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2016年7月29日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [浅津大雅] /東影喜子



みづうみの底に日あたる涼しさよ 浅津大雅

湖の底は、何かそれだけで詩情を感じさせる題材である。底が見えるのだから、よほど澄み切った透明度の高い水なのだろう。幾筋もの日矢が差し込み、揺らぎながら夏の時間が過ぎていく。いつまでも見つめていたくなるその瞬間、自分の体も湖底にいるかのようにひんやりと涼しく感ぜられる。今年の夏も遠くに行きたいと思わされた作品。

2015年12月4日金曜日

【曾根毅『花修』を読む 15】 見えざるもの / 淺津大雅




存在の時を余さず鶴帰る 
玉虫や思想のふちを這いまわり 
冬めくや世界は行進して過ぎる

存在、思想、世界。それらは、あるようでいて手掴みにはできないもの、見ることのできないものである。それらの様相をうまく言い当てることはなかなか難しい。しかし『花修』の句たちは、それを小気味よく言い当ててくれている。

特に俳句という形式において、概念語を句の中に入れ込んでしまうと、成功しにくい。だが、これらの句はそういう理屈臭さとは無縁のものである。

「思想」とやらが如何なるものか、あえて語らず、ただあくまで玉虫を描くための舞台装置としてぽんと置かれている。覚悟が必要な斡旋であろう。物体たる季語=見えるものと、非物体たる「存在」や「思想」や「世界」(という漠然とした広さ)=見えざるものとの出会いにより、衝撃が生まれている。それはまさしく精神的な感動を肉体的に味わうことである。

寒鴉内なる黙を探しけり 
万緑や行方不明の帽子たち

寒鴉に内なる黙を託す、いやそれどころか、ほとんど寒鴉とそれを見ている者とはひとつになって同じ呼吸をしている。行方不明なのは、帽子たちか。それを見ている者はどこにいるのか、いないのか。帽子はあるのか、ないのか、どのくらいか。気づけば読者は万緑という雄々しい背景に飲み込まれている。

季語と概念の緊張、という仕方が火花を生んでいるとすれば、自己と対象の同一化、ともいうべきこれらの句はまた違った毛色の面白さを孕んでいる。

不定形のものに対する確かな実感が、句を通して作者から読者へとシェアされる。作者の目を、五感を、あるいは第六感を通して、私たちはそれまで見えなかったものの世界の一端に触れることができる。


天高し邪鬼に四方を支えられ 
悪霊と皿に残りし菊の花 
薄明とセシウムを負い露草よ 
桐一葉ここにもマイクロシーベルト

ふと思う。「あるかもしれないけれど見えない」ということで言うと、我々の感覚からすれば、セシウムも悪霊も同じなのかもしれない。そして見えないからこそいろいろなことを考える。考えるということは、不安になるということである。見えないものに人は言いしれない恐怖を覚えるものだ。その恐怖は、ただ目を背けたくなるような質のものではなく、どうにかして暴きたい、という好奇心を伴わせるものである。それが句の魅力に繋がっている。

ことここに来て、挙げてきた句の中に見える作者の意図ははっきり見える。繰り返すが、実態としての季語に(あるいは自己に)なんらかの見えざるもの(無色透明な放射性物質や形而上のもの)を衝突、または仮託させ、触れる者として浮き彫りにしようという試みである。しかしそれは、飽くまで季語が主体である。だからこそ見えざるものへの道が開かれる。

五七五を器として、そこにある語とある語――ここでは季語とそれに見合う何らかの見えざるもの――を選んで放り込む、ともするとそういう風な作り方をしているように見えてしまいかねない。しかし、どうやっても隠しおおせない「手づかみ感」がこれらの句にはあるように感じられる。世界の重要な隠された部分を、詩によって掬い取ろうとする意志が見え隠れするところが、曾根俳句の魅力の一つかもしれない。


【執筆者紹介】

  • 淺津大雅(あさづ・たいが)

1996年生まれ。関西俳句会「ふらここ」。

2014年10月31日金曜日

さらりとした違和感~佐藤りえ「麝香」を読む / 浅津 大雅

(俳句新空間No.2ー夏行帖ー「麝香」 佐藤りえ より )


引っかかりなく読めるのに、次々と謎が湧いてくるような印象を持った、「麝香」から。

親切にのしかかられて心太

心太は多くの場合、「天突き」とよばれる道具で糸状にされて食される。人間からすれば、これは「押す」という行為に相違ない。けれど、心太の立ち位置になると、「のしかかられて」いると感じるのもうなずける。それも、「親切に」。この親切心はどこに働いているのか。心太に対してだろうか。食べる人に対して、と読んでもよいなら、ただただうれしい。

日傘など呉れて優しい男かな

日傘を呉れるという状況は、かなりあやしい。男は初めから、日傘を渡すつもりで用意していたとしか思えない。その日傘には単なる優しさ以上のものが含まれている――というのは深読みだろうか。どちらにせよ、作中主体(おそらく女性)の目に、悲しいかな、この男は「優しい男」以上の映り方はしていない。

濡れてゐる闇から帰り瓜を切る

濡れてゐる闇、とは? 雨中か雨後か、あるいはしっとりとした夏の夜の空気か。そこから帰ってきて、瓜を切るという行為に戻る。おそらくこの瓜も、闇と同じくらいしっとりとしているのだろうと思う。

水の痕消えない布を叩きをり

水の痕は、しばらくすれば乾いて消えるのだろう(特殊な化学反応で滲みになってしまうとかなら、ともかく)。しかし、それがなぜか消えない。消えるまで待てないだけだろうか。水を溢してしまった布を、必死になって叩いている。水の痕を隠そうとしている。けれど、叩いたところで消えるはずがない。延々とループする行為の果てには、おそらく、やっぱり水が乾いて痕が消えるだけなのである。

おとなしく麝香を嗅いでゐればいい

そうなのか。麝香を嗅いでゐればいいのか。それも、おとなしく。表題句となっているこの句が、実はいちばん謎なのではないか。あの濃密な香りが鼻をつくので、なかなかおとなしくはできない気がする。そわそわしてしまう。だからこそ、おとなしく麝香を嗅いでさえゐれば、なんとなく許された思いになるのかもしれない。


蹠を孔雀の羽根で擦る係

当然、こそばゆい。孔雀の羽根といえば、目のような模様が入ったあの大きくて派手な羽根が思い浮かぶ。およそ、「蹠を擦る」という役割には適していないところに面白さがある。そして、そういうことを役割にする係の人がいる。係ということは、その仕事を一手に引き受けている。目の前に並ぶあしのうらを、手に持った孔雀の羽根で順番にくすぐっていく。

火をつけるまへのまなこのさゆらぎよ

いきなり、はっとさせられる句に出会った。火をつける時、人間はその火に注視する。そして、その人自身が火をつけているにも関わらず、その熱と光が発せられると同時に、目の中に動揺が浮かぶ。目の中には火が像を結び、あるいはまぶたがぴくりと動く。人間の根源的な火への畏怖を垣間見た思いがする。

まひまひの睡りや雨後の木の股に

「睡り」にファンタジーがあるとしても、これはわかりよい。まひまひ、木の股、という措辞がユーモアを添えているようにも受け取れる。あたり一帯をつつみこむ雨上がりの匂いが、まひまひの睡りをより一層おだやかなものに仕立て上げている。




【執筆者紹介】 


  • 浅津大雅(あさづ・たいが)

平成八年生まれ。関西俳句会「ふらここ」。現在、京都大学文学部在学中。