2016年4月1日金曜日

【曾根毅『花修』を読む50】 最後の弟子―『花修』をめぐる鈴木六林男と曾根毅 /  田中亜美




永き日や獣の鬱を持ち帰り     曾根 毅 
手に残る二十世紀の冷たさよ

暗闇の眼玉濡らさず泳ぐなり    鈴木六林男


 曾根さんと初めて会ったのは、二十世紀と二十一世紀の変わり目ごろ、東京・青山のビルで開催されていた宮崎斗士氏の句会だった。九堂夜想氏の紹介だった。当時、曾根さんはどちらかといえば寡黙で、さりげない気遣いを忘れない、好青年という感じだった。

今でも印象に残っているのは、酒宴が終わりに近づいたころ、曾根さんがふと立ち上がり、部屋にあったピアノで、ジャズ風の即興演奏をはじめたことだ。いい加減酔っぱらっていた私は、その演奏が巧いのかどうか、よく分からなかった。ただ、彼が執拗に繰り返す鍵盤の乱打と、分厚く滲む、鬱屈した不協和音の連続に、妙に心がざわついた。<好青年>に潜む、暗いパトスを垣間見た気がした。

もう少しお酒が入っていたら、通奏低音の部分だけでも、一緒に連弾してみたい、そんなことを思った世紀末の夜だった。


            ***

 まもなく曾根さんは仕事の関係で、関西に引っ越した。やがて鈴木六林男氏を生涯の師と決め、師の<かばん持ち>をしながら、マンツーマンの徹底した指導を仰いでいるという話を、人づてに聞いた。駆け出しの青年俳人のひたむきな情熱と、真剣にこたえる八十半ばのベテラン俳人の厳しさと優しさ。その話を聞いた時、戦後俳句、関西前衛、鈴木六林男という文学史上のタームや固有名詞が、ピアノを連打する曾根さんの横顔に、ふっと重なり、響きあった。
曾根さんと師の鈴木六林男氏の作品は、昭和の<重厚長大>を思わせる濃厚な肉体性と、エロスや暴力も包含したハードボイルド風のロマンチシズムという点において、ある種の親和性が認められるように思う。

立ち上がるときの悲しき巨人かな 
玉虫や思想のふちを這いまわり 
鶴二百三百五百戦争へ 
暴力の直後の柿を喰いけり 
快楽以後紙のコップと死が残り     曾根 毅      

<巨人>の句。「大きいことはいいことだ」といった価値観とは別に、巨象しかり巨人しかり、不自然な大きさを持つ生きものは、どこか悲しげである。とりわけ、<立ち上がる>ことによって、自らの大きさを誇示せざるをえないときには、悲しさはいっそうきわまるのだろう。

そうした悲しさは、巨きなものと対照的な存在である<玉虫>にも、どこか通底する。<玉虫>はメタリックな色彩の昆虫であるとともに、<玉虫色>の言葉にも代表されるような、どっちつかずの胡散臭い姿勢の暗喩とも考えられる。それを<思想のふち>を<這いまわ>るような存在であると断じるところに、独自の批評精神が籠もるようだ。

批評精神といえば、<右の眼に左翼左の眼に右翼>という昭和の終わりごろに発表された六林男氏の強烈な作品が思い浮かぶ。同時期には、<西日なか百年手を挙げ銅像立つ>などの作品もある。その後の冷戦崩壊まで予示したかのような透徹したまなざし(西日の中で手を挙げる銅像に、旧ソ連が崩壊したあとのレーニン像の運命を重ね合わせてしまうのは、単なる思い過ごしだろうか)、<玉虫>の表現するシニカルな世界観は、あるいは、そう遠くないところに位置しているのではないか。

戦争。暴力。エロス。人間の根源的な<業>といってもよいテーマを詠むに際しても、曾根さんは六林男氏の薫陶を受けて、独自の世界を展開している。それは、こうしたテーマがそれ自体劇薬のような訴求力を持ってしまうだけに(<劇薬>は<陳腐>という形容と常に表裏一体である)、言葉を剥き出しのままに使うのではなく、<詩>の中に、いかに深く沈潜させ、連想力を持たせるのかという、言葉に覆いをかける作業=<暗喩>の方法論にも繋がろう。

