曾根毅の俳句がもつ個性のひとつに「身体性」があるのは間違いない。
城戸朱理氏はそれを次のように評している。
世界の諸相や諸事象と相対しながらも、ときに身体性に還元される言葉。それは、世界を血肉化するための方法であるとともに、自己という主体を世界に向けて投企することでもある。およそ私性に依拠することのない俳句において、これは、ひとつの、そしてめざましい方法と呼ぶべきだろう。
曾根さんの句集に表出する身体語彙として「口」「手」「頭」などがある。
くちびるを花びらとする溺死かな
さくら狩り口の中まで暗くなり
夕ぐれの死人の口を濡らしけり
朧夜の人の頭を数えけり
霾るや墓の頭を見尽して
夕桜てのひらは血を隠しつつ
神官の手で朝顔を咲かせけり
暗室や手のぬくもりを確かめて
特に「口」や「頭」に印象的な句が多い。
城戸氏の指摘するとおり、これらは外在する諸相を、身体性に「還元」することで成り立っている。
そのような曾根さんの特質が、東日本大震災にともなう福島第一原発事故、また放射能の拡散による被害という事態に対して、きわめて異質な俳句的成果をあげたことは、ある意味で当然だったかもしれない。
薄明とセシウムを負い露草よ
山鳩として濡れている放射能
圧倒的な事故の被害に相対するとき、特にこの東日本大震災や福島第一原発事故に対して、多くの人は安易な公憤義憤につなげてニュース記事の引き写しになったり、あるいは個人的な感傷や、慰霊、哀悼に同化し、大勢に没入してしまったりする句が多かったのではないか。
感傷や哀悼は、それはそれとして胸を打ち、ときに詠み手の心を癒やしもするのであろうが、読者としての私は、その没個性的な同一化にある種の抵抗を感じ、共感することができなかったのも、事実である。
そのなかで曾根さんは、危機的事態を個人の肉体的に「還元」することに成功している。
本来は目に見えず、情報、知識としてしか知りえない「放射能」が、「薄明の露草」や「濡れている山鳩」として、たいそう具体的に、質感をともなう視覚や触覚に「還元」されたとき、我々ははじめて事態を真に個人としてうけとめた「作者」に出会ったのである。
いま、城戸氏に倣って「還元」と述べたが、それは「換言」でもある。
知識、情報を、身体感覚に、形而上を形而下に。逆に、視覚を聴覚に、あるいは思念上の概念にずらし、換言する手法。それが、曾根俳句をもっとも際立たせている。
この国や鬱のかたちの耳飾り
玉虫や思想のふちを這いまわり
万緑や行方不明の帽子たち
「この国」という漠然としたやっかいな概念を、「鬱のかたちの耳飾り」という妙に重々しく独特な質感を持った物体に呼応させた作者は、「思想」のふちを「這いまわ」る「玉虫」を見、生命力あふれる「万緑」のなかに「行方不明の帽子たち」を幻視する。
上五の「や」切れというきわめて俳句的な手法によって、作者は抽象と具象を自在に往還し置換してみせる。
一種の暗喩法といっていいのだろうか。現代詩の修辞法に明るいわけではないので不確かだが、独特な効果を生んでいることは間違いない。
蛇の衣さながら行方知れずなり
春すでに百済観音垂れさがり
喩の奇妙さが発揮された二句。「さながら」「すでに」から導かれるつながりが独特であり、そのくせ妙な実感をともなっている。
このあたり、曾根俳句がもつ奇妙さの真骨頂といえるだろう。
【執筆者紹介】
- 久留島元(くるしま・はじめ)
1985年生まれ。「船団の会」会員、現代俳句協会所属。
共著『関西俳句なう』(本阿弥書店)など。