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2017年3月17日金曜日

【俳句新空間No.3】もてきまり作品評 / 大塚凱



 前述(編集部注:俳句新空間No.3の中の作品評)の大本義幸や仲寒蟬の作品と同様に社会性に富んだ作品であったが、本作は退廃的なナショナリズムがひとつの大きな主題である。特に寒蟬の作品が「国家と戦争」を詠んだ一方、もてきまりの作品は「国家と私」により焦点が絞られている。

  えゝ踊りみせて裸木病む国家
実際の景としては、裸木が激しい風に吹かれているのだろうか。作者はそれを「えゝ踊りみせて」と表現した。「えゝ踊り」からは、江戸末期の混乱の中で広がったかの「ええじゃないか」という民衆の狂乱を思わせる。作者の眼に映る「国家」には、飢えた四肢のような裸木のしずかな狂気が満ちている。主観的・主情的な把握が「裸木」に投影されているという構成が鮮やかである。「裸木」の「裸」という文字が絶妙に利いているのではないか。

  しのぶれど死者は戻らずドラム缶
上五中七は一種の定型的なフレーズも言えるが、そこに「ドラム缶」と接着したことで死者のイメージとドラム缶がオーバーラップされた。ドラム缶は死者の冷たさや重たさ、つまり物体としての死者を象徴するようであり、一方では、偲べども死者は戻らぬという事実に直面した徒労感や虚しさをどこか象徴しているかのようでもある。

2017年3月10日金曜日

【俳句新空間No.3】堀本吟作品評 / 大塚凱


  蟻地獄臨月の身を乗り出すな
「蟻地獄」と「臨月」という言葉の衝突に惹かれた。他者の死を待つものと、他者の生を湛えるものとの対比が鮮やかだ。きっと蟻地獄を「覗く」程度の動作であろうが、「乗り出す」と大胆に表現したことで蟻地獄と人間のスケール比に不思議な狂いが生まれ、あたかも蟻地獄から人間を見上げているかのような視点すら感じられる。「乗り出す」という言葉の選択で既に句の面白さは十分に生まれているのだから、個人的には「乗り出すな」と述べてしまうよりも、臨月の身が蟻地獄に乗り出していると素直に描いた方がドライな詠みぶりで過不足ないと思うのだが、どうだろうか。

  堂々とででむし遅れ月は缺け
この句も「ででむし」と「月」のオーバーラップが面白い。「堂々と」「遅れ」ているという言葉の捻じれが巧みである。ででむしの存在感やある種の滑稽さも感じられるだろうか。缺けた月の動きがそのようなででむしのスピードと重ねあわされているかのようで、句に静謐さが満ちている。月もまた缺けながらも堂々たる光を放っているのであろう。作者の無聊なまなざしまでもが感じられる点に加え、珍しく夜のででむしが詠まれているという興もある。

2017年3月3日金曜日

【俳句新空間No.3】真矢ひろみ作品評 / 大塚凱


  林檎植うこと穢土に子をもたぬこと
「植う」は連体形の「植うる」としたいところではあるが、林檎を植えることと子をもたないことの並列が抑制して書かれた作者の感情を伝える。それは淋しさ、切なさ、気楽さなどと言った単語では表せないいびつな塊であろう。「林檎植う」が繋ぐ原初からの生命のイメージだ。

  人に添ふ冥きところに雪降り積む
「人に添ふ冥きところ」とはどこであろうか。影法師か、ひょっとしたら、それはもっと内的な「冥きところ」かもしれない。雪は眼前のものすべてに降りかかる。人間の影にも、そして、こころの影にまでも等しく降り積もる。雪はその「冥さ」を弔うように、慰めるように清らかに白い光を放つのである。

  電波か魂か初空のきらきらす
初空はなぜきらめいているのか。「電波」と「魂」の交錯がそのきらめきであるのだ、と独断した作者の把握である。電波と魂、つまり物理の世界と精神の世界のものがひとつの空の下で飛び交っているというドライな空想が面白い。初空の明るさを分析的に想像する視点のユニークである。様々なきらめきを包み込む初空の大きさが見えてくる。

2017年2月24日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [池田澄子] / 大塚凱



  
 