その意味では、演説で数詞を巧みに使ったことで知られるヒトラーを想起させる<鶴二百三百五百戦争へ>の主体は、<人>ではなく、<鶴>でなければならないのだろう。また、<暴力の直後の柿を喰いけり>の句では、<暴力>そのものを云々するのではなく、オレンジ色にてらてらと照る<柿>の具体性と<喰いけり>という力動的な仕草の中にこそ、真の<暴力性>が暗示され、再現されなければならないのだろう。一読素っ気ない、シンプルな切り詰めた表現であるが、<鶴>、<柿>ともに、暗喩として洗練されており、よく機能していると思う。
 一方、<快楽以後>の句は、通常のエロスとはどこか異なる、やるせない虚脱感や虚無感が残る。実際のところ、いかなるきれいごとやロマンチシズムで昇華させても、性はみじめでわびしい衝動だ。その代償としての、<快楽>。残るのは、<死>。
<かなしきかな性病院の煙出(けむりだし)>は、終戦直後の六林男氏の代表作であるが、そうしたかなしみの感受は、時代と背景の違いを超えて、平成の今も、曾根さんの句に、引き継がれているのかもしれない。

            ***

  薄明とセシウムを負い露草よ         曾根 毅

 放射能雨むしろ明るし雑草と雀        鈴木六林男

 雪解星同じ火を見て別れけり         曾根 毅

 満開のふれてつめたき桜の木         鈴木六林男

 乾電池崩れ落ちたる冬の川          曾根 毅

 天上も淋しからんに燕子花(かきつばた)   鈴木六林男


曾根さんと六林男氏の濃密な師弟関係は、しかしながら、二〇〇四年十二月、六林男氏の逝去にともない、終わりを告げる。三年余りの師弟関係であったが、曾根さんが師から受け継いだものが、いかに大きいものであったかということは、それからほぼ十年の歳月を経て、二〇一四年の第四回芝不器男俳句新人賞を受賞したことに、端的に証明されるだろう。

 公開審査会では、曾根さんの一連の作品における<震災詠>をめぐって審査員の間で激論が交わされた。その後も、管見の限りではあるが、本ブログの記事を含めて、曾根作品を論じる様々な評者の間で、この議論は続いているようだ。

さて、私は当時、連載していた角川「俳句」の現代俳句時評で、この公開審査会の様子を取り上げたのだが(「敢然として進め」角川「俳句」二〇一五年五月号所収)、そのとき頂戴した読者の意見には、<震災詠>をめぐる議論というよりは、師の死後も教えを忘れず、自分の表現を模索してきた、曾根さんの俳人としての姿勢に心を打たれたというものが多かった。そうした誠実な姿勢の延長上に、曾根さんの<震災詠>の説得力や共感が生まれるのではないかという感想も頂き、なるほどと思わされた。

たしかに、曾根さんの<震災詠>が持つ独特の迫力は、会社の仕事で出張中に東日本大震災の津波の現場に遭遇したことや、その後も「ホットスポット」と呼ばれた放射能汚染度の高い区域で幼い子どもを育てる苦悩を味わったことなど、個人的な体験に依るところが大きい。だがしかし、曾根さんが、我が身に降りかかった個人的な<偶然>を看過することなく、俳句表現を通して、時代と人びとの<必然>へと練り上げてゆく過程には、ひとりの俳句作家としての、相応の覚悟が滲んでいたことだろう。

その覚悟は、長年、鈴木六林男という師を信じてきた曾根さんの揺るぎない姿勢と決して無縁ではないはずだ。

            
***

この国や鬱のかたちの耳飾り 
暗闇に差し掛かりたる金魚売 
おでんの底に卵残りし昭和かな 
金魚玉死んだものから捨てられて     曾根 毅

二〇一〇年代も半ばを折り返した。平成は四半世紀をとうに過ぎた。若手俳人を中心に、今さら師系を云々するなどアナクロニズムだと言われることも、最近は少なくないようだ。<かばん持ち>や<雑巾がけ>も、近いうちにきっと死語となるのだろう。

