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2016年12月2日金曜日

【俳句新空間No.3】 網野月をの句 / もてきまり



火星人八手の花に隠れたり    網野月を

 この「火星人」という唐突さが面白かった。八手は葉が大きく日影好みの植生である。あの裏には火星人が手だけ隠せずに身を隠しているような気がして来た。そう、あのロボットの触針のような八手の花は火星人の手かもしれない。他に〈わたくしはMr.不器用日数える〉網野さんのおおらかさを想った。

2016年10月21日金曜日

【俳句新空間No.3】網野月を作品評 / 大塚凱



  こっちのとそっちのこがらしごっつんこ
こがらしという風には独特の、さびしい質量を感じる。春風や秋風と比べてその強さに大きな隔たりがあるのはもちろん、青嵐や空っ風のような勢いとも異なって、街を吹き渡る。こがらしは街全体に覆いかぶさる風というよりも、街とぶつかり、その中を突き進みながら研がれてゆくような荒々しさを感じるのだ。二つの筋になったこがらしがぶつかりあうひびき、「ごっつんこ」。口語表現の作品のなかにはときに稚拙さを感じさせるものが存在する一方、この句では「ごっつんこ」という擬態語が表現するこがらしの質量をストレートに読ませている。

  駱駝の頭は瘤より低い冬至の陽
そう言われるとそんな気がする。このニ十句作品においては海外詠の匂いがしないから、この駱駝は冬至の日の人気のない動物園などを思い浮かべればよいだろうか。しかし、この一句を読む限りでは、砂漠地帯の風物として読んだ方が「冬至の陽」のスケールが一層引き出されるような気がして惜しい気もする。歩むときなどは、駱駝の頭の方が瘤よりも低いのだろうか。冬至の陽を背景に、駱駝の頭、そして瘤がシルエットとなって目の前を通り過ぎてゆく。冬至の厳しさのなかに、駱駝は屹立しているのだ。

2015年9月10日木曜日

【俳句新空間No.2】作品詠鑑賞(網野月をの句) / 夏木 久



あの世にて師に見ゆまで熱帯夜  網野月を

今は昔、師がいた頃が懐かしい。詩に師は要らぬ、がモットーだったが、知人に言われ、とある師の誌に参加した。袂を分ったが、この先そのことは熱帯夜を漂うようなものだろうか、俳句の世界に足を入れてる限り?

2015年7月8日水曜日

【俳句新空間No.2】 網野月をの句 /もてきまり


野生種のような長女や山ツツジ 網野月を
「野生種のような」すてきな長女さん。と言っても、もう年頃だから親としてはとても複雑。山ツツジのあの朱色を好きな方は多いのでは・・・。〈五月病むかし甕割り今ガシャン〉こちらは長男の方?大学に入りたてはとかく五月病にやられます。むかしは親と口喧嘩などしてお気に入りのアンティークの甕など割ってくれた程度でしたが、今は電話かけてもろくに会話もしないで「ガシャン」なんです。はい、我が家もそうでした。他の印象深い句に〈かたつむり殻持ち運ぶ自衛権〉。

2015年2月13日金曜日

登頂回望・号外編(その15) [福田葉子]  /   網野月を 



密会の兄者に淡き春の雪         福田葉子
一見、艶っぽい句にも思えるが、そうではないだろう。題は「反魂歌」であるので、この「密会」はシリアスなものである。作者にとっての「兄者」かどうかは不明だが、大変ごとに遭遇している「兄者」の熱を雪が冷ましているようだ。春の雪にそうした情緒が込められている。

「反魂歌」【俳句新空間No.2】 2014(平成二十六)年[新春帖]所収



2015年2月6日金曜日

登頂回望・号外編(その14) [夏木 久]  /   網野月を 


筑紫野のガソリンスタンド匂ひけり   夏木 久
「楽浪之思賀乃辛碕雖幸有 大宮人之船麻知兼津」と前書きがある。他の九句のもすべて万葉仮名?の前書きが付されている。筆者は万葉仮名を善く読まないが、同時に船はガソリンが燃料なのかも知らない。他に「サクラサクトキニハハハニチチモサク」「ぜつぼうはふかふかしをりはるともし」など、作者の強烈な個性を同じく強烈な言葉に移して表現している。永田耕衣に「自分ともう一人が理解すればよい」というような言葉があるようだが、将にそのような潔さの上に成立している句だ。そうした自己完結的な世界の中で、表現する内容と叙述の方法が研ぎ澄まされていくのを作者本人が楽しんでいるかのようである。

