曾根さんとの出会いは、曾根さん自身は覚えていらっしゃるかどうか定かではありませんが、とあるメール句会の吟行でした。
第一印象は、ミステリアスな方。
そして、今もそのミステリアスな方という印象は、完全に払拭されてはいません。なので、今回は生きていくためには必要不可欠な「食材」を通して、曾根さんの生の姿に迫りつつ、彼の句を解剖していきたいと思います。
曾根さんの『花修』を拝読していますと、「食材」をテーマとした句は大別して三つのパターンがありました。
一番多かったのは、「食材」を何かを表現するための媒体としている句。
白菜に包まれてある虚空かな
おでんの底に卵残りし昭和かな
白桃や聡きところは触れずおく
明日になく今日ありしもの寒卵
晩婚や牡蠣に残りし檸檬汁
初夏の一人にひとつ生卵
一句目、白菜の句は、白菜の葉と葉の間にある空間を「虚空」と表現することで、現代人の心にある空虚を眼前に提示しました。聡きところは白桃のように柔らかなもの。晩婚は、牡蠣のエキスが残るコクのある檸檬汁のようなもの。取り合わすものによって、こんなにも鮮明なイメージを作り出せるのだ…五七五の力を存分に生かした句です。
卵の句は三句。それぞれに違う印象を生み出す卵の中で、一番共感したのはおでんの卵。私にとってのおでんの卵は大好きだからこそ、最後まで大切においていたのに、気づけば弟が横取りをして食べていたもの!それでもなお、大切なもの、お気に入りのもの、新しい服は最後まで、あるいはいざという時のために大切にとっていたのだけれど、そんな昭和が少し遠い昔となった今は、年齢を重ねたからなのか、はたまた時代のせいなのか、大切な「卵」を最初に食べるようになりました。
次は、「食材」そのものを詠んでいる句。
玉葱や出棺のごと輝いて
手に残る二十世紀の冷たさよ
停電を免れている夏蜜柑
玉葱の輝きを出棺に例えるという斬新な手法。これから調理という方法でもって成仏させられる玉葱の美しさを際立たせました。二句目は、梨を「二十世紀」と表現し、その感触を明確に言葉で表現することで、人の歴史としての二十世紀に触感が生まれました。三句目の夏蜜柑は心がほっこりした句。なぜか夏蜜柑と小学生が私の中でつながり、たまたま学校にいたがために、自宅の停電を免れた幸運な夏蜜柑と子どもたちの姿が目に浮かびました。
最後は、「食べる」あるいは「調理する」行為の対象としての食材を詠んだ句。
暴力の直後の柿を喰いけり
罵りの途中に巨峰置かれけり
玉葱を刻みし我を繕わず
音楽を離れときどき柿の種
一句目、二句目とも男性独特の視点だと感じたのは私だけでしょうか。食べ物は生命そのものであり、心も豊かに幸せにしてくれるもの。平和の象徴です。それを暴力や罵りと取り合わせるなど、想像を超えた、驚愕の範疇に属する一句でした。
と、いろいろ書いてきましたが、やっぱり食の句は人間らしさを醸し出すものですね。玉葱をみじん切りしながらぼろぼろ涙を流し、両手は玉葱まみれなので、その涙を拭うこともできず、ただ、ひたすらにみじん切りをし続ける曾根さん。音楽を聴きながら、時々、「柿の種」を口に入れてリラックスする曾根さん。ごめんなさい。きっと、「柿の種」は果物の柿の種を詠まれているのでしょうけれど、私にはこれがどうしてもおつまみとして売られている、菓子の「柿の種」にしか読めませんでした。
左手に『花修』、右手に柿の種をつまみつつ、いやいや付箋を握りしめ、二度三度と読み返した句集には読むたびに新たな発見がありました。曾根さんはこれからどんな「卵」を産み、育てていくのでしょうか。
これからも、美味しい「おでんの卵」を期待しています。
【執筆者紹介】
- 工藤 惠(くどう・めぐみ)
「船団の会」所属。