私は、それでも鈴木六林男の<最後の弟子>として、戦後俳句の系譜を継ぐ者として、奮闘を重ねる曾根さんを尊敬する。

 曾根さん、これからも頑張って下さい。
連弾は無理でも、また、飲みましょう。


【執筆者紹介】

  • 田中亜美(たなか・あみ)

一九七〇年生まれ。「海程」同人。




【曾根毅『花修』を読む49】 残るのか、残すのか / 表健太郎




はっきり言って過剰である。『花修』刊行以来、一句集に対してやたらと言葉が多くはないか、ということだ。全部を読んだわけではないが、正直、この扱われ方には異様さすら覚える。もちろん、なかには興味深い評もあった。けれど、すべてがそうであったとはとても言い難い。文章量や上手い下手などは問題にしていない。不器用であっても、その作品を通じて、「俳句とは何か」を真剣(・・)()考えよう(・・・・)()する(・・)姿勢(・・)必要なのである。

好きに書いていいと言われたのかもしれない。自主的な参加ではないとの弁解もあるだろう。ただ、いかなる事情にせよ、俳句への態度が試されていたのは事実だ。その意味で、断ることも立派な批評行為の表明であると、ぼくは思っている。むしろ、仲間意識や恩義などによって止むを得ず原稿依頼を引き受け、当たり障りない感想でお茶を濁すくらいなら、沈黙を貫く方が潔い。もし、ここに作者や依頼主からの圧力が関与していたとすれば、彼らも大罪を免れることはできない。

急に書くことを躊躇してしまったり、書き手が減ることに懸念を示す者がいたとしたら、言っておきたい。馴れ合いのなかに育つ作品や批評など存在するはずがないし、仮にあったとして、そんなものにはなんの値打ちもないと。

たとえば、こんな状況を想像してほしい。
「文学」という言葉がすでに死んでしまったような今日において、俳句の延命を願って止まない者たちがいたとする。彼らは俳句を絶やすまいと必死の普及活動を続け、新人発掘にも精力を注ぐ。そんなところへ、ある句集が、しかも時代の色を反映したような作品を散りばめて登場したとしよう。彼らはすぐに飛びつくに違いない。そして力を尽くして宣伝するだろう。彼らの努力と運動は周囲の関係者の目に美徳と映り、やがて次々に共鳴者が現れる。その頃には、当の句集は注目の一冊になっている――。

「たとえば」と書いたが、現実として起こっていることではなかったか。別に『花修』を槍玉に挙げようとしたわけではない。現在の俳句世界の多くを占ているのは、上のようなシステムというか構造であるような気がしてならないのである。

「何が悪いのか」という反論に答えていこう。すでに書いておいたが、「『俳句とは何か』を真剣(・・)()考えよう(・・・・)()する(・・)姿勢(・・)」「当たり障りない感想でお茶を濁さないこと、書き手一人ひとりが、これさえ意識していれば問題はないのだ。けれど、自分の胸に手を当ててみて、本当に誤魔化しがなかったと、全員が言い切れるだろうか。

俳句も他の芸術作品と同じように、本来「残す」ものではなく「残る」ものだと思っている。「残る」というのは、人の力を借りるのではなくて、作品が自らの力で生き延びていく、という意味だ。そのためには言うまでもなく、作品が「俳句」であることの本質論を抱え込んでいなければならないし、読み手もその点に注意して、切り込んでいく必要がある。つまりは、作者の精神を通じて、作品が「俳句とは何か」という問いを誘発し、この問いに対して不断の議論が交わされるところに、作品の息衝く力が宿るものだと思うのだ。だからこそ、作者にも評者にも、俳句に対する真剣(・・)()取り組み(・・・・)が要求されるのである

もっとも「残す」運動を不要と言っているのではない。優れた作品を忘れさせないために、あるいは不遇の才能を歴史に埋没させないために、誰かが継承、発掘して「残そうとする」のは、非常に重要なことだ。ただ、このとき「優れた作品」「不遇の才能」であることが前提であってみれば、それらはもともと「残る」力を持っているものと言うことができる。

