永き日や獣の鬱を持ち帰り 曾根 毅
手に残る二十世紀の冷たさよ
暗闇の眼玉濡らさず泳ぐなり 鈴木六林男
曾根さんと初めて会ったのは、二十世紀と二十一世紀の変わり目ごろ、東京・青山のビルで開催されていた宮崎斗士氏の句会だった。九堂夜想氏の紹介だった。当時、曾根さんはどちらかといえば寡黙で、さりげない気遣いを忘れない、好青年という感じだった。
今でも印象に残っているのは、酒宴が終わりに近づいたころ、曾根さんがふと立ち上がり、部屋にあったピアノで、ジャズ風の即興演奏をはじめたことだ。いい加減酔っぱらっていた私は、その演奏が巧いのかどうか、よく分からなかった。ただ、彼が執拗に繰り返す鍵盤の乱打と、分厚く滲む、鬱屈した不協和音の連続に、妙に心がざわついた。<好青年>に潜む、暗いパトスを垣間見た気がした。
もう少しお酒が入っていたら、通奏低音の部分だけでも、一緒に連弾してみたい、そんなことを思った世紀末の夜だった。
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まもなく曾根さんは仕事の関係で、関西に引っ越した。やがて鈴木六林男氏を生涯の師と決め、師の<かばん持ち>をしながら、マンツーマンの徹底した指導を仰いでいるという話を、人づてに聞いた。駆け出しの青年俳人のひたむきな情熱と、真剣にこたえる八十半ばのベテラン俳人の厳しさと優しさ。その話を聞いた時、戦後俳句、関西前衛、鈴木六林男という文学史上のタームや固有名詞が、ピアノを連打する曾根さんの横顔に、ふっと重なり、響きあった。
曾根さんと師の鈴木六林男氏の作品は、昭和の<重厚長大>を思わせる濃厚な肉体性と、エロスや暴力も包含したハードボイルド風のロマンチシズムという点において、ある種の親和性が認められるように思う。
立ち上がるときの悲しき巨人かな
玉虫や思想のふちを這いまわり
鶴二百三百五百戦争へ
暴力の直後の柿を喰いけり
快楽以後紙のコップと死が残り 曾根 毅
<巨人>の句。「大きいことはいいことだ」といった価値観とは別に、巨象しかり巨人しかり、不自然な大きさを持つ生きものは、どこか悲しげである。とりわけ、<立ち上がる>ことによって、自らの大きさを誇示せざるをえないときには、悲しさはいっそうきわまるのだろう。
そうした悲しさは、巨きなものと対照的な存在である<玉虫>にも、どこか通底する。<玉虫>はメタリックな色彩の昆虫であるとともに、<玉虫色>の言葉にも代表されるような、どっちつかずの胡散臭い姿勢の暗喩とも考えられる。それを<思想のふち>を<這いまわ>るような存在であると断じるところに、独自の批評精神が籠もるようだ。
批評精神といえば、<右の眼に左翼左の眼に右翼>という昭和の終わりごろに発表された六林男氏の強烈な作品が思い浮かぶ。同時期には、<西日なか百年手を挙げ銅像立つ>などの作品もある。その後の冷戦崩壊まで予示したかのような透徹したまなざし(西日の中で手を挙げる銅像に、旧ソ連が崩壊したあとのレーニン像の運命を重ね合わせてしまうのは、単なる思い過ごしだろうか)、<玉虫>の表現するシニカルな世界観は、あるいは、そう遠くないところに位置しているのではないか。
戦争。暴力。エロス。人間の根源的な<業>といってもよいテーマを詠むに際しても、曾根さんは六林男氏の薫陶を受けて、独自の世界を展開している。それは、こうしたテーマがそれ自体劇薬のような訴求力を持ってしまうだけに(<劇薬>は<陳腐>という形容と常に表裏一体である)、言葉を剥き出しのままに使うのではなく、<詩>の中に、いかに深く沈潜させ、連想力を持たせるのかという、言葉に覆いをかける作業=<暗喩>の方法論にも繋がろう。
