厚着して紙を配つてゐる仕事 佐藤りえ紙を配る仕事というのは基本的には単調な仕事のはずだ。仕事、という言葉でぶっきらぼうに句が終わるのは、そんな苛立たしさを言葉の行き止まりにぶつけているようでもある。だが、そんな気持ちとは裏腹に、手の動きに正確に正比例して紙束の山は着実に減っていく。そんな気持ちの停滞と物理的な進捗との間を繋ぐのが、その作業を執り行う肉体だ。なんとも板挟みのような肉体は、ただ厚い衣服に包まれるばかりだという。そんな幾層もの温度差の行き違いに、洒落た諧謔性の見える句。
2017年4月18日火曜日
【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [佐藤りえ] / 小野裕三
ラベル:
OnoYuzo(小野裕三),
佐藤りえ,
俳句新空間No.3,
平成二十六年甲午俳句帖
2016年11月25日金曜日
【俳句新空間No.3】 佐藤りえの句 / もてきまり
ひとしきり泣いて氷柱となるまで立つ 佐藤りえ
たぶん、若松孝二監督「実録・連合赤軍あさま山荘への道程(みち)」という映画が下敷きになって構成した二十句。一句独立の視点で読むと、この句が物語から離れても句として最も立っている気がした。「ひとしきり泣いて」という肉体性(生)から「氷柱となるまで立つ」という精神性(死)の隠喩が決まった。他句に〈霜柱踏み踏み外し別世界〉求心的な組織に、間違って入り込んでしまう悲劇。赤軍でなくても、いじめ学級やブラック企業、カルト等、どこまでも人間が抱え持つ闇というものなのだろうか。
ラベル:
MotekiMari(もてきまり),
SatoRie(佐藤りえ),
佐藤りえ
2016年6月3日金曜日
【俳句新空間No.3】佐藤りえ作品評 / 大塚凱
新年詠ではない、殺風景な冬の表情で統一された二十句作品であった。〈けもの道朽ちてもゐない木を踏んで〉〈総括せよ氷湖のあをいテーブルに〉などほのかな屈託を含んだ詠みぶりである。
ひとしきり泣いて氷柱となるまで立つ
感覚的な詠みぶりが魅力の作者である。「氷柱となるまで立つ」という言葉の力強さに惹かれた。涙は冷たく、それこそ氷柱のような鋭さで流れていたのだ。からだが冷え、悴み、やがて凍てるまで立ち尽くす情念である。ひとしきり泣いたあとの、その涙すら渇いた心そのものが立ち尽くしているかのようだ。心まで悴んだ人間が行き着く先の感覚である。
凍鶴を引き抜く誰も見てゐない「凍鶴を引き抜く」。多分に感覚的な詠みぶりであるが、不思議な質量を伴った表現だ。それはおそらく、「引き抜く」という作者の想像が、凍鶴という「物体」の質感を伝えるからではないのか。作者はその頭の中で、確かに硬直した凍鶴を引き抜いたのである。しかし、そんな空想は「誰も見てゐない」。氷る野の広さに立つ、一羽の凍鶴とひとりの人間。一種の暴力性を孕んだ想像は、誰にも知られていないさびしさを湛えて、作者を貫くのである。きっと凍鶴の鋭さで、「わたし」を貫くのである。
ラベル:
OtsukaGai(大塚凱),
佐藤りえ,
俳句新空間No.3,
俳句新空間作品鑑賞
2014年10月31日金曜日
さらりとした違和感~佐藤りえ「麝香」を読む / 浅津 大雅
(俳句新空間No.2ー夏行帖ー「麝香」 佐藤りえ より )
引っかかりなく読めるのに、次々と謎が湧いてくるような印象を持った、「麝香」から。
親切にのしかかられて心太
心太は多くの場合、「天突き」とよばれる道具で糸状にされて食される。人間からすれば、これは「押す」という行為に相違ない。けれど、心太の立ち位置になると、「のしかかられて」いると感じるのもうなずける。それも、「親切に」。この親切心はどこに働いているのか。心太に対してだろうか。食べる人に対して、と読んでもよいなら、ただただうれしい。
日傘など呉れて優しい男かな
日傘を呉れるという状況は、かなりあやしい。男は初めから、日傘を渡すつもりで用意していたとしか思えない。その日傘には単なる優しさ以上のものが含まれている――というのは深読みだろうか。どちらにせよ、作中主体(おそらく女性)の目に、悲しいかな、この男は「優しい男」以上の映り方はしていない。
濡れてゐる闇から帰り瓜を切る
濡れてゐる闇、とは? 雨中か雨後か、あるいはしっとりとした夏の夜の空気か。そこから帰ってきて、瓜を切るという行為に戻る。おそらくこの瓜も、闇と同じくらいしっとりとしているのだろうと思う。
水の痕消えない布を叩きをり
水の痕は、しばらくすれば乾いて消えるのだろう(特殊な化学反応で滲みになってしまうとかなら、ともかく)。しかし、それがなぜか消えない。消えるまで待てないだけだろうか。水を溢してしまった布を、必死になって叩いている。水の痕を隠そうとしている。けれど、叩いたところで消えるはずがない。延々とループする行為の果てには、おそらく、やっぱり水が乾いて痕が消えるだけなのである。
おとなしく麝香を嗅いでゐればいい
そうなのか。麝香を嗅いでゐればいいのか。それも、おとなしく。表題句となっているこの句が、実はいちばん謎なのではないか。あの濃密な香りが鼻をつくので、なかなかおとなしくはできない気がする。そわそわしてしまう。だからこそ、おとなしく麝香を嗅いでさえゐれば、なんとなく許された思いになるのかもしれない。
蹠を孔雀の羽根で擦る係
当然、こそばゆい。孔雀の羽根といえば、目のような模様が入ったあの大きくて派手な羽根が思い浮かぶ。およそ、「蹠を擦る」という役割には適していないところに面白さがある。そして、そういうことを役割にする係の人がいる。係ということは、その仕事を一手に引き受けている。目の前に並ぶあしのうらを、手に持った孔雀の羽根で順番にくすぐっていく。
火をつけるまへのまなこのさゆらぎよ
いきなり、はっとさせられる句に出会った。火をつける時、人間はその火に注視する。そして、その人自身が火をつけているにも関わらず、その熱と光が発せられると同時に、目の中に動揺が浮かぶ。目の中には火が像を結び、あるいはまぶたがぴくりと動く。人間の根源的な火への畏怖を垣間見た思いがする。
まひまひの睡りや雨後の木の股に
「睡り」にファンタジーがあるとしても、これはわかりよい。まひまひ、木の股、という措辞がユーモアを添えているようにも受け取れる。あたり一帯をつつみこむ雨上がりの匂いが、まひまひの睡りをより一層おだやかなものに仕立て上げている。
【執筆者紹介】
- 浅津大雅(あさづ・たいが)
平成八年生まれ。関西俳句会「ふらここ」。現在、京都大学文学部在学中。
ラベル:
AsazuTaiga(浅津大雅),
佐藤りえ
登録:
投稿 (Atom)