「古人昔日譚・一」【俳句新空間No.2】 2014(平成二十六)年[新春帖]所収

2015年1月30日金曜日

登頂回望・号外編(その13) [羽村美和子]  /   網野月を 


枚方の叔母飼いたがる都鳥       羽村美和子

 枚方の土地柄を筆者は残念ながら知らない。都会なのか田舎なのか?その地の叔母が鳥を飼いたいと言っている。不思議な句である。都鳥は果たして人が飼えるものかどうか筆者は知らないが、都鳥(=ユリカモメと筆者は解した)のイメージがこの句の決め手である。古くから歌謡や和歌に詠み込まれているイメージであろう。叔母についての詳細は句からは判明しないが、何やらいろいろと物語を勝手に作って読んでしまう。「飼いたがる」の意思表示が、単に掲句を叙景に終わらせないでいる。

「霧の花」【俳句新空間No.2】 2014(平成二十六)年[新春帖]所収

2015年1月23日金曜日

登頂回望・号外編(その12) [筑紫磐井]  /   網野月を 


美しきひととよはひを重ねてゐ      筑紫磐井
新春帖(追加)として別ページに十句のみ掲載されている内の一句だ。十句には「スタア誕生」の題が付されていて、一見何れの句も漢字と仮名文字の取り合わせが有する句々である。内に一字空けの句と、句読点入りの句が一句ずつある。掲句はご伴侶と共に新年を迎えた慶事を叙しているようだ。が、「美しきひと」は伴侶とは限らない。例えば俳句の上での盟友であったり…。「美しき」が何を以ての修飾語なのかを明示していない点が巧みである。読者の想像力へその読みを委ね切っている。無防備なまでにだ。そこに新感覚のポエジーが生ずるのであろう。「かなしきほど騙されやすきくせいつも」「未知のものつねにうるわし水中か」「おしやれして出かける先はひとりもの」なども同様の手法で叙されている。

「スタア誕生」【俳句新空間No.2】(27ページ)2014(平成二十六)年[新春帖]所収

2015年1月17日土曜日

登頂回望・号外編(その11) [北川美美]  /   網野月を 


寒き日や「ヒロユキ御飯食べた?」と訊く  北川美美
次に配されている句は「食べられる蒲公英を摘む息子かな」である。ヒロユキは蒲公英を摘んで食したのであろうか?初読の際にそう錯覚した。多分、この二句に関係性はないであろう。句の構成は文語に切れ字「や」の上五、中七座五は括弧で括られた口語体の疑問文でご丁寧に?マークが付されている。終わりには終止形の動詞だ。何とも奇態な構えである。むろん二十句の中に異質な掲句が一句だけ挿入されている所が作者の工夫でもあり、二十句を面白くしている由縁である。ヒロユキの片仮名書きはヒロユキと作者が面識のないことを示していて、「ヒロユキ御飯食べた?」の会話が何処からか作者の耳へ聞こえてきたように表現されている。ヌーベルバーグ的偶然を演出して見せている。

「雪焼の男」【俳句新空間No.2】 2014(平成二十六)年[新春帖]所収

2015年1月9日金曜日

登頂回望・号外編(その10) [太田うさぎ]  /   網野月を 


兎肉つるりと祝祭の近き        太田うさぎ

 作者はマーケットを歩いているのであろう。クリスマス時期のパリの街中にクリスマス市が開かれる。毎日のように開かれる市もあれば、曜日を決めて開かれる市もある。その中で冬季の旬肉に兎がある。皮を剥かれて屋台の屋根下に何頭も吊るされて売られている。見た目には、グロテスクでもあり可哀想でもあるのだが、シチューにしたりグリルにしたりすると、これは美味である。筆者などは日本風に吸い物にした。兎肉の売られている景は、題の「パリ―十二月」にピッタリだ。くどくどしく表現しないで、「つるり」としたところに作者の工夫があるように思う。作者の俳号にも相たるので思い入れが有るかも知れないが、筆者にはそこまで思い至らない。