先の例に話を戻すと、俳句を「残したい」という切実な思いは十分に理解できる。しかし、その思いが「残す」ことばかりを優先させ、「残る」ものであるかの検証を怠っていたとしたら、作品は歪められた形で流通することになるだろう。俳句の延命を願う思いのなかに、少しでも気遣い的な要素が混じり込んでしまった時点で、作品を正面から見る視点は失われてしまうからだ。このことに鑑みれば、作者の顔色を窺う文章など、もってのほかであることは言うまでもない。作品を前にしての善意というのは、それに温かな寝床を与えながら、却って生命力を奪っているのである。そしてぼくには、現在の俳句が、こうした不幸な言説空間を疑うことなく受け入れ、ますます衰弱しているように思われて仕方がない。「文学」が死んでしまったも同然の状態とすれば、首を絞めたのは誰なのかを、考える必要がある。

そろそろ方々から、「ではお前は一体、『花修』についてどう思っているのだ」という声が聴こえてきそうなので、最後にその点に触れて本稿を閉じることにする。

実は、この執筆に先立ち、ぼくは自らが所属する俳句同人誌において、短いながら『花修』評を書いた(LOTUS32号)。詳しくはそれに譲るが、概要は以下のようなものである。

作者の言葉を信じるなら、作品はほぼ制作年順に収録されているので、全体を見渡せば、現在までの、作者の俳句に対するなんらかの思想の変化を読み取れるのではないかと思った。
そう思って繰り返し読むうち、最初の二章(「花」「光」)と、それ以降の章(「蓮Ⅰ~Ⅲ」)との間に、微妙な違いが生じていることに気づいた。作品は〈イメージ〉重視のものから始まって、「蓮Ⅰ」を過ぎると、わずかにではあるが〈見る主体〉とでも呼ぶべきものの影がチラつき始める。

〈イメージ〉重視というのは、言葉の結びつきに比重が置かれ、単語の取り合わせによって、意外性や違和感などを生じさせようとする企みが感じられる作品のことだ。対して〈見る主体〉とは、作者がまず対象に向き合い、凝視して、その過程で把捉される像を描こうとしたように思われる作品のことである。たとえば前者には「鶴二百三百五百戦争へ」(花)、後者には「水吸うて水の上なる桜かな」(蓮Ⅰ)といった句を、具体例として挙げておいた。

上のような変化を、ぼくは仮に「眼差し変容」と呼んでみて、今後の展開に期待を寄せた。作者のこうした俳句行為が、「俳句とは何か」を追究しようとする姿勢を彷彿させたからである。
ただ、ぼくはあくまでも、作者の俳句行為を通じて見た「未来の作品」に期待したのであって、現在の、つまり『花修』の収録句については、満足していない。厳しい言い方をすると、俳句史に「残る」という意味では、まだ力が弱いと思っている。一句あるいはなにかのテーマが通底した数句、いや、句集であってもいい。そうした単位は、特に限定していない。とにかく、「俳句とは何か」を問いかけてくるような作品を、ぼくは渇望しているのだ。

これまで書いてきたことは、即、自分自身に跳ね返ってくる。それだけに、恐ろしくもあり、告白すれば、なん度も発言を撤回しようとした。けれど、ぼくもまた俳句を「残したい」と望む者の一人であってみれば、偽ることなど許されないのだ。他者の作品を語るというのは、自分を斬りつけるのと同じことなのである。血を流さない表現行為など、一切信用していない。

【執筆者紹介】
  • 表健太郎(おもてけんたろう)

1979年東京生まれ
LOTUS』同人、編集担当

第四回芝不器男俳句新人賞城戸朱理奨励賞受賞

2016年3月25日金曜日

【曾根毅『花修』を読む48 】 得体のしれないもの / 山岸由佳



曾根毅句集『花修』には得体のしれないものが漂っている。

誰もがいつか訪れるだろう「死」が色濃く存在し、そこはかとない空虚感、不安・畏れ、鬱屈とした感情が渦巻いている。この感情の渦がある強いエネルギーとなり、異様な空気を放っているようだ。そのことは本句集に一貫して言える事であるが、東日本大震災が与えた影響は大きい。震災という未曽有の体験は作者を大きく揺さぶり、より内面の奥深くにまで迫っていく様子が伺える。

玉虫や思想のふちを這いまわり

本句集のある一面、或いは作者自身を象徴している句ではないだろうか。思想の中心部には、闇が深く広がっているだけで何もないようにも思われる。永遠に中心には辿りつけないと知りながら、もがき続けているようだ。

