「抜粋広告」を載せ始めたので、自分自身である「俳句新空間」の広告も載せてみようと思う。「俳句新空間」では前号作品評を載せているが、特に小野裕三氏、もてきまり氏は、時代性をもったユニークな作品評を毎号書いて頂いている。
雑誌になった記事であるが、雑誌を読んでいる人も少ないし、雑誌そのものが捨てられたりしているから今こうした形で再読することも意味があるであろう。
意外な平成の名句が潜んでいるかもしれない。
20句作品(新春帖、夏行帖)を中心に読んでみる。
(記と稿選:筑紫磐井)
▲俳句新空間第2号(第1号作品評)より
★小野裕三選評(2014/03/31『俳句新空間No.1』)
鳥は風つないで来たり冬木立 内村恭子
神のみな目の垂れてゐる宝船 しなだしん
日が落ちて正月映画回り出す 三宅やよい
田楽が田楽のまま冷めてゐる 太田うさぎ
三面鏡蝶を押し潰してしまふ 仙田洋子
雲行きに早々しまふ氷旗 小早川忠義
パソコンときゆつと消えけり春の闇 中西有紀
ワイシャツの父が舟漕ぐこどもの日 三宅やよい
かき氷メニュー三十全て読む 小沢麻結
扇風機部屋中の書の付箋そよぐ 関悦史
順接の団扇逆接の扇風機 三宅やよい
大なるを月小なるをたましひと言ふ 仲寒蝉
見られてしまひ蜩が木の裏へ 西村麒麟
山眠る間際のひかり一人占め 近恵
手にとりて鈴のごとくに冬の鮨 外山一機
貸衣装に身体を通しクリスマス 藤田るりこ
聖夜劇ほんものの馬引き出さる 仲寒蝉
皺くちやな紙幣に兎買はれけり 中西有紀
双六に勝つ夭折のごとく勝つ 堀田季何
俳句新空間と書こうとすると、俳句真空管と変換してしまうのがちょっと面白い、新雑誌。「ブログから紙媒体へ」ということを意図したということだが、ブログの方で興行的(?)に開催された「歳旦帖」以下のシリーズは、僕も欠かさず参加させてもらっている。ブログに投稿されたものをまとめて発表しているだけ、と言ってしまえばまあそれまでなのだけれど、なんとなくそれ以上に企画性というか、盛り上がり感があって面白い。時を追うごとに参加者が少しずつ増えてもいるようで、そんなことも盛り上がり感を密かに支えている。なんとなく、〝風狂〟という言葉がぴったり来るような印象を持ったのは僕だけか。
この企画は、「江戸時代」ということを強く意識しており、江戸からインスパイアされたことを文字通り現代に蘇らせている。まさしく江戸の時空へと向かってするすると釣瓶を落としているわけだが、僕はその行為自体にどこか共感する。俳句は古い文芸であると言いながらもどこか明治になって再整理されたようなところがあって、そのパースペクティブは強く明治によって規定されている。そんな明治なんて知りませんよとばかり、すっとばして江戸にアクセスする。
実は日本古来の伝統のような顔をしながら明治になって作られたものである、というものは数多い。典型的なものが国家神道としての神道だ。西洋に対抗するためのひとつの支柱として作られたそれは、日本の伝統という顔をしながらも〝キリスト教の日本国版〟みたいな印象がどこかにある。議論の多い靖国神社も、明治になって作られたもので、歴史的には実は新しい部類に属する。明治から昭和初期までの天皇制も、言うまでもなく日本古来のものというよりは、プロイセン王制やあるいは中華思想を摸したものという面が強い。そのように、明治になって新たに時間を遡行するかのように〝日本の伝統〟として再編されたものは数多い。そして言うまでもなく、そのようなものの同列に俳句もある。
だから私たちが江戸の俳句について直接考える時、つまり明治の視点を通して再編された芭蕉や一茶を見るのではなく、そのような明治的パースペクティブを排して江戸の俳句と直接に繋がる時、どこか気分に解放感が漂う。その解放感は極めて本能的なものかも知れないが、俳人の本能としては正しい本能でもある。さらに言うまでもないが、太陽暦に変わる以前という意味で、そこでの季語の含意もまったく違う面がある。だから、江戸に惹かれるという俳人の本能はいろんな意味で正しいと感じる。
※小野裕三公式ブログ『ono-deluxe』
