2015年9月下旬、筑紫磐井様より今回の企画「花修を読む」についてのご連絡をいただいた。内容は以下のとおり。
「従来からBLOGに協力いただいている西村麒麟氏とか、水内氏の句集の連載鑑賞をやっております。特に締切、分量などは設けませんし、人数も無制限ですのでご自由にご検討いただければありがたく存じます。特に若い方が書かれればうれしく存じます。御寄贈者にそういう方がいらっしゃれば誘ていただければありがたく存じます」
私は即座に、メールアドレスを知る寄贈先の若手俳人らに参加を募った。当時、『花修』上梓から3ヵ月が経過しようとしていたが、反応はごく限られたものだった。後で知ったことだが、「恵まれない著者」ということで私の句集に白羽の矢が立ったのだそうだ。無名という自覚はあった。『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』に加えて、『関西俳句なう』などの実力若手アンソロジーが次々と出版され、同世代の仲間が脚光を浴びる中、私はそのどれにも入集していない。実力の問題もあるが、早く師を喪い、結社誌に次ぐ同人誌の解散、結婚と子育てに転職、数回の転勤など変化の目まぐるしい30代。特に、先のアンソロジーが出始めた頃は超多忙期にあたり、句集の中でも空白の期間となった。
執筆者を募ってみたものの、書き手は現れるだろうか。しかし意外にも、依頼後数日のうちに返信は50を超え、筑紫磐井さんに状況を連絡。前回の西村麒麟句集「鶉を読む」が全25回であったことを踏まえて、今回2名ずつで25回というのはどうかと相談し、今回の企画となった。先着順として、数名の方にはお断わりすることになるという想定外の事態。多数の反応が得られたのは、「BLOG俳句新空間」の魅力のおかげである。
今回ご執筆いただいた方々は、10代の学生から句歴20年を超える方まで、俳句に対するスタンスも様々。皆様のご感想や批評を受けて、まさに作品と同様、見事に書き手の趣向や個性が表れることの面白さを感じた次第。『花修』については、社会性を含む現代の思惟的な要素をいかに俳句として読むか、ということに様々な角度から言及をいただき、著者として大いに刺激を受けた。しかし私としては、評者の様々な視点に触れて、「花修を読む」というよりもむしろ「評者を読む」という受け取り方のほうが強かった。それは、批評は評者のためのものでもあるということだ。
俳句甲子園や芝不器男俳句新人賞などの影響で、身近にも10代20代の本当に若い世代の俳句人口が増えた。例えば、俳句甲子園におけるディベートは、その後の俳句活動における鑑賞や批評に繋がる可能性を持ちながら、それを発揮しアピールする機会は少ないのではないだろうか。今回の企画が、鑑賞批評を読み書きすることへの興味に繋がれば嬉しい。
『花修』をご指名いただき、毎週のブログアップをしていただいたBLOG俳句新空間の筑紫磐井様、北川美美様。お忙しい中、ご執筆いただいた皆様。
そして、ご愛読いただきました皆様方に心より御礼申し上げます。ありがとうございます。
【執筆者紹介】
曾根 毅(そね・つよし)
1974年生まれ。「花曜」「光芒」を経て「LOTUS」同人。現代俳句協会会員。第四回芝不器男俳句新人賞。句集『花修』(深夜叢書社)。