存在の時を余さず鶴帰る
玉虫や思想のふちを這いまわり
冬めくや世界は行進して過ぎる
存在、思想、世界。それらは、あるようでいて手掴みにはできないもの、見ることのできないものである。それらの様相をうまく言い当てることはなかなか難しい。しかし『花修』の句たちは、それを小気味よく言い当ててくれている。
特に俳句という形式において、概念語を句の中に入れ込んでしまうと、成功しにくい。だが、これらの句はそういう理屈臭さとは無縁のものである。
「思想」とやらが如何なるものか、あえて語らず、ただあくまで玉虫を描くための舞台装置としてぽんと置かれている。覚悟が必要な斡旋であろう。物体たる季語=見えるものと、非物体たる「存在」や「思想」や「世界」(という漠然とした広さ)=見えざるものとの出会いにより、衝撃が生まれている。それはまさしく精神的な感動を肉体的に味わうことである。
寒鴉内なる黙を探しけり
万緑や行方不明の帽子たち
寒鴉に内なる黙を託す、いやそれどころか、ほとんど寒鴉とそれを見ている者とはひとつになって同じ呼吸をしている。行方不明なのは、帽子たちか。それを見ている者はどこにいるのか、いないのか。帽子はあるのか、ないのか、どのくらいか。気づけば読者は万緑という雄々しい背景に飲み込まれている。
季語と概念の緊張、という仕方が火花を生んでいるとすれば、自己と対象の同一化、ともいうべきこれらの句はまた違った毛色の面白さを孕んでいる。
不定形のものに対する確かな実感が、句を通して作者から読者へとシェアされる。作者の目を、五感を、あるいは第六感を通して、私たちはそれまで見えなかったものの世界の一端に触れることができる。
天高し邪鬼に四方を支えられ
悪霊と皿に残りし菊の花
薄明とセシウムを負い露草よ
桐一葉ここにもマイクロシーベルト
ふと思う。「あるかもしれないけれど見えない」ということで言うと、我々の感覚からすれば、セシウムも悪霊も同じなのかもしれない。そして見えないからこそいろいろなことを考える。考えるということは、不安になるということである。見えないものに人は言いしれない恐怖を覚えるものだ。その恐怖は、ただ目を背けたくなるような質のものではなく、どうにかして暴きたい、という好奇心を伴わせるものである。それが句の魅力に繋がっている。
ことここに来て、挙げてきた句の中に見える作者の意図ははっきり見える。繰り返すが、実態としての季語に(あるいは自己に)なんらかの見えざるもの(無色透明な放射性物質や形而上のもの)を衝突、または仮託させ、触れる者として浮き彫りにしようという試みである。しかしそれは、飽くまで季語が主体である。だからこそ見えざるものへの道が開かれる。
五七五を器として、そこにある語とある語――ここでは季語とそれに見合う何らかの見えざるもの――を選んで放り込む、ともするとそういう風な作り方をしているように見えてしまいかねない。しかし、どうやっても隠しおおせない「手づかみ感」がこれらの句にはあるように感じられる。世界の重要な隠された部分を、詩によって掬い取ろうとする意志が見え隠れするところが、曾根俳句の魅力の一つかもしれない。
【執筆者紹介】
- 淺津大雅(あさづ・たいが)
1996年生まれ。関西俳句会「ふらここ」。