その意味では、演説で数詞を巧みに使ったことで知られるヒトラーを想起させる<鶴二百三百五百戦争へ>の主体は、<人>ではなく、<鶴>でなければならないのだろう。また、<暴力の直後の柿を喰いけり>の句では、<暴力>そのものを云々するのではなく、オレンジ色にてらてらと照る<柿>の具体性と<喰いけり>という力動的な仕草の中にこそ、真の<暴力性>が暗示され、再現されなければならないのだろう。一読素っ気ない、シンプルな切り詰めた表現であるが、<鶴>、<柿>ともに、暗喩として洗練されており、よく機能していると思う。
一方、<快楽以後>の句は、通常のエロスとはどこか異なる、やるせない虚脱感や虚無感が残る。実際のところ、いかなるきれいごとやロマンチシズムで昇華させても、性はみじめでわびしい衝動だ。その代償としての、<快楽>。残るのは、<死>。
<かなしきかな性病院の煙出(けむりだし)>は、終戦直後の六林男氏の代表作であるが、そうしたかなしみの感受は、時代と背景の違いを超えて、平成の今も、曾根さんの句に、引き継がれているのかもしれない。
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薄明とセシウムを負い露草よ 曾根 毅
放射能雨むしろ明るし雑草と雀 鈴木六林男
雪解星同じ火を見て別れけり 曾根 毅
満開のふれてつめたき桜の木 鈴木六林男
乾電池崩れ落ちたる冬の川 曾根 毅
天上も淋しからんに燕子花(かきつばた) 鈴木六林男
曾根さんと六林男氏の濃密な師弟関係は、しかしながら、二〇〇四年十二月、六林男氏の逝去にともない、終わりを告げる。三年余りの師弟関係であったが、曾根さんが師から受け継いだものが、いかに大きいものであったかということは、それからほぼ十年の歳月を経て、二〇一四年の第四回芝不器男俳句新人賞を受賞したことに、端的に証明されるだろう。
公開審査会では、曾根さんの一連の作品における<震災詠>をめぐって審査員の間で激論が交わされた。その後も、管見の限りではあるが、本ブログの記事を含めて、曾根作品を論じる様々な評者の間で、この議論は続いているようだ。
さて、私は当時、連載していた角川「俳句」の現代俳句時評で、この公開審査会の様子を取り上げたのだが(「敢然として進め」角川「俳句」二〇一五年五月号所収)、そのとき頂戴した読者の意見には、<震災詠>をめぐる議論というよりは、師の死後も教えを忘れず、自分の表現を模索してきた、曾根さんの俳人としての姿勢に心を打たれたというものが多かった。そうした誠実な姿勢の延長上に、曾根さんの<震災詠>の説得力や共感が生まれるのではないかという感想も頂き、なるほどと思わされた。
たしかに、曾根さんの<震災詠>が持つ独特の迫力は、会社の仕事で出張中に東日本大震災の津波の現場に遭遇したことや、その後も「ホットスポット」と呼ばれた放射能汚染度の高い区域で幼い子どもを育てる苦悩を味わったことなど、個人的な体験に依るところが大きい。だがしかし、曾根さんが、我が身に降りかかった個人的な<偶然>を看過することなく、俳句表現を通して、時代と人びとの<必然>へと練り上げてゆく過程には、ひとりの俳句作家としての、相応の覚悟が滲んでいたことだろう。
その覚悟は、長年、鈴木六林男という師を信じてきた曾根さんの揺るぎない姿勢と決して無縁ではないはずだ。
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この国や鬱のかたちの耳飾り
暗闇に差し掛かりたる金魚売
おでんの底に卵残りし昭和かな
金魚玉死んだものから捨てられて 曾根 毅
二〇一〇年代も半ばを折り返した。平成は四半世紀をとうに過ぎた。若手俳人を中心に、今さら師系を云々するなどアナクロニズムだと言われることも、最近は少なくないようだ。<かばん持ち>や<雑巾がけ>も、近いうちにきっと死語となるのだろう。
私は、それでも鈴木六林男の<最後の弟子>として、戦後俳句の系譜を継ぐ者として、奮闘を重ねる曾根さんを尊敬する。
曾根さん、これからも頑張って下さい。
連弾は無理でも、また、飲みましょう。
【執筆者紹介】
- 田中亜美(たなか・あみ)
一九七〇年生まれ。「海程」同人。