「パリー十二月」【俳句新空間No.2】 2014(平成二十六)年[新春帖]所収

2015年1月2日金曜日

登頂回望・号外編(その9) [堀田季何]  /   網野月を 



残雪をすすむやブーツ磨かるる      堀田季何
踏み入れた雪の中で、ブーツに着いた泥が落ちてゆく景である。それを「磨かるる」と表現した。受動態にしたことで、作者の歩く行動がかすんで、残雪が主語となってブーツを磨いている錯覚にとらわれる。中七の「や」で句切れを作って、前半と後半の主語(=主体)が入れ替わる技法である。残雪へ踏み込んでゆく作者が、世の中の汚れを落としてゆくようにも読め、奥深い句である。

「芳春」【俳句新空間No.2】 2014(平成二十六)年[新春帖]所収

2014年12月26日金曜日

登頂回望・号外編(その8) [岬 光世]  /   網野月を 


早春の海へ踏切渡りけり      岬 光世


(『俳句新空間No.1』 「新春帖」平成26年1月1日より)

 康成の『雪国』の書き出しのようである。二十句の世界へ誘われるように、題「心待ち」の世界へ入り込んでゆく。海岸線に沿って走るローカル線を想像した。そのローカル線の踏切を海側へ越えて行ったのであろうか。座五の「けり」が不思議な情緒を描いている。作者自身が主語であるとするのが常識的であろう。がこれから始まる物語の主人公の行動のようにも思えるのである。

「心待ち」【俳句新空間No.2】 2014(平成二十六)年[新春帖]所収

2014年12月19日金曜日

登頂回望・号外編(その7) [堀本 吟]  /   網野月を 



沖萌えて一点透視せば産土    堀本 吟



題は「や!・椿闇・産土」である。前五句は句中に切れ字「や」を配置するように考案されている。中五句は「椿闇」のヴァリエーションである。後六句は雛、その他であろうか?掲句はその最後に配されている。その三句前「碑に海光映える雛流し」とあるので、流された雛の流れ着くだろう沖を想定して詠んだように、筆者は解した。しかもその沖が雛にとっての産土なのである。こう考えると、この雛はヴィーナスのように海の泡から生まれ出たものなのかも知れない。誤読をお許し願いたい。


「や!・椿闇・産土」【俳句新空間No.2】 2014(平成二十六)年[新春帖]所収

2014年12月5日金曜日

登頂回望・号外編(その6) [前北かおる]  /   網野月を 



総身を日に煙らせて眠る山     前北かおる

 「身延山」の題である。四句目の「湯宿」は下部温泉あたりであろうか?とすると「眠る山」はどの山を指示しているのであろう。山国の谷あいの身延から見える山形は決して切り立ったものではない。木々の多い山々である。その山々が眠るのであるから、冬とはいえ日の光りの多さを想像した。霧がかかって、その霧に日の光が乱反射して山を「煙らせて」いるのではないだろう。日の光そのものが、視覚を遮っているのだろう。句中に助詞を多用して文体を構成しているが、句意は幻想的情景を叙していて、将に「煙らせて」いるようだ。


「身延山」(『俳句新空間No.1』 2014(平成二十六)年1月1日発行




2014年11月28日金曜日

登頂回望・号外編(その5) [小澤麻結]  /   網野月を 


ひらく手の雪は光となりにけり    小澤麻結

(『俳句新空間No.1』 「新春帖」平成26年1月1日より)