http://www.kanshin.com/user/42087より転載
▲俳句新空間第3号(第2号作品評)より
★「俳句新空間NO.2」特別作品鑑賞/もてきまり
風が喰(は)む硝子の歯ぎしりブラザー軒 大本義幸
その昔、いぶし銀のような声の高田渡というフォーク歌手がいて「ブラザー軒」を歌った。〈♪東一番丁ブラザー軒♪硝子簾がキラキラ波うち〉その向こうには死んだ親父と妹がいるというような設定の歌詞だったと思う。〈高田渡的貧しい月がでる〉無欲天然のその声にはファンが多かった。そしてカメラは急にパンして作者の現在形に。〈わっせわせ肋(あばら)よ踊れ肺癌だ〉〈さらば地球われら雫す春の水〉私達もいずれは「雫す春の水」なのだが、「わっせわせ」と自分の癌を皮肉な手つきであやし、句をむしろ明るい絶望に化けさせた。耕衣の言葉を借りて言えば自己救済と他己救済が同時になされている秀句だ。
水無月の汐留駅は黄泉の駅 秦夕美
確かに地下にある駅は、夜昼の区別なく煌々と照明がつき、まして雨の季節ともなると濡れた傘と雨に裾などを少し汚した人々が行き交う景は背景に雨が見えないだけに虚構の舞台のようで、なるほど黄泉のようだ。そんな中、自画像として〈ぽつねんと私雨の鉄砲百合〉異界にまぎれこんでぽつねんとしながらもあちこちと首をふり観察を怠らぬかのような鉄砲百合的痩身の作者を想像してしまう。そして〈波布と会ふたそがれ熱のままの指〉「波布」とはあの猛毒の蛇のことだ。この句には妖気ただようエロスがあり凡者には怖いほどだ。
夏木立ルソーを蒼くぬってみる 神山姫余
眼前には夏木立がある。それを表現しようとすると作者の潜在意識にあるアンリ・ルソー(あの素朴派ともいわれた葉の一枚一枚に輪郭線を克明に画き、同時代の潮流とは遠く隔たっていた画家)の絵がせりあがってきたのだ。そしてルソーの絵の中の葉を作者が持っている内面的なパレットから「蒼」を選び出しぬってみるというほどの句意なのだが、夏木立を二重、三重の位相で表出しながら不思議なさやけさがある。他に〈若鮎の眼の中にある死界かな〉〈終戦記念日 無数の針が立っている〉等、異界から覗こうとする眼(まなこ)の持ち主としての姿勢を感じた。
品なしと鯰が泥鰌笑ひけり 仲寒蝉
〈泥鰌浮いて鯰も居るというて沈む 耕衣『悪霊』〉の本歌取りである。が、観察眼の効いた皮肉な表現がたまらなくうれしい。実は鯰も泥鰌も句会仲間。で、おのずと鯰は太り気味なので動作が遅い。そこいくと泥鰌は感性的にもすぐ反応し軽い身のこなし(たぶん女性陣にも評判がいい)。そこで鯰氏は泥鰌氏のことを「品なし」と言って「笑ひけり」。この「けり」が物語の虚構性に一役かっていて妙。〈釣り人の夏を釣らむとしてゐたり〉の良質な俳味。〈浮巣から見ゆる自分がまざまざと〉と詠む作者の立ち位置はなかなかにクールなものだ。
一時間時計をもどし街薄暑 前北かおる
「香港」という題がなければ、一瞬「えっ!」と思うのだが、なるほど香港時間は日本より一時間ほど遅いのだ。でも俳句って一句独立で読ませるので、この句はなかなかに不思議なテイストを持っている。外部=内部という世界観からか、作者は多作な写生派。その多作の中にコツンと日常の結界に言葉がぶつかる時がある。〈ぶらんこを捨てて帰国の荷を詰めに〉の「ぶらんこ」がそんな例だ。カシャと撮ったスナップ写真に作者さえ意図しない無意識の領域の小道具がバッチリ映る面白さがある。(尚この詳細は『断想』関悦史「ロータス25号」参照の事)
誘拐現場十薬の花の浮き ふけとしこ
まず俳句現場ではあまり見かけない「誘拐現場」という言葉に「えっ」と思わせるものがある。俳句用語に作者の既成概念のなさを感じた。そして「十薬の花が浮き」とは襲ってくる人の恐怖心をアナロジーしていて、それを宙吊りにしたままの終わり方もうまい。〈包帯の伸びきつてゐる夏野かな〉この句もたぶん夏野を前に洗濯物として伸びきった包帯が干してある光景なのだろうが省略効果からか、夏野と伸びきった包帯がフェイドイン、フェイドアウトしてまるでヌーヴェルヴァーグの映画の出だしのような不安や不穏を内包した景を提出している。
