ラベル 仲寒蝉 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 仲寒蝉 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016年10月14日金曜日

【俳句新空間No.3】 仲寒蝉の句 / もてきまり



民草のひれ伏す上を手毬歌 仲寒蝉
民草は民の震えるさま(おそれおののく)を、草に例えていう語。そのひれ伏す上を繰返される「手毬歌」。この手毬歌はピョンヤン放送、北京放送のようにも思えたが、ひれ伏すまではいかぬものの民草が萎びつつある某国のN□Kのようにも思えた。妙に怖い「手毬歌」。他句に〈若水を闇もろともに汲み上げぬ〉初詣の折に若水を柄杓で汲む。まだ明けやらぬので「闇もろともに」汲みあげた。この「闇」が戦前という闇に繋がらぬよう願うばかりだ。

2016年6月10日金曜日

【俳句新空間No.3】仲寒蟬作品評 / 大塚凱



 確かに新年は、一年を通して最もナショナリズムを湛えた時期であるかもしれない。戦争と言えば現在は夏や初秋に詠まれることが多いが、太平洋戦争開戦直後に詠まれた俳句の中には聖戦を寿ぐ新年詠も多数含まれていた。本作は挑発的あるいは皮肉なまなざしで、戦争と平和を詠う。

  若水を闇もろともに汲み上げぬ
大抵は清冽なものとして詠まれてきた若水も、作者のまなざしは「闇もろともに」汲み上げられるものとして捉える。どこか不穏さに包まれた、それでいて闇の霊気を湛えた有り様は、若水の詠みぶりとして興味深い。作品の中において暗示的な一句である。

  喰積の海老も帆立も輸入品
風刺的な一句。ともすれば川柳の域に触れてしまいそうではあるが、作者の憂いがユーモアの中に息づいている。明るさや軽みに満ちた詠みぶりならば、めでたさを裏切るような内容も豊かな意外性として味わいたい。

 一連の作品には〈大東亜共栄圏が初夢に〉〈破魔弓をかの国へ向け放ちけり〉のような、作品の文脈や時勢を離れれば危ういと取られかねない句も含む。個人的にはこれらのやや観念に寄った句よりは、前掲のような裏切りを孕んだ句を楽しみたい。それが作者の魅力ではないか。

2015年9月28日月曜日

【俳句新空間No.2】 仲寒蟬作品評ーひとところをー / 津髙里永子



 作者、仲寒蟬氏は多作という修業を日々続けておられる荒武者。その手応えと手ざわり、切れ味、そして包容力のある俳句にいつも圧倒されている。忙しさにかまけて弁解ばかり言っている私には眩い存在である。

木漏日のそのまま春の水の底 仲寒蟬
午前中の診察が一段落した作者は、街路樹のある歩道を気分転換に歩いてみた。雨も上がって遅い昼下り、午後三時ごろであろう、その光に、ああ、日差しが柔らかくなったなあ、ずいぶんと日が伸びたねと呟きながら、ひとところ、舗装が崩れて水溜りになったところに立ちどまる。車や人の往来の激しい道なのに、木の葉が沈んでいるぐらいのあまり濁っていない水溜り、その小さい水溜りをちょっと覗いただけの作者なのに、掲句のような「春の水」の本意を捉えたような一句に仕立て上げる。その凄腕は、「春の水」で終わらせず「春の水の底」ときちっと気持ちを水底まで沈めたあたりにある。「水温む」の感覚をまずは思わせ、水底の浅さ、それに映っているものの揺らぎが春そのものであることを読者が感じとれるようにする。そして、なお、「底」ということばによって、「春愁」の気分まで漂わせる重層的な句なのである。

   橋わたるたび夏めいてゆく心地  寒蟬 
夏を大づかみして表わすために、掲句一句目のように橋を介在させるというのは、じつに聡明である。太陽の強い光、その白い反射をより身近に体感させれば、町の中の橋で充分であろうが、作者は「橋わたるたび」となんども橋をわたったことを強調、そのたびにますます夏の雰囲気にひたれる境地へと深まっていったことを歓喜しておられるようであるから、足元に流れる川の勢いに身がすくんでしまうような山間の細い橋をわたっていっての一句と考えるべきであろう。スリル感を楽しめるのは、やはり、夏の季節の間であろう。場所を限定させる言葉、たとえば「山中の」とか「峡谷の」とか、はたまた「海近き」などの条件を言わずとも、情景が目に浮かび、作者の詩ごころが伝わってくる句こそ、まさしく俳句精神に則ったものといえるのではないか。

   釣り人の夏を釣らむとしてゐたり  寒蟬
ぴんぴん跳ねながら目の前に降参した姿を見せる魚を想像しながら釣糸を投げる釣り人。小さい魚など要らぬと、完全に彼の頭の中の映像は大きな魚しか結ばれていない。両足をふんばって構える釣り人を遠景としてみつめる作者。どこかに「釣りは趣味の中の窮極である」というようなことが書かれていたのを見たことがあるが、魚との駆け引きに賭け、ひたすら自分を信じて、長時間、ひとところに居続ける根性に作者はしばし、言葉もなくして見つめていたのであろう。 
ポイントを摑まえた、多くを語らない句はそれぞれ読者の思い出を甦らせる。このようなサービス精神のある、プロとしての俳句に私は心を奪われた次第である。