  東京広し銀杏落葉を踏み滑り 池田澄子


 「滑り」で一句になった。穏やかな秋空の下で、作者は銀杏並木を歩いているのだろう。普段はめったに意識しない東京の広さを、「踏み滑」ったときに意識したのである。そもそも、「東京の広さ」とはなんであろうか。たしかに、東京は世界の大都市と比べても面積が大きいけれども。しかし、滑った作者が仰げば、高層建築が空を押し広げている。銀杏の木々の上には澄んだ青空が広がっているだろう。滑ったときに仰いだそんな「東京の広さ」。そして、そのように滑ってしまった自分ひとりが、広い東京のなかで「ここに在る」という心地。蟻のようにあふれる東京の人間のひとりでありながら、並木道のなかでひとり滑ってしまった。そんなちょっとした恥ずかしさがユーモアの中に描かれている。

2017年2月17日金曜日

【俳句新空間No.3】豊里友行作品評 / 大塚凱


  小鳥来る我が煩悩と遊ぼうよ
「煩悩と遊ぶ」ということがどのようなことなのか僕にはわからない。わからないが、この句からは右肘を膝につき、さながら「考える人」のかたちで小鳥を眺めているような人物が見えてきたのである。どこか孤独なこころが小鳥の存在を求めているかのような詠みぶりだ。その一方で、「遊ぼうよ」にはなげやりで自虐的な含みをかすかに感じるのである。

  東京は春鍵盤のビルの海
都会がビルの海であるという把握には既視感を感じるが、「鍵盤」という一語が句を豊かにした。黒鍵と白鍵のような街の陰影、春の音色などが感じられてくる。

 本作品は他の二十句作品とは異なって、十句作品と「『桜』に見る季語再考」という文章から成っている。せっかくなので、文章にも目を向けたい。歳時記が春夏秋冬で区分されていることで「季節の多様な世界を俳句では詠めない」と述べた上で、沖縄での季感を異にする大和・江戸での季感で歳時記が決定されている現状を「中央集権的」だと批判している。前掲した「小鳥来る」の句が〈出稼ぎの父と雪来る上野駅〉と〈桜ひとくくりに活ければ 日の丸〉の間に並べられていることはその批判に基づくのだろうか。しかし、「上野駅」の直後であれば「小鳥来る」は東京であると解釈するのが自然であり、この句順はむしろ東京における「季節の多様な世界」に背いている。季節の変遷を、句を読み進めるスピードに伴って表現できることが、連作形式のひとつの効用であると僕は信じている。沖縄特有の季節感も同様に表現可能だろう。「季語再考」を謳うのならばせめて、この十句作品でそれを貫くべきではないだろうか。

2017年2月10日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [西村麒麟 ] / 大塚凱



  
  泳ぎゐる一塊のしめぢかな     西村麒麟  
  しめぢ又たぷんと浮かび来たりけり 同  
  沈めたるしめぢのことを思ひ出す  同

秋興帖の西村麒麟五句から三句を掲げた。五句全て「しめぢ」が季語である。「しめぢ」を執拗に描写する作者のまなざしにかすかな畏怖すら覚えた。「泳ぎゐる塊一塊」「又たぷんと浮かび」は「しめぢ」の質感を素直に描写していて妙。作者はキッチンの水にたゆたう「しめぢ」を慈しむが、両者には調理する者と調理される者という一般的な関係性が保たれている。ここに、読者が読みを深める隙が存在しているのではないか。そのドライな偏愛が〈沈めたるしめぢのことを思ひ出す〉に凝縮されている。

2017年2月3日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [小林かんな] / 大塚凱



  星涼し奴婢の運びし石の数 小林かんな
ピラミッド然り長城然り、古代の遺跡の莫大な石を運んだのは奴婢であったか。「石の数」という下五からは、巨大な石の壁を目の前にして驚嘆や畏怖の混ざり合った心地が感じられる。かつての奴婢と、ここに居る私。恐るべき石の姿と、それを見ている私。「星涼し」から広がる時間と空間である。どこか異国の香りのするのも、「星涼し」のこころだろう。

