2016年2月19日金曜日

【曾根毅『花修』を読む 38 】   変遷の果てとこれから / 宇田川寛之



曾根くん(年下なので「くん」付けとする)と初めて会ったのはいつだったか。略歴にある平成十四年「花曜」入会よりも前のはずだ。彼は俳句などほとんど書いたことのない二十代の青年だった…と思う。本当は俳句に興味などなく、単に知り合いに誘われたから、何となく句会に来てみたのかもしれない。初対面の場所は出入り自由の青山の句会だったと記憶するが、彼が句集を出版するなど、そのときは想像だにしなかった。そして当時、彼がどんな句を発表していたか、まったく覚えていない。やがて、わたしはその句会から去り、彼も別の場を求めた。そんな彼が第一句集を出版した。

句集『花修』は編年体をとっているからか、最初と最後で明らかに作風が違う。十数年の間の熟成をおもう。


立ち上がるときの悲しき巨人かな 6

は、巻頭の作品。初学のころの作品である。ダイナミックな把握だが、言葉に依っている感が拭えない。定型という枠に力まかせに言葉を投げつけた印象が強い。それを若さと言うのかもしれないが…。

墓標より乾きはじめて夜の秋   9
何処までもつづく暗黒水中花  11
快楽以後紙のコップと死が残り 16

これらも同じくまだ若いころの作品だ。「墓標」「暗黒」「快楽」「死」、作者の葛藤、苛立ちが言葉となり、俳句となっている。この時期の作品は読んでいて時には息苦しさを覚える。

鈴木六林男の最晩年の弟子としての彼の活動は、遠く離れてしまっても時折耳に入ってきた。そして六林男の死、以後も彼は自らの信念をもって俳句の森深くを踏みこんできた。

読み進めると、ある時期の作品からは言葉の繫がりに緊迫感があるものの、肩の力が抜けたような印象になる。繰り返し読むと、中盤以降に付箋を貼る機会が増える。『花修』に収録作品のない平成二十一、二十二年の二年間の空白は、俳句形式に接近して格闘したからかもしれぬ。単純化と省略。そして作風の変化があらわれる。出張先の仙台で震災に遭遇したことが彼の俳句にどのような影響を及ぼしたかは分からないが、大きなうねりが生まれた。

水吸うて水の上なる桜かな     61
少女病み鳩の呪文のつづきおり   77 

般若とはふいに置かれし寒卵    85
 

春すでに百済観音垂れさがり   91

後半になるにつれ、季語の斡旋に強引さがなくなってくる。無季や有季という差異ではなく、もっと本質的な、俳句形式と対峙する覚悟のようなものを感じ、句に力強さが増していく。俳句の修辞を手に入れたのかもしれない。

金魚玉死んだものから捨てられて   100
曼珠沙華思惟の離れてゆくところ   114
水に棲むものの集まる日永かな   130
滝壺や都会の夜に埋もれて   144

ただし、一貫して写実などではなく、表現は具象よりも抽象に傾いている。時に作品が難解であることも恐れない。ある時期の作品からは重層性も加わった。知らぬ間に彼はわたしなどよりはるか深く俳句と向き合っていたのである。

棒のような噴水を見て一日老ゆ   110
日本を考えている凧   124
形ある物のはじめの月明り   149
祈りとは折れるに任せたる葦か   154

それぞれの作品の奥行きも見逃せない。また詩的な飛躍にも驚かされることしばしば。彼の作品は、疾走感というより、わたしを行きつ戻りつさせる力がある。一句一句に立ち止まらせる、まさに滞空時間のある俳句といえる。

帯文の「俳句のアクチュアリティ」なるものが何なのか、わたしには理解できていない。しかし、彼は彼なりの答えを見つけているに違いない。



引越しのたびに広がる砂丘かな 120



次なる引越し先はどこだろうか。



【執筆者紹介】


  • 宇田川寛之(うだがわ・ひろゆき)

1970年、東京都北区出身。1992年、「俳句空間」の〈新鋭作品欄〉に投句を始める。いくつかの同人誌を経て、現在無所属。共著『耀』(1993、弘栄堂書店)。