立ち上がるときの悲しき巨人かな 
くちびるを花びらとする溺死かな 
暴力の直後の柿を喰いけり 
快楽以後紙のコップと死が残り 
この国や鬱のかたちの耳飾り 
佛より殺意の消えし木の芽風

人間が元来持っている淋しさや醜さ・残酷さ、この世の不条理、目には見えない力への畏れ、これらと向き合い続けるには強靭な精神力が必要だろう。事実、私は本句集を開くたび、どこかが消耗していくのである。答えの見つからないもどかしさに、考えないことを選択することも可能だろう。また、ストレスを回避するために、無意識に考えることをやめてしまうこともある。しかし、曾根氏は、一見するとマイナスのイメージを持つ、見えない何かと絶えず格闘し続けてきた。
そして、その姿勢は震災後も変わることはない。

音のなき絶景であれ冬青草 
桜貝いつものように死んでおり 
山鳩として濡れている放射能 
少女また桜の下に石を積み

眼前に起きていることを詠まないことの方がむしろ不自然であるかのように、
震災も放射能も作者の体験に基づいた等身大のものとして詠まれている。そして詠み続けてゆく中で、感情の更なる深化がみられるのである。

少女病み鳩の呪文のつづきおり

前半の花、光の章では、「暴力」「快楽」「殺意」「鬱」といったように言葉が剥きだしになっているものに佳句が多く見られたが、掲句は表現としての質が明らかに異なっている。震災を体験し、時間と共に内面の奥深くに沈潜したものから作り出された幻影のようにさえ思われる。事実か事実ではないかは、もはやどちらでも良いだろう。感情や現象を書き留める、又は思想を投影するといったものから、内面の真実を「表現」するものへと昇華し、最終章に進むにつれ、作者の感受性と想像力を持って独特な世界を獲得しつつある。

徐に椿の殖ゆる手術台 
山猫の留守に落葉の降りつづく
能面は落葉にまみれやすきかな 
次の間に手負いの鶴の気配あり 
肉よりも遠くへ投げるアルミ缶 
闇に鳩鳴けば静かに火を焚かん

ある物語の一場面のように、何か不吉さを予告しているようだ。言葉は柔らかくなっているものの、相変わらず得体のしれないものが漂い、むしろ世界はより複雑なものになっている。

『花修』に漂う得体のしれなさは、読み手に、(少なくとも私に)やさしく寄り添ってきてはくれない。本句集はひどく孤独であり、作者のもがき続けた痕跡は、この先も私達に疑問を投げかけ続けるだろう。そういった点において非常に稀有な句集であったと言えるのではないだろうか。

最後に、本句集の中で、少し異質だと思った句を。

獅子舞の口より見ゆる砂丘かな

獅子舞の口から見えた砂丘は、時空を超え、どこまでも広がっていく。見たことのないはずの景色なのに、懐かしく感じるのはなぜだろう。砂丘は留まることを知らず、今も尚、広がりつづけている。


【執筆者紹介】

  • 山岸由佳(やまぎし・ゆか)

「炎環」同人、豆の木参加。第33回現代俳句新人賞



【曾根毅『花修』を読む47 】 夜の端居 / 西村麒麟




立ち上がるときの悲しき巨人かな

作者の詠む幻はくっきりと見える。読者はこの悲しき巨人をただただ見送るしかない。巨人を見送る時間は、どこか安らかな感じがする。

夕焼けて輝く墓地を子等と見る

平凡な内容の句に見えるが、この句集を何度か読み返す時、不思議と立ち止まる一句。私も、子ども達も、必ず墓におさまる時がくる。墓地を見て、墓地を穏やかだと思う心は、さみしいけれど確かにある。

