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2017年4月18日火曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [佐藤りえ] / 小野裕三


厚着して紙を配つてゐる仕事  佐藤りえ
紙を配る仕事というのは基本的には単調な仕事のはずだ。仕事、という言葉でぶっきらぼうに句が終わるのは、そんな苛立たしさを言葉の行き止まりにぶつけているようでもある。だが、そんな気持ちとは裏腹に、手の動きに正確に正比例して紙束の山は着実に減っていく。そんな気持ちの停滞と物理的な進捗との間を繋ぐのが、その作業を執り行う肉体だ。なんとも板挟みのような肉体は、ただ厚い衣服に包まれるばかりだという。そんな幾層もの温度差の行き違いに、洒落た諧謔性の見える句。

2017年4月2日日曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [川島ぱんだ] / 小野裕三


風呂の中繋がっている冬の川  川島ぱんだ
一読した際に、「なるほどいいところを見ている」と感じたのだけれど、よく考えるとそんなはずもなくて、特に冬の冷たい川ともなれば、風呂と川が繋がっているはずもない。だとすれば、ぱっと句を見た時の印象として「いいところを見た」と思わせた、この不思議な錯覚は何なのか。きっと騙し絵みたいなもので、この言葉の配列をこの視点から見た時にしか、その錯覚は成立しないのだろう。なにやらカラクリめいたセンスが光る句。

2017年3月24日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [中西夕紀] / 小野裕三


夜店の灯平家の海を淋しうす  中西夕紀
栄華と零落。平家の血を彩る波乱の物語は、日本の風土のどこかに深く刻まれているのだろう。都が栄華という光の部分を象徴するものであれば、海は零落を想起させる影の場所だ。そして夜店もまた、たくさんの影に囲まれた小さな光の場所である。その対比を誰もが知っているから、夜店の明るさはどこか切ない。夜店を愉しんだ人はみな、巨大な夜の暗がりに押し戻されていく。まるで平家が落ち延びていった、あの海のような淋しさへ。

2017年2月24日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [池田澄子] / 大塚凱



  
 
  東京広し銀杏落葉を踏み滑り 池田澄子


 「滑り」で一句になった。穏やかな秋空の下で、作者は銀杏並木を歩いているのだろう。普段はめったに意識しない東京の広さを、「踏み滑」ったときに意識したのである。そもそも、「東京の広さ」とはなんであろうか。たしかに、東京は世界の大都市と比べても面積が大きいけれども。しかし、滑った作者が仰げば、高層建築が空を押し広げている。銀杏の木々の上には澄んだ青空が広がっているだろう。滑ったときに仰いだそんな「東京の広さ」。そして、そのように滑ってしまった自分ひとりが、広い東京のなかで「ここに在る」という心地。蟻のようにあふれる東京の人間のひとりでありながら、並木道のなかでひとり滑ってしまった。そんなちょっとした恥ずかしさがユーモアの中に描かれている。

2017年2月10日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [西村麒麟 ] / 大塚凱



  
  泳ぎゐる一塊のしめぢかな     西村麒麟  
  しめぢ又たぷんと浮かび来たりけり 同  
  沈めたるしめぢのことを思ひ出す  同

秋興帖の西村麒麟五句から三句を掲げた。五句全て「しめぢ」が季語である。「しめぢ」を執拗に描写する作者のまなざしにかすかな畏怖すら覚えた。「泳ぎゐる塊一塊」「又たぷんと浮かび」は「しめぢ」の質感を素直に描写していて妙。作者はキッチンの水にたゆたう「しめぢ」を慈しむが、両者には調理する者と調理される者という一般的な関係性が保たれている。ここに、読者が読みを深める隙が存在しているのではないか。そのドライな偏愛が〈沈めたるしめぢのことを思ひ出す〉に凝縮されている。

2017年2月3日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [小林かんな] / 大塚凱



  星涼し奴婢の運びし石の数 小林かんな
ピラミッド然り長城然り、古代の遺跡の莫大な石を運んだのは奴婢であったか。「石の数」という下五からは、巨大な石の壁を目の前にして驚嘆や畏怖の混ざり合った心地が感じられる。かつての奴婢と、ここに居る私。恐るべき石の姿と、それを見ている私。「星涼し」から広がる時間と空間である。どこか異国の香りのするのも、「星涼し」のこころだろう。

2017年1月27日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [竹岡一郎] / 大塚凱



  蟹星雲産んで溽暑のとほき股 竹岡一郎
超現実的な魔力を感じる一句だった。蟹星雲は牡牛座にある星雲。手元の広辞苑第六版によると、藤原定家の「明月記」と中国の記録とによって一〇五四年に木星ほどに輝いた超新星の残骸である、とのこと。ロマンあふれる星雲のことを、作者は考えている。その折り、「溽暑のとほき股」を見たのかもしれない。熱された大地のゆらぎの上に遠く立つ女。その生命が蟹星雲を産んだのかもしれない、と空想した。星雲を産むかのような女体の神秘は、星雲ほどの遥けさで我々と隔たっているのである。

2017年1月20日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [安里琉太] / 小野裕三



手花火に飽きて煙のなかにをり  安里琉太
ぽかんとした時空を詠んだ、ぽかんとした句。句の情報量はわりと少なくて、手花火から煙が出るのも、その煙の中に人がいるのも当たり前のことと言えるから、さらに加わる新しい情報と言えば「飽きた」くらいのことだ。しかし、このすかすかの情報密度が逆にいい。ぽかんとした気分と、それをとりまくぽかんとした時空が、ぽかんとした密度の情報形式にうまく反映されている。