麦秋の赤信号を牛走る 神谷波
本当にこんな光景がまだ日本にもあるのかも知れない。赤信号なんて人間がかってに作ったもので牛には関係ない。でも、なんとなくそこを察知して走る牛。おおらかさからくる観察のおかしみがある。〈夏の夜の時計の針が逆回り〉神谷波さんのお仲間が集まれば夏の夜など、時計の針が逆回りして、皆、〈往年の少年少女水芭蕉〉になってしまう。〈遠くまでいく蟻近場ですます蟻〉この句もコンピニですます蟻とこだわって遠くの老舗に行く蟻を思わせる一方、精神的に遠くまでいく蟻と近場ですます蟻を思わせて意味の重層性とおかしみを披露している。
夏の夜の立入禁止といふわたし 関根かな
〈沈丁やをんなにはある憂鬱日 鷹女〉あるいは〈閉経まで散る萩の花何匁 池田澄子〉という句が示す通り、女性は周期的に訪れる悩ましい現象を抱えながら生きている。この句もそんな時の自分を茶化して出てきた句だ。「立入禁止」という言葉がとてもユニーク。〈優曇華に場所を移してよく眠れ〉そんな日は誰も来ない優曇華でよく眠るのがベストだ。〈元彼に似ているやうな飛蝗飛ぶ〉元彼≒飛蝗のポップな把握。〈軍艦の鮨はわけられないよ好き〉という口語。実に巧みな術者だ。〈太陽のちぎれて八月十五日〉の「太陽のちぎれて」というたった九音で昭和二十年八月十五日の全てを表現し得ている。なんびとも認める佳句だと思う。
ぼうたんの揺るるは虐殺プロトコル 真矢ひろみ
〈ぼうたんの百のゆるるはゆのやうに 森澄雄〉の本歌取りである。白牡丹の沢山咲いている景はお湯がふつふつと沸いているようなというほどの意味だが、むしろ句の意味は横に置いて、漢字「百」以外は仮名表記のシニフィアン(記号表現)の美として私は享受してきた。掲句の「ぼうたんの揺るるは」というシニフィアン(ここでも意味は重要ではない)は「虐殺プロトコル」だと云う。プロトコルとはIT用語で手順とか手続きのような意味だ。想えば大量のお湯が沸騰する景は怖い。そのサブリミナル効果も入って「虐殺プロトコル」。二〇一四年五月ウクライナのオデッサで二十一世紀とは思えないほどのネオナチによる市民虐殺があった事を思い出した。他にも共鳴句が多く〈国霊やコンビニの灯を門火とす〉等。
野生種のような長女や山ツツジ 網野月を
「野生種のような」すてきな長女さん。と言っても、もう年頃だから親としてはとても複雑。山ツツジのあの朱色を好きな方は多いのでは・・・。〈五月病むかし甕割り今ガシャン〉こちらは長男の方?大学に入りたてはとかく五月病にやられます。むかしは親と口喧嘩などしてお気に入りのアンティークの甕など割ってくれた程度でしたが、今は電話かけてもろくに会話もしないで「ガシャン」なんです。はい、我が家もそうでした。他の印象深い句に〈かたつむり殻持ち運ぶ自衛権〉。
昼顔に目覚めて口のにがきかな 中西夕紀
夏の午後、ちょっとうたた寝して目覚めてみるとあの昼顔の花になっていた。口がにがいから確かに私なのだけどと「変身」(カフカ著)の昼顔版と読むのはおおいなる誤読なのだが、そうとも読めてしまうシュールな表出。
〈波打つて大暑の腹の笑ひをり〉ステテコ姿の七福神の一人に似た老人が檜の縁台などで大笑いしている姿。なんといっても「大暑の腹」という把握が玄人。〈混み合へる仏壇を閉じ夏布団〉実家に帰省すると時に仏間に寝かせられるときがある。老母などは「先祖代々南無むにゃむにゃチーンッ!」と拝むのだが、確かに仏壇の中には「先祖代々」が入っているのでそうとう混み合っている。
奥よりも裏側である海酸漿 佐藤りえ
海酸漿を鳴らすのは意外に難しく、そう奥よりも舌の裏側で鳴らすのよというぐらいの句意なのだが、これは「奥」「裏側」という言葉が曲者で、ずばり言えば性的な意味で受け取る殿方も多いのではと思った。なにしろタイトルも「麝香」。作者はけっこう無意識にその領域をさらっと表出する。〈濡れている闇から帰り瓜を切る〉この句も男女の営みとしての「濡れている闇」から帰りと取れば「瓜を切る」の瓜がメロウな匂いを微かに放ち始める。攝津幸彦が密かに喜びそうな句。〈飽きられた人形と行く夏野かな〉この句の不思議さも妙。「飽きられた人形」とは作者の一部分である事は確かなのだが・・・。