夜の秋人生ゲーム畳まれて

私もまた、人生ゲームの駒のように、何者かに操られたり、畳まれたりする存在ではなかろうか。なんてことまで考えはしないが、人生ゲームの片付けは妙なものだ。

朧夜の人の頭を数えけり

頭がぼんやりと浮かんでいて、それぞれに大した違いが無いようにも見える。作者も、読者もぷかぷかした頭の一つ。

秋風や一筆書きの牛の顔

すっきりと、穏やかなに、優しく、現実にはなかなかそうはいかない。この牛は作者の理想美だろう。

日本を考えている凧

どうなることやら。まぁ、いいか、と考えている凧。凧が作者のようにも見えて可笑しい。考えているような、考えていないような、そんな具合がいい。

鰯雲大きく長く遊びおり

空には壮大なものが遊んでいると思うと嬉しくなる。天上も地上も、遊びは大きな方が良い。

頭とは知らずに砕き冬の蝶

いつまでも心にこびり付くような思い出というものがある。ここでの「砕き」は最適の言葉だろう、それだけに哀しい。

闇に鳩鳴けば静かに火を焚かん

ささいなことで、目前の景色を異界と感じることがある。作者にとって、そこは静かで穏やかな場所なのだろう。鳩も火も闇も現実であって、異界でもある。その境界線はぼんやりしている。

他にも

影と鴉一つになりて遊びおり 
さくら狩り口の中まで暗くなり 
ぬつと来てぬつと去りたる鬼やんま 
どの部屋も老人ばかり春の暮


の句に惹かれた。

惹かれた句には、夜風のような良さがある。夜風は変に励ましたりしないところが良い。目を細めて夜風を味わう。夜の端居をしていると、素敵な幻も見えてくる。

あぁ、そうか。

『花修』はどこか、夜の端居のようだ。


【執筆者略歴】

  • 西村麒麟(にしむら・きりん)

1983生まれ。「古志」同人。

2016年3月18日金曜日

【曾根毅『花修』を読む46 】 Giant Steps / 九堂夜想




   毅兄へ

拝啓

 君が関東から関西へ居を移してからもうどれくらいになるだろうか。久しく会う機会を持たなかったが、先日、都内で行われた某俳句勉強会にて図らずも再会を果たした時は嬉しく思ったものだった。

 ところで、君の本『花修』のことだが、告白すれば、上木からこの方さほど多く繙いたわけではない。それは、同じ俳句会に属している手前ほとんどの作品が未だ記憶に新しいということ、そして、それ以上に(殊に初期の作品に“その思い”は強いのだが)およそ二十年になんなんとする君との付き合いがもたらす抑えがたい昔日の感が、ともするとページを繰る手を鈍らせていたということもあるかもしれない。

 そうした些かセンチメンタルな読みのうちに、『花修』が湛える或るテクスチュアに絡んで私的にいくつか思い出されることがあった。まあ、他愛のない些細なエピソードだが、それでも僕にとっては或る懐かしさとともにささやかながら作品理解(あるいは作者理解といった方が正しいか)に繋がる事柄のようにも思えるのだ。それは、およそ次のようなことである。

「曾根です」―と言って、その都内にある某ミュージックスクールに君がやってきたのは‘90年代半ばの春だったか秋だったか。当時、世間は一種のプチ・サックスブームで、その音楽学校のサックス科も仕事帰りのサラリーマンやOLの生徒らで一時の賑わいをみせていた。エリック・ドルフィーと阿部薫にかぶれていた僕がそこに籍を置いてからしばらくして、君が先述の挨拶を伴いあらわれた時の様子を思い起こすのはそれほど難しいことではない。大方の生徒が基本スタイルとしてアルトを手にする中、君はシブい関西弁とともに数少ないテナーサックスの徒としてレッスンルームにやってきたのだった。ともに、まだ20代だった。その後、いくたびかのセッションと音楽談義の中で、君がかのジョン・コルトレーンの楽曲に触発されてテナーを始めたことを知るに及んで少しく頷けるものを覚えた。そうか、ソニー・ロリンズでもなく、ウェイン・ショーターやマイケル・ブレッカーでもなく、ましてやレスター・ヤングでもない、「私は聖者になりたい」と嘯き不惑の若さで亡くなったあのジョン・コルトレーンか―。

 年齢が近いせいもあってかお互い打ち解けるのにさほど時間を要さなかったが、正直、君がどのような経緯で俳句を始めるに至ったかよく覚えていない。サックスと並行して俳句を始めていた僕がその頃参加していた『海程』や某超結社句会の冊子などを君に見せていたことが多少なりとも影響したものか。直接、君に俳句作りを勧めたことはなかったと思うが、そのうちに君も手探りの中から五七五を紡ぎ始めたということは俳句の持つ何かが君の感覚に触れたということだろう。