2015年9月25日金曜日

【俳句新空間No.2】 津高里永子の句 11 / 仲寒蟬



水音の絶え間なき駅避暑期果つ  津高里永子
「夏果つ」でも「休暇果つ」でもなく「避暑期果つ」である。これによって作者がいま避暑地にいると分かる。避暑の客が去った後の避暑地の駅、そこに水音が絶えない。もう水の秋が来ているのだ。夏の終りや夜の秋と水音との取合せは珍しくないが「避暑期果つ」とずらしたのが効いた。フェードアウトしていくような終わり方は最初の句と呼応して読者を大景へと連れてゆく。
 全体を通して読んで爽快感を覚える。引きずる感じがなくテンポがいいのだ。力まずに季節の移り変わり、生活の流れを淡々と、しかし作者の存在感をしっかりと刻む形で詠まれている。それが出来るにはかなりの力量が必要なのだが。

2015年9月23日水曜日

【俳句新空間No.2】 津高里永子の句 10 / 仲寒蟬



羽抜鶏搔きし砂場の砂黒し 津高里永子
連作では終わり方もまた大事。このような光景は羽抜鶏の句としては珍しいのではないか。羽抜鶏そのものの風情や哀れさに注目するのが常道であろうが、鶏が引っ掻いた砂場の砂が黒いという発見だけを詠んだ。しかし肩透かしを食ってもあまり嫌な気分ではない。それは目の前の景がきちんと書かれているから、作者が、従って読者もそこにいるという臨場感が味わえるから、であろう。

2015年9月18日金曜日

【俳句新空間No.2】 作品鑑賞/五島高資



  星々を招き入れたる植田かな 仲寒蟬
農村の夜景が目の前に広がる。ちょうと田植えしたばかりだから田圃には水面が多く見える。そこに星影が映えるという風情には、単なる実景を超えた天人合一の詩境を感じる。「招き入れたる」所以である。

  万緑や長き鉄橋わたりける 仲寒蟬
渓谷にかかる一本の鉄橋と山々の万緑がとても印象的な風景である。しかし、それだけではなく、「わたりける」という措辞から、一粒万倍に展開する豊かな詩情が感じられる。

  空へ出る仕掛としての青岬 仲寒蟬
たしかに岬の果てへ至ればその先は海原が広がるのみである。しかし、「海」と「天」が同じ「あま」と考えるならば、たしかに岬は「御崎」として神々の住む高天原へと繋がっているような気がする。青葉が茂る頃ならなおさらである。
 ほかの感銘句を以下に列挙する。

  波打つて大暑の腹の笑ひをり 中西夕紀
  泉湧く木の葉一枚踊らせて 福田葉子
  日の沖へ向かう柩の中に瀧 高橋修宏

2015年9月8日火曜日

【俳句新空間No.2】仲寒蝉の句 / 陽美保子


木漏日のそのまま春の水の底 仲寒蝉
そのままと言えばそのままの句ではあるが、不思議な魅力がある。それは動詞を略した俳句そのものの魅力。この句に「届く」などの動詞があれば凡句となるであろう。即物的な叙述の中に、木々の葉がまだ茂っていない明るい早春の林中と、そこに流れる浅い川のきらめきが髣髴とする。

2015年9月3日木曜日

【俳句新空間No.2】  津高里永子の句 9 / 仲寒蟬


友引の日か空蟬の脚欠けて 津高里永子
全体の題となった句である。「て」で終わっているせいもあって決して重くれていない。空蝉の脚の欠けたのを見て何故かそう言えば今日は友引だと思い出す。縁起でもないと思わなくもないけれども気分としては極めて軽い。

2015年9月2日水曜日

【俳句新空間No.2】  津高里永子の句 8 / 仲寒蟬


勉強と仕事と眼鏡して昼寝    津高里永子

 これもどこか力の抜けたような所のある句だ。時はいま夏休み。一日のスケジュールを羅列したような軽さ。ただし勉強と仕事の両立が大変そう。だから眼鏡をしたまま昼寝する羽目になる。

2015年8月7日金曜日

【俳句新空間No.2】  津高里永子の句 7 / 仲寒蟬



不公平なるが神様西瓜切る 津高里永子
これも箸休めの句だが他の句とはいささか趣が違う。上後中七では神様の不公平を謗るものの決して強い口調ではない。むしろ投げやりで諦めの雰囲気が漂う。その証拠に下五には西瓜を切るという極めて日常的な行為が付く。なるほど西瓜も公平に切ろうとしたところで機械のようにきっちりとはいかない。