2017年1月27日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [竹岡一郎] / 大塚凱



  蟹星雲産んで溽暑のとほき股 竹岡一郎
超現実的な魔力を感じる一句だった。蟹星雲は牡牛座にある星雲。手元の広辞苑第六版によると、藤原定家の「明月記」と中国の記録とによって一〇五四年に木星ほどに輝いた超新星の残骸である、とのこと。ロマンあふれる星雲のことを、作者は考えている。その折り、「溽暑のとほき股」を見たのかもしれない。熱された大地のゆらぎの上に遠く立つ女。その生命が蟹星雲を産んだのかもしれない、と空想した。星雲を産むかのような女体の神秘は、星雲ほどの遥けさで我々と隔たっているのである。

2017年1月20日金曜日

【俳句新空間No.3】もてきまり作品評 / 大塚凱



 前述(編集部注:俳句新空間No.3の中の作品評)の大本義幸や仲寒蟬の作品と同様に社会性に富んだ作品であったが、本作は退廃的なナショナリズムがひとつの大きな主題である。特に寒蟬の作品が「国家と戦争」を詠んだ一方、もてきまりの作品は「国家と私」により焦点が絞られている。

  えゝ踊りみせて裸木病む国家
実際の景としては、裸木が激しい風に吹かれているのだろうか。作者はそれを「えゝ踊りみせて」と表現した。「えゝ踊り」からは、江戸末期の混乱の中で広がったかの「ええじゃないか」という民衆の狂乱を思わせる。作者の眼に映る「国家」には、飢えた四肢のような裸木のしずかな狂気が満ちている。主観的・主情的な把握が「裸木」に投影されているという構成が鮮やかである。「裸木」の「裸」という文字が絶妙に利いているのではないか。

  しのぶれど死者は戻らずドラム缶
上五中七は一種の定型的なフレーズも言えるが、そこに「ドラム缶」と接着したことで死者のイメージとドラム缶がオーバーラップされた。ドラム缶は死者の冷たさや重たさ、つまり物体としての死者を象徴するようであり、一方では、偲べども死者は戻らぬという事実に直面した徒労感や虚しさをどこか象徴しているかのようでもある。

2017年1月13日金曜日

【俳句新空間No.3】夏木久作品評/ 大塚凱


 本作は西行の和歌十二首を引用し、その一句一句に問答する形で計十二句が並べられている。西行の〈心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ〉に対して〈もうすでに自暴自棄なり百合鷗〉と遊んだり、かの著名な〈道のべに清水ながるる柳陰 しばしとてこそ立ちどまりつれ〉には〈墨東の柳にティッシュもらひけり〉と滑稽さで応えている。

   月を見て心浮かれしいにしへの 秋にもさらにめぐり逢ひぬる

  月光は土砂降り子らの踊り出し
この句の「踊り出し」を季語と捉えるかどうか難しいところだが、月光のなかで子らが踊に混じり出したと解釈した。「月光が濡れている」などの表現はかなり手垢がついてしまっているが、「土砂降り」まで言い切った大袈裟が良い意味で馬鹿馬鹿しい。

   吉野山こずゑの花を見し日より 心は身にもそはずなりにき


  鮮明な義眼の夢を水中花
不思議な句だった。義眼が水中花を見ている空想のようだが、義眼を水中花が比喩しているようでもある。そのわからなさが一種の魅力なのであろう。義眼のまなざしの向こうに、一輪の水中花が灯っているようだ。



2016年12月30日金曜日

【俳句新空間No.3】真矢ひとみ作品評 / 大塚凱


  林檎植うこと穢土に子をもたぬこと
「植う」は連体形の「植うる」としたいところではあるが、林檎を植えることと子をもたないことの並列が抑制して書かれた作者の感情を伝える。それは淋しさ、切なさ、気楽さなどと言った単語では表せないいびつな塊であろう。「林檎植う」が繋ぐ原初からの生命のイメージだ。

  人に添ふ冥きところに雪降り積む
「人に添ふ冥きところ」とはどこであろうか。影法師か、ひょっとしたら、それはもっと内的な「冥きところ」かもしれない。雪は眼前のものすべてに降りかかる。人間の影にも、そして、こころの影にまでも等しく降り積もる。雪はその「冥さ」を弔うように、慰めるように清らかに白い光を放つのである。