 その時からだろうか、音楽と並んで俳句や文学談義を交わすようになったのは。「あまり本に馴染んでこなかった―」とは当時の君のセリフとして耳に残っているが、こちらも人に自慢できるほどの文学的内容があるわけではない。ただ、僕の場合、昔から「本」「音楽」「映画」をエンゲル係数として生活してきた由、“食べた”モノについてはいくらか語れたろうからそうした貧しい情報量の中から君に目ぼしい本や作家を紹介したことはあるかもしれない。そうした中で、僕が君に何を勧めたかは大よそ忘れてしまったが、君から勧められて読んだ本のことは今でも覚えている。それは松下竜一の『狼煙を見よ』というノンフィクションである。かつて、「東アジア反日武装戦線“狼”」を中心とする新左翼系活動グループが起こした連続企業爆破事件(‘74~‘75)の内幕とテロ事件前後の「“狼”」メンバーほかの動向を丹念に取材したものだ。実はこの手合いは決して得意な方ではなく、当時は思想的興味からわずかにフーリエやクロポトキン、トロツキーや北一輝、チェ・ゲバラ等に触れるのみだった。松下竜一にしても決して良い読者とは言えず、その頃の記憶では彼が実家の豆腐屋を手伝いながら綴ったデビュー作である歌集『豆腐屋の四季』と、甘粕大尉に虐殺されたアナキスト大杉栄と伊藤野枝の娘・伊藤ルイの半生を記した『ルイズ―父に貰いし名は』を辛うじて掠めていたに過ぎなかった。ちなみに「“狼”」のリーダー格である大道寺将司は、現在、死刑囚として東京拘置所に収監されているが、数冊の句集を持つ俳人としても“活動”しており、今思えば、どこか奇妙な因縁を感じないでもない。そして、『狼煙を見よ』を読み終えた時、僕はまたしても君に対して少しく頷けるものを感じたのだった。

ジョン・コルトレーンと松下竜一『狼煙を見よ』―この二つに直接的な絡みはない。また、この二要素のみをもって君や『花修』を語りきるつもりもない。だが、君という人間との関連性において、それぞれに或る共通性は窺えるなと思った。コルトレーンの音/松下竜一の文、いずれも武骨で不器用なギャロップでありながらそこはかとないナイーヴさを秘めつつ或る信念への揺るぎない強さに満ち溢れている。そのエッセンスは「愚直なまでの誠実さ」ということ。かつて「曾根毅という男はこういうところに共鳴するのだな」という感懐を抱いたが、星霜を経て今、それは君や『花修』のイメージを些かも裏切らない。

 さて、長すぎる思い出話もここまでに、『花修』評について、である。僕の意見は至ってシンプルなものだ。すなわち―次の次なる作品に期待する、と。

 物書きというものは、大方はじめの二、三編は自分の“持ち物”で書けるものだろうという考えを抱いて久しい。その意味で君の『花修』とは、それなりの内容を有し、それを書けるだけの力量を持つ人間が、それを発揮したという“証明”であり、また俳句作家・曾根毅のやや遅きに失した俳句界へのささやかな“挨拶”に過ぎない。ゆえに、僕からすれば『花修』とは褒めるも貶すもなく、言わば批評以前の句集なのである。といっても得心がいかないかもしれない。こう記せば伝わりやすいだろうか。『花修』は、君の私的俳句史からは五年、公的俳句史からは五十年の遅れを取っている。前者の年数は便宜上のものだ。五年であろうと十年であろうと、要は君の内実に比して刊行が“遅きに失した”ということが理解されれば良いのだから。後者については、賢明な君ならば気付いていないはずはない。君の直接の師である鈴木六林男をはじめ、君が決定的な影響を受けたかつての新興俳句の作家たちの句業を熟知していれば「宜なるかな」と思わない方がおかしいのだ。
 先刻、僕は君のことを「俳句作家・曾根毅」と書いたが、このように記する時、僕は君の俳句行為を六林男はもちろんのこと、誓子、三鬼、白泉、窓秋、赤黄男、または鬼城、蛇笏、石鼎、普羅、水巴、さらには子規、虚子、碧梧桐、はては芭蕉にまで連なる同一線上の批評軸において見ているのだ。これまで数多くの評者が『花修』について書いてきた。それぞれに真摯な、また友愛的な態度で書かれたものだろう。だが、それらが如何なるスタンスだとしても他者の毀誉褒貶など僕には一向与り知らぬことだ。僕にとって問題なのは、『花修』が1ミリたりとも僕を“殺さない”ということなのだから。