全体二十句の中では心象的な印象の一句。題「ひらく手」はこの一句に拠るものである。掌で受け止めた雪がキラキラと輝いて見えた、ということなのであろうか?
手の中で雪が光に化してしまったように、筆者には読めた。雪が融解し、気化し、光波となってゆくイメージだ。それらの状態の変化が一瞬に起って手の中から光線が拡散して行く景を想像した。「なりにけり」と落ち着いた文語表現が古典の世界(例えば『竹取物語』のような)を連想させる。

2014年11月7日金曜日

登頂回望・号外編(その4) [中西夕紀]  /   網野月を 


さき烏賊を誰か食ひをる暖房車   中西夕紀

どの顔も日当たりて似る枯野かな

(『俳句新空間No.1』 「新春帖」平成26年1月1日より)

 前の掲句は、実感である。誰しも経験があるだろう。「暖房車」の斡旋が秀逸である。ちょっと迷惑で、少しばかり不快感がある。一方で空腹な自分自身を思い遣る作者でもあるのだ。題「敬虔」を逆表現していて諧謔の頃合いを得た句である。後の掲句は、これも季題の「枯野」がピッタリだ。日が当たって「どの顔も」ハレーションを起こしているのであろう。四季を通じて起こる現象ではあるが、筆者はそれを冬に固定した。乾燥した世界での現象に固定している。虚子の『五百句』を思い起こすが、全く別のものである。

2014年10月24日金曜日

登頂回望・号外編(その3) [もてきまり]  /   網野月を 

七転びころびしままの黄巻貝    もてきまり

八百八町かげろふの縁貝の縁




(『俳句新空間No.1』 「新春帖」平成26年1月1日より)

 二十句が数え歌のように一から二十まで笠付けになっている。掲句はその第七句目と第八句目である。題も「二十吃(く)」となっている。季題は順不同であり、二十句の句意の統一性はない。折句、折端、笠付、などにその趣旨はちかいものであろう。一句一句の句意はそれだけに極めて幻想的で、捉えどころのない句に思えるが、二十句の総体として鑑賞すると、そこにレースのような質感が編み出されていることに気付く。一本の糸の捩れを追う読者を翻弄しているかのようだ。






2014年10月17日金曜日

登頂回望・号外編(その2)[小林千史]  /   網野月を 


春の鹿群れを離れて汚れゐて    小林千史

(『俳句新空間No.1』 「新春帖」平成26年1月1日より)


春鹿にとっては大変な事件があっただろうが、作者の目からは座五の「汚れゐて」が重要なのである。眼前の鹿が汚れていることが作者の琴線に触れてのである。中七の「て」と座五の「て」と重ねる方法で、句のリズムを意図的に作り出している。二次元的世界で別方向へ中七と座五を導いているのではない。それではその二本の導線が元の方(逆の方)で交わってしまうからだ。二本の導線は三次元的に配置されて交わらないようになっている。同じ春鹿の状態を表現している語なのであるが、そうすることによって、春鹿の群れから離脱した孤立感や「汚れゐて」から来る切迫感が演出されている。

2014年10月10日金曜日

登頂回望・号外編(その1)[仲寒蝉] /  網野月を


冬麗や廃墟の石の尖りにも    仲 寒蝉


 (『俳句新空間No.1』「新春帖」平成26年1月1日より)

海外での句作は季語の問題などからも困難さを伴うものである。「アストゥリアス」の題が付されていて、スペイン北部の州アストゥリアスへの紀行俳句のようである。二十句には作者の好きな研ぎ澄まされた対象を詠み込んでいて、極めて先鋭的な感覚が伝わってくる。「寒月光とどくや沼の底の剣」、「巡礼の道にしたがふ冬銀河」、掲句、「石の壁いちまい冬の日に対す」「尖塔に凍雲触れて過ぎゆけり」などなどだ。対象の質感をそのまま句の中へ取り込もうと意図している。それだけに語句が生のように感じるのだが、それも作者の術中に筆者がはまってしまったからであろう。筆者はレンタカーでバスクから聖ヤコブの道を辿ったことがあるが、残念ながらアストゥリアスは通過地点であった。このような水分の比較的少ない土地柄で、句作することは難しいと思われるが、作者は見事に成し遂げている。(『俳句新空間No.2』より転載)