  電波か魂か初空のきらきらす
初空はなぜきらめいているのか。「電波」と「魂」の交錯がそのきらめきであるのだ、と独断した作者の把握である。電波と魂、つまり物理の世界と精神の世界のものがひとつの空の下で飛び交っているというドライな空想が面白い。初空の明るさを分析的に想像する視点のユニークである。様々なきらめきを包み込む初空の大きさが見えてくる。

2016年12月23日金曜日

【俳句新空間No.3】堀本吟作品評 / 大塚凱


  蟻地獄臨月の身を乗り出すな
「蟻地獄」と「臨月」という言葉の衝突に惹かれた。他者の死を待つものと、他者の生を湛えるものとの対比が鮮やかだ。きっと蟻地獄を「覗く」程度の動作であろうが、「乗り出す」と大胆に表現したことで蟻地獄と人間のスケール比に不思議な狂いが生まれ、あたかも蟻地獄から人間を見上げているかのような視点すら感じられる。「乗り出す」という言葉の選択で既に句の面白さは十分に生まれているのだから、個人的には「乗り出すな」と述べてしまうよりも、臨月の身が蟻地獄に乗り出していると素直に描いた方がドライな詠みぶりで過不足ないと思うのだが、どうだろうか。

  堂々とででむし遅れ月は缺け
この句も「ででむし」と「月」のオーバーラップが面白い。「堂々と」「遅れ」ているという言葉の捻じれが巧みである。ででむしの存在感やある種の滑稽さも感じられるだろうか。缺けた月の動きがそのようなででむしのスピードと重ねあわされているかのようで、句に静謐さが満ちている。月もまた缺けながらも堂々たる光を放っているのであろう。作者の無聊なまなざしまでもが感じられる点に加え、珍しく夜のででむしが詠まれているという興もある。

2016年11月11日金曜日

【俳句新空間No.3】ふけとしこ作品評 / 大塚凱



  オリオンの腕を上げては星放つ
冬の澄明な夜空を見ていると、瞳にはオリオン座の、否、オリオンの姿そのものが浮き上がってくるように感じたのだろう。そのオリオンが腕を上げていると意識したとき、星座をなす星々の輝きが放たれた。本来は星が光を放つと述べるべきところを「星放つ」と敢えて強引に書いたこと、そして、オリオンの姿が浮かび上がるかのように感じられるさまを「腕を上げては」と表現したことが句のスケールを広げた。

常識に即して考えるならば、オリオン座の腕を表現する星を見つけたときにオリオンの「腕」を脳裏に描くのが素直な把握であろう。しかし、この句においては「腕を上げては星放つ」という逆転的かつ大胆な発想が魅力となっている。星の鋭い光とともに、その「腕」の力感がダイナミックに伝わってくる。

  雪の日を眠たい羊眠い山羊
雪の日には不思議な眠気を感じる。その静けさのせいか、あるいは体温が低下して疲労するからか。羊や山羊も雪を戴くかのようなその白い毛でからだを覆っているのかと思うと、いかにもあたたかそう。「眠たい羊眠い山羊」という措辞も頷ける。上五のさりげない「を」に技巧が光る。

2016年10月21日金曜日

【俳句新空間No.3】網野月を作品評 / 大塚凱



  こっちのとそっちのこがらしごっつんこ
こがらしという風には独特の、さびしい質量を感じる。春風や秋風と比べてその強さに大きな隔たりがあるのはもちろん、青嵐や空っ風のような勢いとも異なって、街を吹き渡る。こがらしは街全体に覆いかぶさる風というよりも、街とぶつかり、その中を突き進みながら研がれてゆくような荒々しさを感じるのだ。二つの筋になったこがらしがぶつかりあうひびき、「ごっつんこ」。口語表現の作品のなかにはときに稚拙さを感じさせるものが存在する一方、この句では「ごっつんこ」という擬態語が表現するこがらしの質量をストレートに読ませている。

  駱駝の頭は瘤より低い冬至の陽
そう言われるとそんな気がする。このニ十句作品においては海外詠の匂いがしないから、この駱駝は冬至の日の人気のない動物園などを思い浮かべればよいだろうか。しかし、この一句を読む限りでは、砂漠地帯の風物として読んだ方が「冬至の陽」のスケールが一層引き出されるような気がして惜しい気もする。歩むときなどは、駱駝の頭の方が瘤よりも低いのだろうか。冬至の陽を背景に、駱駝の頭、そして瘤がシルエットとなって目の前を通り過ぎてゆく。冬至の厳しさのなかに、駱駝は屹立しているのだ。

