明らかに異なっている。震災を体験し、時間と共に内面の奥深くに沈潜したものから作り出された幻影のようにさえ思われる。事実か事実ではないかは、もはやどちらでも良いだろう。感情や現象を書き留める、又は思想を投影するといったものから、内面の真実を「表現」するものへと昇華し、最終章に進むにつれ、作者の感受性と想像力を持って独特な世界を獲得しつつある。
徐に椿の殖ゆる手術台
山猫の留守に落葉の降りつづく
能面は落葉にまみれやすきかな
次の間に手負いの鶴の気配あり
肉よりも遠くへ投げるアルミ缶
闇に鳩鳴けば静かに火を焚かん
ある物語の一場面のように、何か不吉さを予告しているようだ。言葉は柔らかくなっているものの、相変わらず得体のしれないものが漂い、むしろ世界はより複雑なものになっている。
『花修』に漂う得体のしれなさは、読み手に、(少なくとも私に)やさしく寄り添ってきてはくれない。本句集はひどく孤独であり、作者のもがき続けた痕跡は、この先も私達に疑問を投げかけ続けるだろう。そういった点において非常に稀有な句集であったと言えるのではないだろうか。
最後に、本句集の中で、少し異質だと思った句を。
獅子舞の口より見ゆる砂丘かな
獅子舞の口から見えた砂丘は、時空を超え、どこまでも広がっていく。見たことのないはずの景色なのに、懐かしく感じるのはなぜだろう。砂丘は留まることを知らず、今も尚、広がりつづけている。
【執筆者紹介】
- 山岸由佳(やまぎし・ゆか)
「炎環」同人、豆の木参加。第33回現代俳句新人賞