曾根毅さんに初めてお会いしたのは、「現代川柳ヒストリア+川柳フリマ」の会場で。
5月に行われた小池正博さん主宰のイベントでした。
私と小池さんの「川柳をどう配信するか」という対談を、にこにこと
聞いてくださっている男性がいらっしゃるなあ、と思っていたら、その方が曾根さんでした。
ご挨拶をしたときに「もうすぐ、本が出るんです」と仰って。
ほほう、と楽しみにしていたらしばらくして美しい一冊が届きました。
普段、作品を読むとき(1)作品、そのあとに(2)作者、という順番で出会うことが
ほとんどです。結社誌で、ネットで、本で。印刷物は「マス」コミュニケーションですから、
ひとりしかいない人間よりも圧倒的な確率で「先に」出逢うことになります。
本人と会うより先に、作品を読む場合、作者が女性か男性か、
年齢は、職業は、「作中主体」とどれほど重なっているのか。
推理しながら読む楽しみ。プロフィールだって、詳しく書いていなければ
犯人、…ではなく本人に出逢うまで、その答えは分かりません。
そのままズバリ!だったり、想像とまったく違ったり。
そして、曾根さんと、『花修』。
先に出会ったのはめずらしくもご本人。
ミステリで言うならば、先に犯人が分かっている倒錯もの。
「刑事コロンボ」や「警部補・古畑任三郎」のようなものですね。
くちびるを花びらとする溺死かな
滝おちてこの世のものとなりにけり
羽衣の松に別れを習いけり
雪解星同じ火を見て別れけり
消えるため梯子を立てる寒の土
薄氷地球の欠片として溶ける
一読して、付箋を貼ったのはこんな句。
対象を見つめる目線が穏やかで、そうそう、確かに曾根さんはこんな目をされていた、と思いだしました。
対象に迫って句にするのではなく、ちょうどよい距離を探りながら、
相手が不快にならない、絶妙な距離で17音に切り取る。
そして、
塩水に余りし汗と放射能
薄明とセシウムを負い露草よ
燃え残るプルトニウムと傘の骨
福島第一原子力発電所の事故を扱った作品。
私は、やはりこの事件については、俳句でも短歌でも、作品にするべきだと思っています。
それぞれの立場も違って、どんな切り取り方をするのか。難しい題材です。
「フクイチ」ののちの世の中を扱った自作をいくつか、
見慣れない単位が身近な単位へと変わってしまった世界を生きる
ナウシカのようなマスクね、そうだね、とほほ笑みあって早める歩み
タイベックス着用義務の草原で摘んだ四つ葉を挟む小説
作品として成立させるときの、現実と、創作の距離感。
体験をそのまま書くことは、詩ではないと思う。それでは実録になってしまう。
現実の密度、そしてそこに何を添えるのか。
悩みながら、探りながら作ったことを覚えています。
曾根さんは、セシウムに露草を添えました。
昔から詩や短歌や俳句に美しく詠われてきた露草に。
現代は、露草に恋人の涙でも真珠の珠でもなく、セシウムが並ぶ世界なのだと、静かに差しだしてきます。
傘の骨は、もっと直接的。傘の布が、原子炉の水が、なくなった後の姿。
もう、役に立たない。そして取り返しがつかないのだということ。
その差しだし方は「本を出すんです!読んでください!」とぐいぐい寄ってくるのではなく、
「もうすぐ、本が出るんです」とそっと告げてきた犯人、ではなく本人の
たたずまいと、「放射能」「プルトニウム」という現実を作品にする距離の取り方が
ゆっくりと重なって。
春すでに百済観音垂れさがり
「倒錯ミステリ」のように読み始めた一冊を閉じたときに、
最後に心に残ったのは、やはりこの一句でした。
「すでに」以外の言葉だったら成立しない、百済観音と曾根さんの立ち位置が完璧な、この一句。
【執筆者紹介】
- 天野慶(あまの・けい)
1979年生まれ。歌人。「短歌人会」同人。
最新刊は『はじめての百人一首ブック』(幻冬舎)。