2016年9月30日金曜日

【俳句新空間No.3】坂間恒子作品評 / 大塚凱


  侘助のひらけば水は水を呼び
まさにちいさな庭の趣きである。侘助の傍になんらかの水の仕掛けでもあるのだろうが、それを「水が水を呼び」と書いた。その水に誘われるように水が、水音が流れてゆくのか。侘びの世界を流れる、一縷の豊かさである。「ひらけば」の技巧が句を繋ぎとめている。

  数え日の貌あらわれる大硝子
大硝子は窓、おそらく作者は窓越しにある家の中を一瞥しているところなのだろうと詠んだ。その家の者は大掃除をしているのかもしれない。「貌あらわれる」という表現に、その貌の動き様にとどまらず、作者のドキッとするような一瞬までが読み取れる。「顔」ではなく「貌」と書いたことも上手い。

  血を曳いて鴨現れる勝手口
鴨が現れるような場所であるから、自ずと沼地や小流れの傍にある疎らな家々、そのひとつの勝手口だろうと想像される。「血を曳いて」という表現が読者の注意を惹きつけるが、そんな哀れな鴨をドライに捉えているところに、作者のまなざしの尤もらしさを感じるのだ。「勝手口」という下五も即物的な力強さを感じさせる。

 〈葱剥けば白の疾走燈台は〉〈陽炎のなかの釦を食べに行く〉という冒険句もあったが、この一連においては掲句のような句柄の方が魅力的に感じられた。

2016年7月22日金曜日

【俳句新空間No.3】前北かおる作品評 / 大塚凱


 新年の季語は交えず、雪に降り積もる日光・湯西川の冬景色を素直に詠った二十句作品である。写実的な句の数々であった。

  河原石まるまる太る冬日かな
石がまるまるとしている、というだけではなかなか一句には成りえないが、「太る」という一語が句の主眼を成した。摩耗してゆく運命を逃れ得ない河原の石から「太る」という言葉を得たのは、まさに冬日のぬくもりのなかであったからだろう。ゆたかな冬の陽射しを吸うかのような石の有り様、無機物の物体にそこはかとない「いのち」を感じているような作者のまなざしが感じられて眩しい。

  踏む人のなくて汚き霜柱
霜柱が踏みしだかれている無残な光景はしばしば目にするところだが、それを逆転的に発想した。踏む人のない全き霜柱はうつくしいものだと思われているが、その霜柱も土の汚れを免れ得ない。そんな霜柱の一面を切り取っている。

  漆黒の水に蓮の枯れ残る
冬の水の昏さを「漆黒」とやや大袈裟に表現し、枯蓮の色彩が浮かび上がるかのような構図が生まれた。「漆黒」という一語の力である。



2016年7月1日金曜日

【俳句新空間No.3】福田葉子作品評/ 大塚凱


 冬・新年の季語を交えず、次第に深まってゆく春を二十句に収めた作品である。

  砂時計未生の春を綯い交ぜて
やや観念的な句であるぶん評価が難しい句ではあるだろうが、「砂時計」の砂に「未生の春」が「綯い交ぜ」になっているというユニークな発想に乗った。これから落ちゆくべき砂に綯い交ぜになっている春。やはり、未来を感じさせる季節だ。

  蓬生に脆きけものと脆き母
脆さとは何だろうか。荒れ果てた野にけものが潜む。きっと、生き物としての脆さを孕んだけものだ。けものに明日はわからない。そんなけものと等しい生き物であるかのように、「脆き母」が存在しているのだ。作者に命を繋いだ「母」も、「脆きけもの」のひとつとして生々しく蓬生に立っている。

  初蝶のかの一頭はダリの髭
蝶の触覚や舌をダリの髭と見立てたのだろうか。奔放に飛んでいる蝶の姿が見えてきて面白い。ダリの超現実主義を思えば、飛びまわる蝶もまた静謐な狂気を帯びた存在に感じられる。ダリの絵の色彩も思われるようで、ユニークな作品である。ひとつ言うとすれば、陽炎の句の直後に初蝶の句が並ぶ季感には違和感を抱く。