2015年8月6日木曜日

【俳句新空間No.2】  津高里永子の句 6 / 仲寒蟬



網戸より潮風夜間飛行の灯   津高里永子

 所謂二物衝撃の句。暑いので網戸にしてあるのだが海が近い場所らしくそれを通して潮風が入ってくる。羽田空港の近くなどを思い浮かべればよい。如何にも気持ちのいい夜だ。やがて網戸越しに夜空を横切る光が見える。ああ、あれは夜間飛行の灯なのだなと気付く。夏の夜のひと時を巧みに切り取っている。

2015年8月5日水曜日

【俳句新空間No.2】  津高里永子の句 5 / 仲寒蟬


酔へるなりノンアルコールビールでも 津高里永子
これも軽い味わいの一句。しかしそれまで屋外の句であったのがこれを境にしばらく室内の句となる。場面転換の役目も果たしている。

2015年8月4日火曜日

【俳句新空間No.2】  津高里永子の句 4 / 仲寒蟬



塀ぎはの紫陽花猫を濡らしけり 津高里永子
これはまた微妙な感覚の一句。塀際に植えてある紫陽花が少し前に降った雨のためまだ湿っている。猫は道の端や塀際を歩くので、紫陽花の葉に溜まった雫に触れ、濡れてしまうのだ。何気ない日常の一齣ではあるけれど、よほど注意して観察しないと中々こういう風には詠めないものだ。

2015年8月3日月曜日

【俳句新空間No.2】  津高里永子の句 3 / 仲寒蟬


洗濯場暑し給湯室涼し 津高里永子
この句は対照的なものを対句のように並べるというひとつのパターン。それでもこういう息抜き的な句があると先へ読み進もうという気になる。二十句の中にはこのように軽いけれども通り過ぎるには惜しい作品がいくつかある。

2015年6月23日火曜日

【俳句新空間No.2】  津高里永子の句 2 / 仲寒蟬


育ちすぎたる病院の熱帯魚 津高里永子 

人を食ったような二句目。この病院の職員は熱帯魚を可愛がるあまり餌をやりすぎたか。それにしても場所が病院なので、具合の悪そうな患者さんの中にあって熱帯魚だけが健康そうに見え、皮肉っぽくておかしい。

2015年6月22日月曜日

【俳句新空間No.2】  津高里永子の句 1 / 仲寒蟬



緑蔭にさがつて画布の木々を見る 津高里永子
連作では最初の数句が大事。その意味ではぐっと惹きつけられる始まりだ。絵を描いているのは作者だろうか、それとも絵を描いている人のすぐ近くにいるのか。いずれにせよ描き手は木々を描いているようである。全体を見渡すために画布から遠ざかって絵と風景とを見比べているのだ。すると自然にその人の身体が緑陰に包まれてゆく。読者もともに緑蔭に、そうしてこの「友引」という連作の世界へ誘われてゆく。

2015年6月18日木曜日

【俳句新空間No.2】 仲寒蝉の句 /もてきまり


品なしと鯰が泥鰌笑ひけり 仲寒蝉
泥鰌浮いて鯰も居るというて沈む 耕衣『悪霊』〉の本歌取りである。が、観察眼の効いた皮肉な表現がたまらなくうれしい。実は鯰も泥鰌も句会仲間。で、おのずと鯰は太り気味なので動作が遅い。そこいくと泥鰌は感性的にもすぐ反応し軽い身のこなし(たぶん女性陣にも評判がいい)。そこで鯰氏は泥鰌氏のことを「品なし」と言って「笑ひけり」。この「けり」が物語の虚構性に一役かっていて妙。〈釣り人の夏を釣らむとしてゐたり〉の良質な俳味。〈浮巣から見ゆる自分がまざまざと〉と詠む作者の立ち位置はなかなかにクールなものだ。

2014年10月10日金曜日

登頂回望・号外編(その1)[仲寒蝉] /  網野月を


冬麗や廃墟の石の尖りにも    仲 寒蝉


 (『俳句新空間No.1』「新春帖」平成26年1月1日より)

海外での句作は季語の問題などからも困難さを伴うものである。「アストゥリアス」の題が付されていて、スペイン北部の州アストゥリアスへの紀行俳句のようである。二十句には作者の好きな研ぎ澄まされた対象を詠み込んでいて、極めて先鋭的な感覚が伝わってくる。「寒月光とどくや沼の底の剣」、「巡礼の道にしたがふ冬銀河」、掲句、「石の壁いちまい冬の日に対す」「尖塔に凍雲触れて過ぎゆけり」などなどだ。対象の質感をそのまま句の中へ取り込もうと意図している。それだけに語句が生のように感じるのだが、それも作者の術中に筆者がはまってしまったからであろう。筆者はレンタカーでバスクから聖ヤコブの道を辿ったことがあるが、残念ながらアストゥリアスは通過地点であった。このような水分の比較的少ない土地柄で、句作することは難しいと思われるが、作者は見事に成し遂げている。(『俳句新空間No.2』より転載)