曾根さんが「花曜」に入会した2002年、主宰の鈴木六林男氏が第2回現代俳句大賞を受賞した。大阪の天王寺都ホテルで開かれた祝賀会は壮観であった。俳壇関係者のみならず、小説家や外国文学研究者など多彩なジャンルの錚々たる知性が顔を揃えていたのである。
特に印象的だったのは今年93歳で他界した鶴見俊輔氏。『思想の科学』を創刊し、ベトナム反戦運動の先頭に立った「行動する哲学者」がなぜ招かれていたのか。無論、この日の主人公である鈴木氏が多年各界人士と育んできた幅広い交友の結果には相違ないが、俳句関係の席でよもや高名な哲学者と親しく酒杯を挙げようとは夢にも思わなかった。
同時に筆者は少し冷めた見方もしていた。「どや、わしはこんなごつい人らとも付き合いがあんねんで」という鈴木氏の素朴な友達自慢を感じたからである。
それから13年たって曾根さんの『花修』が世に出た。「あとがき」には
句集名は、世阿弥の『風姿花伝』第六章の名から拝借しました。初学時とある。至極簡潔な書きぶりだが、曾根さんが亡き師の教えをしっかりと胸に刻んで俳句と取り組んで来たことが分かる。
代に学んだ俳誌「花曜」の花、その修学期間の思いを込めています。先
師・鈴木六林男からは、基本を十年、急がば回れと教わりました。
さて、その『花修』の作品で、今回筆者が注目したのは次の三句である。
玉虫や思想のふちを這いまわり一句目。曖昧に煌めく羽根を持ち、不意にどこかに飛び去ってしまいかねない予測不可能性を秘めた玉虫。人はその玉虫のような言葉に幻惑され、「縁」からの転落や「淵」への沈淪というリスクを敢えて引き受ける生き物なのかもしれない。
曼珠沙華思惟の離れてゆくところ
老茄子思弁のごとく垂れてあり
二句目。どこか幾何学的、人工的な匂いのする曼珠沙華には屹立する宇宙樹の面影もある。その鮮烈な赤を見た瞬間、思惟する主体から思惟だけが静かに剥がれてゆくような奇妙な感覚に襲われたのだ。
三句目。紫紺にうっすらと銹色が混じり始めた初冬のひね茄子。あたかも自己の存在そのものに倦んだかように垂れ下がる姿からは、不毛な思弁に疲れた魂の孤独が滲み出ている。
これらの作品で目を引く「思想」「思惟」「思弁」はいずれも高度に抽象的・概念的な語彙であり、本来、俳句表現との親和性が高いとは言い難い。「玉虫」「曼珠沙華」「老茄子」といった特徴的な色彩とくっきりした輪郭を持つ具象物を配合することにより辛くも俳句として成立しているものの、実はセンターラインぎりぎりの問題作なのである。
曾根さんは以前、まるで自動書記のように大量の俳句が「降って来た」体験について語ってくれたことがある。あくまでも推測に過ぎないが、「思想」「思惟」「思弁」は、推敲を重ねる過程で取っ換え引っ替え試着した言葉の中から選ばれたものではなく、「降って来た」句の中に最初から入っていたのではないか。もしそうだとすれば、曾根さんの無意識は何故これらの言葉を選択したのであろうか。
筆者はこう考える。きっと曾根さんには俳人のあるべき姿として思索と詩作という二つの精神的営為がスパイラルアップしつつ互いに高みを目指すという循環構造がイメージされているのだ。Aならんと欲すればBならず、Bならんと欲すればAならずという二律背反の関係ではなく、思索と詩作は
両々相俟って作家主体を豊饒へと導く。そんな俳句観が「思想」「思惟」「思弁」という普通の俳人なら思いつかない、あるいは敬遠する言葉を呼び寄せ、かつ最後まで捨てさせなかったのだと思う。
冒頭のシーンにもどる。
鈴木氏が受賞祝賀会の場に多彩なジャンルの名士を多数招いたのは単なる自慢ではなく「俳人は俳句だけ見とったらあかん」というメッセージを「花曜」の弟子や俳壇関係者に伝えたかったからかもしれない。鶴見氏がそこに座っているだけで「自分の頭で考え抜いた思想を持たなあかん」「思想と生きざまは別々のもんやない」という強烈なメッセージが発信される。祝賀会は端倪すべからざる俳人・鈴木六林男が仕掛けた教育プログラムの一環でもあった。
曾根さんには先師の遺訓のエッセンスをきちんと継承した上で更に突き抜けた世界を見せてほしいと切に願う。分厚い思索や思惟の岩盤を透過して磨き抜かれたポエジーの清冽な湧出を心待ちにしている。
【執筆者紹介】
堺谷真人(さかいたに・まさと)
1963年、大阪生まれ。「豈」「一粒」同人。現代俳句協会会員。