2016年6月24日金曜日

【俳句新空間No.3】秦夕美作品評 / 大塚凱



  雲ながれ御用始の礼一つ
御用始は謂わば官公庁の仕事始にあたる。ひろびろと晴れた冬青空のもとで、新年はじめての公務がはじまろうとしている。正月休みで弛んだこころも、「礼一つ」で引き締まる心地がするのだろうか。ましてや官公庁、そのはじまりの「礼」の力強さはいかほどのものだろう。

  かにかくに天狼打てる御者の鞭
やや時代がかった情景ではあるが、御者の躍動感をいきいきと描いている。「かにかくに」というある種の誤魔化しが、御者の鞭のスピード感を生んでいるのかもしれない。「天狼」という文字から想起される獣の力感、そしてその光の鋭さが御者の動きに投影されているかのようである。「かにかくに」の入りから夜空の広がりを想像させ、すぐに「鞭」へと収斂させていく構図の大きさが魅力であった。

 作品全体を見ると、

死者係御中こちら八手咲く
 
御形つむ喜寿の朝まで生きようか 
冥府への定期便出づ木菟の森
のように、主に死を主題にした一連であると思われる。しかしながら、「死」を主観的に詠んだ作品よりは、掲句のような「生」の場における作品の方に力強さを感じた。

2016年6月17日金曜日

【俳句新空間No.3】中西夕紀作品評 / 大塚凱


 一島を工場とせり百合鷗
例えば東京湾湾岸には、それぞれの用途に合わせて計画された埋立地が多く存在する。具体的な名称は存じ上げないが、一島まるごと工業用地として埋め立てられた島もあるだろう。百合鷗がいかにも舞っていそうである。鷗の白さと工場の色彩も、互いにオーバーラップするかのようだ。

  弟を前へ押し出し餅配り

 一読して、石川桂郎の〈入学の吾子人前に押し出だす〉がほのかに思われた。「入学の吾子」はこの「弟」よりも幼いであろうが、作者が作中の「弟」に抱く気持ちと通ずるものが感じられる。「餅配り」に際してどこか弟の顔見せをしているような気配すらある。少しはにかむようだがぎこちない表情をしているかもしれない。そんな弟を取り囲む生活の場の有り様が想像される。

  牛肉に記す牛の名雪催
「牛の名」といっても一頭ごとの名前ではない。つまり、「ブランド」である。松阪牛なら松阪牛、と牛の個体は「牛の名」のもとに一括りにされ、埋没する。個体名があるにしても、それは数文字列にすぎず、我々消費者の意識するところではない。そんな現代性を帯びたはかなさに、雪は降りかからんとしている。

2016年6月10日金曜日

【俳句新空間No.3】仲寒蟬作品評 / 大塚凱



 確かに新年は、一年を通して最もナショナリズムを湛えた時期であるかもしれない。戦争と言えば現在は夏や初秋に詠まれることが多いが、太平洋戦争開戦直後に詠まれた俳句の中には聖戦を寿ぐ新年詠も多数含まれていた。本作は挑発的あるいは皮肉なまなざしで、戦争と平和を詠う。

  若水を闇もろともに汲み上げぬ
大抵は清冽なものとして詠まれてきた若水も、作者のまなざしは「闇もろともに」汲み上げられるものとして捉える。どこか不穏さに包まれた、それでいて闇の霊気を湛えた有り様は、若水の詠みぶりとして興味深い。作品の中において暗示的な一句である。

  喰積の海老も帆立も輸入品
風刺的な一句。ともすれば川柳の域に触れてしまいそうではあるが、作者の憂いがユーモアの中に息づいている。明るさや軽みに満ちた詠みぶりならば、めでたさを裏切るような内容も豊かな意外性として味わいたい。

 一連の作品には〈大東亜共栄圏が初夢に〉〈破魔弓をかの国へ向け放ちけり〉のような、作品の文脈や時勢を離れれば危ういと取られかねない句も含む。個人的にはこれらのやや観念に寄った句よりは、前掲のような裏切りを孕んだ句を楽しみたい。それが作者の魅力ではないか。