ポリフォニーひそむ水田つばくらめ 堀本吟
ここでのポリフォニーは間テクスト性詩学のルーツであるバフチンのポリフォニーかなと。(←Wikipedia知識〈汗〉)「ポリフォニーひそむ」とはつまりいろいろな声、考え方、感じ方がひそんでいるくらいの意味。じゃあ「水田」とは何?となるのだが、私は、ここは大胆に俳句現場の表象としての「水田」という事にしたい。日本特有の「水田」には春夏秋冬があるし、畦でしきられるブランドもあり、♪こっちの水は甘いぞ的要素があったりする俳句のトポスとしての「水田」。でね、吟さんが、水田を高く低く飛んで批評などを書いている姿「つばくらめ」。でも時に〈超新星死に体じゃあと叫び声〉のスランプも。このキュチュな表現も又、愛すべし。
脈拍はレゲエのリズム海晩夏 福田葉子
「レゲエのリズム」という捉え方がいい。夏も終わりの海での出来事。かなり疲れがでて脈拍が速くなってしまった経験。深刻でなくむしろ少し滑稽というかキッチュに近い味。〈死後のごと湯船に赤いバラ浮かべ〉この句もいい。白いバラでは付きすぎで、ダメ。黄色もピンクもいただけない。赤でないといけない。なんかここまで書いて作者の一側面がみえてきたような、だって「レゲエ」「赤いバラ」に次に披露するのは「恋」。〈茅花野に仮の一夜を恋わたる〉ひたむきな茅花のせつなさ。「仮の一夜を恋わたる」ああ、もう涙なくしては語れない。
水音の絶え間なき駅避暑期果つ 津高里永子
「みなおとのたえまなきえきひしょきはつ」と読む。句の意味は自明。むしろ中七、下五に畳まれるように三つのki音の響き。それが避暑地の噴水のある駅の様子を思い起こさせて快い。漣のように寄せる一夏の思い出に耽り抒情詩の象徴のような水色のワンピースの女性が立っている。他に〈字のごとく打ちし蚊落ちて紙の上〉。
完璧な死体なるべし心太 高橋修宏
これは寺山修司の詩、「昭和十年十二月十日にぼくは不完全な死体として生まれ何十年かかゝって完全な死体となるのである」の本歌どり(間テクスト)であるが、「心太」がなんとも巧だと思った。少し濁りある誕生。つーと突き出されてからの一生は短くて人に喰われてしまう。その喰った人間の一生もそのように又短いことをアナロジーさせる。〈日は生母月は養母の水くらげ〉この句も宮入聖の〈月の姦日の嬲や蓮枯れて後〉の句の形と響きあう。
水くらげというアンフォルメルな生命の形は精神的不安定な表象と取れる。確かにおおくの生命は太陽が「生母」。月は、その精神的なものを育み「養母」という把握。
麦畑刈られ巨人が来る気配 北川美美
旅先で麦畑の刈られた風景にでくわした。広大な自然の中に麦藁を直径1.5mぐらいの幾何学的な円筒形に圧縮したストローベイルなるものが点々と置いて在り、初めて見る者には不思議な光景だった。確かに「巨人が来る気配」だった。それも旅人を喰う一つ目のキュクロプス。日本ばなれした麦刈り後の風景を彷彿とさせる「巨人が来る気配」。他に〈夏草を踏みしめている乗用車〉等。
責問や金具に締めて氷掻き 堀田季何
幾つかサドマゾ的傾向の句を拾ってみた。手回し掻き氷機という責め具。「責問や」なのでここでの氷は口を割らない容疑者と見た。で、この氷(ピン)氏を金具でガチッと締めガリガリと削りあげるのである。赤いものが滲んだ自白の掻き氷が出来上がる。〈うつくしく牛飲まれゆく出水かな〉「うつくしく」と仮名表記の韜晦。「牛乳飲まれ」に錯視させんばかりの「牛飲まれゆく」と捻り「出水かな」と残酷な着地。確かに俳とは人偏に非なので、このくらい非情の眼も面白い。(いやん、嫌いという方もいるが)表現とは孤独なもの。マゾ的な句として〈うき草や楽園といふ檻の中〉〈未来にも未来あり糞ころがせる〉楽園という檻で永遠に糞ころがしでは、さぞやお辛かろう。
TOKYOや海市となりて流れ寄り 夏木久