2016年8月26日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [黒岩徳将]/東影喜子



飲めそうな飲めなさそうな清水かな 黒岩徳将
なんともとぼけた魅力のある一句。山道を歩いていて、なんだか空気も水もおいしい所に来たような気がする。さてこのあたりの水なら大丈夫なのではないか、いやまだダメだろうか。冗談めかしているようで、不思議なリアリティーのある句である。作者と一緒に山を歩いているような気分になる。

2016年8月19日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [高勢祥子]/東影喜子



仰向けや死にゆく蝉も眠る子も  高勢祥子
ものすごい並列である。仰臥、という姿勢の一致を認めてしまうこと、それを一つの作品の中で、ぽんと並べて見せること。俳句という詩形だからこそできてしまう有無を言わせぬ迫力がある。

2016年8月12日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [山田露結]/東影喜子


大きさの違ふ三つの枯野かな 山田露結
不思議な把握の句である。一度に三つの枯野を捉えることは難しい。上空から見ているのだろうか。しかしそれでは枯野の味が落ちてしまうような気がする。記憶の中の枯野と、眼前のそれとを比較しているのであろうか。それでは三という数字が引っ掛かる。親子三人で枯野を見ているというのはどうだろうか。幼い子の視界と大人の視界で、感じられる大きさも異なってくる。子には広大な枯野も、親には果てまで見渡せるかもしれない。そんな「三つの枯野」・・・・・・拡大解釈になってしまったかもしれない。とても惹きつけられた作品。

2016年8月5日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [杉山久子]/東影喜子


秋の蚊の脚のふれゆく広辞苑 杉山久子
秋の蚊から垂れている頼りない脚が広辞苑に触れる。やや力のなくなってきた飛行を見て、作者がそう感じたのかもしれない。広辞苑の印字を見つめていると、広大な海に迷い混んでしまったかのような気持ちに、ふとなることがある。秋の蚊のその後を、私は見たことがない。広辞苑に触れた脚は、この後どこに降り立ったのだろう。それともどこかで迷ったまま帰ってこないのだろうか。

2016年7月29日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [浅津大雅] /東影喜子



みづうみの底に日あたる涼しさよ 浅津大雅

湖の底は、何かそれだけで詩情を感じさせる題材である。底が見えるのだから、よほど澄み切った透明度の高い水なのだろう。幾筋もの日矢が差し込み、揺らぎながら夏の時間が過ぎていく。いつまでも見つめていたくなるその瞬間、自分の体も湖底にいるかのようにひんやりと涼しく感ぜられる。今年の夏も遠くに行きたいと思わされた作品。

2014年10月3日金曜日

ドラマチックな私事ですが / 仮屋賢一

(『俳句新空間No.2 』平成二十六年甲午俳句帖 花鳥篇より)

 日常であれ非日常であれ、それをドラマチックに描けるとすれば、結局それはその人の感覚しだいであると思う。俳句は小さなドラマである。すごく素敵で私的な、ドラマ。

念力のやうな音して冷蔵庫  しなだしん

家電製品が魔法だとか念力だとか、いつの時代の話だろう。この冷蔵庫も電気冷蔵庫のことだろう。氷がなくたって中に入れればものが冷えるのはもはや不思議でもなんでもない。でも、ただ冷やすだけにしては、音が多い。大きな、多機能の冷蔵庫になるとなおさら。一体コイツ、何してるんだろう、そんな気にもなる。持って回った言い方でとぼけているような面白さがありながらも、「念力」が言い得て妙である。

神々の混み合つてゐる青嵐   仲寒蝉


語りは極めて明快。夏の句で「混み合つてゐる」と言いながらも一切暑苦しさを感じない面白さ。いや、でも、もしかしたら、神々たち張本人は、不快なのかも。神々のなんとも暑苦しい光景が、人間界では(多少荒々しいが)情緒ある自然の風となっている。と言ってしまうのは、少しばかり不謹慎か。

語り合ひ笑ひ緑蔭出てゆかず   長嶺千晶

なんだかんだ、ずっといる。日の動きに従って、ちょっとずつこの人たちも動いているのかもしれない。話に夢中になっているようで、そういうところはしっかりしている、というより、このような避暑は人間の本能なのかもしれない。いかにも居心地の良さそうな、緑蔭である。

薔薇の名を残念なほど忘れけり   西村麒麟

薔薇ほど多くの品種が作られ、それら一つ一つにユニークな名前が与えられる観賞花も珍しいように思う。普通に生活してれば、数種の名前を知っているだけで上出来である。とはいえ、薔薇好きの人が話をしてくれたり、薔薇園を回ったりして、色々な薔薇の名前と触れることもあるだろう。へえ、そんな名前が! なんて、その時は楽しんでいる。そしていざ、後になって、そういえば面白い名前があったな、なんて思いだしてみたら……「残念なほど忘れ」ている。冗談じゃなく、「残念」なのである。

致死量を超えてピーマン肉詰めに 山本たくや

包丁を入れられたと思ったら明るくしてくれていた、なんてことがあったり(「ピーマン切って中を明るくしてあげた 池田澄子」)、素材を活かした料理を作ってくれたと思ったら殺されそうになっていたり(掲句)、ピーマンの俳句での扱いはどうしてこうも同情したくなるのだろう。ピーマンという野菜は料理の光景がいちいちドラマチックである。致死量なんて言葉の恐ろしさとは裏腹に、たっぷり肉詰めされた様子がいかにも食欲をそそるし、逆説的に生き生きとした新鮮なピーマンも見えてきて、なんとも美味しそうである。同情したくなりはするが、結局、同情なんてしない。これが、ピーマンなんだろうなあ。


(※冊子「俳句新空間」ではブログ掲載の俳句帖を作者名あいうえお順に掲載しています。)

【執筆者紹介】


  • 仮屋賢一(かりや・けんいち)

1992年生まれ、京都大学工学部。
関西俳句会「ふらここ」代表。作曲も嗜む。