本書は、平成二十六年の第四回芝不器男俳句新人賞受賞の副賞として、昨年七月に上梓された。まずはそれを祝したい。
本句集を若手の登竜門たる本賞を受賞した新鋭俳人に注目する目線で読むなら、まず栞によせられた賞の選考委員達のことばを読むのも良いかもしれない。例えば曾根作品を語るにあたって、城戸朱理氏と齊藤愼爾氏がそろってシュルレアリストであるアンドレ・ブルトンを引き合いに出しているのはなかなか興味深いことだ(齊藤氏に至ってはこの俳人の表現者としての未来に踏み込んだアドバイス?も書いている)。また、大石悦子氏によれば、同賞は「震災以後を若い世代が俳句の場でいかに引き受けるかという点に、揺さぶりをかけようとする目論見」のもと、東日本大震災から三年後の平成二十六年三月十一日に選考会が行われたそうである。曾根作品はその点でも高く評価されている。ゆえに、帯文には「東日本大震災後の俳句のアクチュアリティをも問う瞠目の第一句集」と書いてある。曾根は関西の人だが、当時は千葉県柏市に住んでいて、偶然出張先でこの震災に被災し、避難生活を経験している。異様な実体験が起点となり作品に現れるアクチュアリティを己の表現の「私」性とすることは、鈴木六林男最晩年の弟子には相応しかろう。なるほど、例えば
薄明とセシウムを負い露草よ
桐一葉ここにもマイクロシーベルト
燃え残るプルトニウムと傘の骨
放射状の入り江に満ちしセシウムか
布団より放射性物質眺めおり
停電を免れている夏蜜柑
原子炉の傍に反りだし淡竹の子
出来事の重さに比例してこのような句群が集中より前景化し、今後も否が応でもある時代のアクチュアルな場へ句集の読者を立たせようとするだろう。だが、句そのものは常にわれわれの前にありつづけるとしても、これら新しく開かれた表現は、震災の生な経験がゆるやかに忘却の彼方に去ろうとするベクトルの上にある以上、流動するコンテクストの中において古びていくのであり、立ち上がる読みは固定された普遍そのものにはなりえない。そして、何が「俳句のアクチュアリティ」を引き出すのかという問題は、本質的には震災云々とは無関係である。曾根の震災詠は、過去の重要な一点として今後なお読者を触発し続けると同時に、作者の手を離れ、どのようなテクストでありつづけられるのかを試されてゆくのだろう。その流れ続ける電流の位相においては、もはや曾根も読者の一人にすぎまい。もちろん再びそれからを引き受け、創造していくのは彼の仕事であるけれども。
さて、私的に好みの句を引く。
初夏の海に身体を還しけり
手に残る二十世紀の冷たさよ
生きてあり津波のあとの斑雪
山鳩として濡れている放射能
雨が死に触れて八十八夜かな
少女病み鳩の呪文のつづきおり
化野に白詰草を教わりし
曇天や遠泳の首一列に
皃の無き蟷螂にして深緑
断崖や批評のごとく雪が降り
原発の湾に真向い卵飲む
蝙蝠に了う一日を連れ帰る
山猫の留守に落葉の降りつづく
狐火のかすかに匂う体かな
本句集は平成十四年から二十六年までの約三百句を「花」「光」「蓮」Ⅰ~Ⅲの五章に分け収めてある。それぞれその句が詠まれた時期に拠った俳誌「花曜」「光芒」「LOTUS」からとられている。つまり、ゆるやかな編年体の句集であり、通読すると、俳人の作句遍歴の来し方が味わえるようになっている。句集としては、むしろその方が読みどころということになるだろう。通読すると、折々の作家の思惟や世界への違和の手触りが感じられるが、私が引いた句は、それらが露骨に顕わになっているものより、一度言葉の底に沈んだ印象を受けるものが多かった気がする。なお、芝不器男賞の受賞作品は百句だが、受賞作は「蓮Ⅰ」と「蓮Ⅱ」に約半数ずつ入れてあるが、受賞作品からはさらに一割ほどが削られてある。厳選、と言っていいのではないか。
付記・・・本稿は「現代俳句」2015年10月号に発表した拙稿を大幅に改稿したものである。
【執筆者紹介】
- 橋本 直(はしもと・すなお)
1967年愛媛県生。「豈」同人、「鬼」会員。俳文学者。
Blog「Tedious Lecture」