「見渡せば花ももみぢもなかりけり 浦のとまやの秋のゆふぐれ」という藤原定家の歌が前詞として置かれている。今、繁栄の絶頂期にある東京。それを毀れやすいブロックのようなローマ字で「TOKYO」と表記。前詞の「見渡せば花ももみぢもなかりけり」に対応する部分の「TOKYO」である。榮枯盛衰は世のならいと言うが如く、そこはかとなく花も紅葉もない廃墟の東京のイメージが浮き上がる。原因は浜岡原発かどうかは、誰もわからない。すでに「海市となりて流れ」寄る東京。「TOKYOや」といちようは切れているものの、私には「TOKYO」と「海市」がオーバラップして見えた。他の好きな句に〈旅人や袖にサハラの月を入れ〉。
炎天のエミュウは我を見くびれる 筑紫磐井
エミュウはダチョウに似て大きく、翼を失くした鳥。─ここは新宿百人町。夜8時頃、男はたまに行くバー「エミュウ」に入る。そこには炎天にいるような服装のマダム・エミュウが居て、いつものグラスを出す。黒メガネを外した顔でぽつりぽつりと会話。「そう、あんたはまだ翼を持っているのね」とエミュウ。男は密かに見くびられていると意識する。(配役/マダム・エミュウ=美輪明宏、男=筑紫磐井)Film『黒エミュウ』予告編より抜粋─この続きも書きたかったが字数制限迫り、清く諦める。次は〈賢きはをんな をとこは茸である〉納得。これは古来より普遍原理でいたしかたない。〈蒼古たる歴史の上に敗戦忌〉「蒼古たる歴史の上に」が見セ消チでわざと消されている表記。「敗戦忌」は造語。もはや戦前かも。
この稿は磐井氏より依頼され、いささか荷が重かったのだが、誤読にこそ、一つの読みがあるかも知れぬと少々開き直り、楽しみながら書かせて頂いた。深謝。
★「俳句新空間NO.2」特別作品鑑賞/小野裕三
遠くまでゆく蟻近場ですます蟻 神谷波
蟻は身近な虫で、公園などを探せばどこにでもいる。蟻のおおよその生態は大人なら知っているだろうが、でもそれはかなりの面で耳学問でしかなく、実際に蟻の巣をほじくりかえして長時間観察したことのある人はそんなにいないだろうから、実態はやはり謎に満ちている。働き蟻とは言われるけれども、実はその労働意欲には濃淡があって、その濃淡こそが、まさにどこにでもいる蟻の分布図を作っているのだとしたら。擬人法としてもなかなか高等な部類で、江戸にも通じる俳諧味がある句。
真夜中に撫ぜて励ます冷蔵庫 北川美美
すべてが動きを止めた夜の部屋で、それでもなにやらうめき声のような低い音を立てて動いているものがある。もはや背景音のようになってしまって、それが動いていることすらも日頃は意識しづらい。それでもたまに冷蔵庫のコンセントを抜いてみると気づく。本当に無音の世界がそこにはあったのだということに。そんなわけで、冷蔵庫はあまり注目を浴びない働き者である。けっこうけなげな存在なのだ。そんなけなげなモノと過ごす真夜中の時間。たぶん作者と冷蔵庫しかいない暗い部屋で向き合う、そんな一人と一個。人間と機械とで、心が通い合うわけもなく、それでも何かが通い合っているように見える、そんな深夜の密かな光景が面白い。
書初は遠い喇叭の水辺かな 夏木久
書初、喇叭、水辺。この三つにいったい何の関係があるのだろう。いろいろと連想を働かせてみるが、どうにもそれぞれに縁遠い関係としか思えない。いわゆる二物衝撃というのとも違う、なんだか不思議な間合いがそこにはある。書初と喇叭と水辺と、その三つのものの間にぽっかりと空いた、まるでポテンヒットを生みそうな空間。なるほど、これはつまりポテンヒット俳句なのかも知れない。三つのものの距離感を巧みに操って、読み手の意識を思ってもいなかった空白地点へと誘導する俳句。もちろん、誰もが成功するやり方でもなく、言葉に対するセンスのようなものがないと、この企みは成功しないだろうが。
囀の上のコサックダンス隊 木村オサム
囀のさわさわした感じとコサックダンスの動きの感じを重ね合わせた、と言えば確かにそうで、比喩としてはそんなに突飛な範囲に属するようにも思えない。だが、「隊」がついたことでぐっと映像的になる。腕を前に組んだ男の一団が、足を突きだしてリズミカルに踊る。異国語の掛け声なども掛けながら。しかも、「囀の上」ということだから、なんだか宙空のような、足場も頼りない場所で、男たちの一団はダンスを続けるのだ。そのことの映像的な面白さと言ったらない。