2015年10月16日金曜日

【曾根毅『花修』を読む 1 】 ー事象の裏側への肉迫― 寺田人



句をメモしながら読み進め、目にした瞬間、手が、目が、心臓が止まった句がある。

この国や鬱のかたちの耳飾り

この句が、日本列島の形状について言及するものか、この国の政治・国際的な立場について言及するものかはわからない。だが、この国について言及する上で「鬱のかたちの耳飾り」という比喩の使用、さらに鬱という無形のものをそのメタファーのシンボルとして扱う技量に驚愕した。


「花修の句は良し悪しの判断ができない」「スラスラと読めない」そう思いながら読み進めていた私の思考が停止したのはまさしくこの句を読み下した瞬間。良し悪しの判断、好悪の判断をしながら句集を読むのは私の悪癖であるかも知れないが、それ以前に「解釈ができない」。脳髄に言葉を叩きつけられたような心地だった。


「あれだけの衝撃を与えられては読み進められない」「しかし、もっと読み進めたい」という自己矛盾を結局のところ一ヶ月近く抱え、公私ともに万全の状態でトライしたところ、なんとか通読できた。そして、掲句に対して自身なりの解釈を手に入れることも。

くちびるを花びらとする溺死かな 
暴力の直後の柿を喰いけり 
地に落ちてより艶めける八重桜 
五月雨のコインロッカーより鈍器 
水吸うて水の上なる桜かな 
凍蝶の眠りのなかの硬さかな
殺されて横たわりたる冷蔵庫


被災詠の色濃いものは、全て除外した。「天災に遭った後の人間の詠ずるものは全て被災詠である」という持論があるからである。被災詠であることをモチーフで表現しなくとも曾根さんの句には十二分に被災詠の要素が盛り込まれているのではないか。


福島ほどの被害ではないが、私も幼くして阪神大震災を経験した身。精神や心、魂と呼ばれるものがあれば、そこに染み付いていることだろう。それほどに、自然の暴力は強く激しく恐ろしい。そして、被災後の句全てにその被災の経験がもたらした魂の傷が表れているのではないか。

そしてまた思う、被災詠以上に着目されるべき曾根さんの句の魅力があるのではないか、と。死を、暴力を、人間や事物の暗闇を捉えた句が多く、胸が苦しくなるような重厚な、そして、どこか後ろめたさのある読後感は、それによる物だろう、と。出てくる数々の句の「事象の裏側」に肉迫する句風が、ニヒルでもあり、またシュールでもある。


曾根さんの句風の特徴として「事象の裏側」というものを提示したが、それだけではない。「比喩・擬人化の効果的な利用」「句材として新鮮なものを俳句に浸透させる力」「事象の裏側ゆえの理不尽」「観念的・空想的な句であっても現実へ回帰させる技量」など、様々な手法が見える一冊だ。


今回最も収穫が大きかったのは曾根さんにとっての「事象の裏側」、つまり「常に自身が抱いている思想を句に反映させることが可能である」ということだった。私はまだまだ初学の身、写生を心がけよ、と言われるが、「見たままを描くのであればそこに自身の思想が入り込んでしまうのはむしろ当然」という着想を得たように思う。それができたのは、後述の句のおかげかも知れない。

明日になく今日ありしもの寒卵

事象の裏側を詠む、今日あるもののシンボルとして寒卵を効果的に利用する、寒卵の現実感で実感を持たせるなど、曾根さんの持つ句風の真骨頂だ。


今日当たり前だと思っていたことが、明日は当たり前ではないかも知れない。それは被災後の曾根さんの魂の古傷でもあり、現在抱いていらっしゃる思想かも知れない。この日常という平凡なものが突如として非日常へと変化する可能性があるという「事象の裏側」に心を揺さぶられた。そしてまた同時に、「私の思想もまた、句の中に反映されるのではないか」という新たな期待を私に抱かせてくれた。


明日になく今日ありしものがあるならば、今日になく明日ありしものもまたあるはず。大きな収穫とともに素敵な時間を過ごさせていただいたこの「花修」という句集を生涯傍らに置きたい。



【執筆者紹介】

  • 寺田人(てらだ・じん) 
句歴:4年 所属広島大学俳句研究会H2O、関西俳句会ふらここ、Skype句会くかいぷち運営