「俳句を書く」ということを、君はどのように考えているだろうか。それは、あたかも鏡に自身を映すように季語と五七五に己を仮託し移してゆく自己投影の営み―すなわち「自己表現」であろうか。以前、別のところでも書いたが、僕はその“短さ”と“定型”ゆえに主体をその主体自体から切り離しつつあらたな創造へと向かう「脱自‐超俗」の道と考えている。<書く>とは、いわば終わりなき“私殺し”であり、その度ごとに自己を超えてゆく「超脱」の法ということだ。「秘すれば花」―これは君が自身の本のタイトルモティーフとした『風姿花伝』の中で最も人口に膾炙した言葉だが、僕流に換言すれば、それは差し詰め「弑すれば花」といったところだ。君が討つべき相手は、師・六林男であり、新興俳句の作家たちであり、そして何より己自身である。

2011年3月11日。あの日、かの地で、君は何を見たか。東日本一帯を突如襲った未曾有の大地震と大津波―その日、偶然、仕事の出張先である東北にいた君は、そこで一体何を体験し、何を感じたか。それは他者が不用意に踏み込めぬ領域ではあろうけれども、人間・曾根毅としての君が確実に“何か”に討たれたであろうことは想像に難くない。が、『花修』ではそのテーマが表層レベルに止まっていることは否めない。急いで付け加えれば、ここでいうテーマとは「震災」や「原発」などといった瑣事(!)ではない。諸々の「存在」と「時間」、その変容と大いなる可能性のことだ。むろん、君ならば所謂「震災詠」なるものをコルトレーン張りの“シーツ・オブ・サウンド”で書きまくることも可能だろう。事実、そのような作家連もいた。ここでは、そうした作家および作品への論評は控えるが、敢えて言えば、そうした“地上的”かつ“人間的”な視点や感覚での表現は疾うに先達が試行していることである(たとえば戦火想望俳句)。ともあれ、君が“持ち物”をすべて吐き出したところから俳句作家・曾根毅の本当の俳句行為は始まるだろう。

ところで、ここまで『花修』の作品を一つも出さずにきたが、出来如何とは関係なく心に深く刻印された一句がある。

立ち上がるときの悲しき巨人かな

作家の本質はその処女作によくあらわれる―とは僕の今一つの持論だが、『花修』冒頭の掲句を読むたびに、曾根毅は図らずも自身(または人類?)の“運命”を書いてしまったのではないかという複雑な気持ちにとらわれる。むろん、誰しも順風満帆な人生など送れるはずもなく、僕の見方もたんに人間的甘さからくるロマンティシズムに過ぎない。が、俳句においても、実人生においても、そのような“とき”が君にたびたび訪れるのではないか。しかし、それが君の大いなる足跡 Giant Stepsのプロセスと考えるならば、むしろそれは歓待すべき“とき”かもしれない。

最後に蛇足ひとつ。時折、君から周囲の“雑音”についての悩み(?)を聞かされることがある。第四回芝不器男俳句新人賞を受賞して以来、宝くじの当選者に急に新しい“親戚”が増えるように、様々な人たちが君の周りを取り囲んだことだろう。それに連れて耳触りのよくない雑多な“ノイズ”も飛び交ったに違いない。言えば「選ばれてあることの恍惚と不安」といったところだろうが、これも“とき”のひとつと考えればいくらかの達観にはなるだろうか。あるいは助け舟代りにひとつ僕が言っておこうか―「曾根毅をナメんなよ。彼は『花修』程度で終わる作家じゃねぇんだ!」
さて、布石(放言?)は打っておいた。あとは君がそれを証明するだけだ。切に君の健康を祈る。                     

敬具  

夜想拝



【執筆者紹介】


  •  九堂夜想(くどう・やそう)


 1970年生。『LOTUS』編集人。