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2017年4月21日金曜日

【俳句新空間No.3】 真矢ひろみの句 / もてきまり



初夢の瓢箪鯰という構図 真矢ひろみ
瓢箪鯰は辞書に瓢箪で鯰をおさえるように、捕え所のない要領を得ぬ男をいうとあった。ここでは「という構図」とあるので、具体的な絵としての瓢箪と鯰であろう。初夢から滑稽まじる複雑な夢。具象画を提出しておいてアナロジーがいくらでもきく「という構図」。しかも中七のぬるぬる感を保証するべく下五で句の重心を効かせた技術的したたかさに感服。他句に〈三界の無明を照らす初茜〉凡夫が生死を繰り返しながら輪廻する三界(欲界、色界、無色界)の真っ暗闇が少しずつ茜色に染まりゆく。極めてアイロニーの効いた一句。

2017年3月3日金曜日

【俳句新空間No.3】真矢ひろみ作品評 / 大塚凱


  林檎植うこと穢土に子をもたぬこと
「植う」は連体形の「植うる」としたいところではあるが、林檎を植えることと子をもたないことの並列が抑制して書かれた作者の感情を伝える。それは淋しさ、切なさ、気楽さなどと言った単語では表せないいびつな塊であろう。「林檎植う」が繋ぐ原初からの生命のイメージだ。

  人に添ふ冥きところに雪降り積む
「人に添ふ冥きところ」とはどこであろうか。影法師か、ひょっとしたら、それはもっと内的な「冥きところ」かもしれない。雪は眼前のものすべてに降りかかる。人間の影にも、そして、こころの影にまでも等しく降り積もる。雪はその「冥さ」を弔うように、慰めるように清らかに白い光を放つのである。

  電波か魂か初空のきらきらす
初空はなぜきらめいているのか。「電波」と「魂」の交錯がそのきらめきであるのだ、と独断した作者の把握である。電波と魂、つまり物理の世界と精神の世界のものがひとつの空の下で飛び交っているというドライな空想が面白い。初空の明るさを分析的に想像する視点のユニークである。様々なきらめきを包み込む初空の大きさが見えてくる。

2017年1月6日金曜日

【俳句新空間No.3】 真矢ひろみの句 / もてきまり



初夢の瓢箪鯰という構図 真矢ひろみ
瓢箪鯰は辞書に瓢箪で鯰をおさえるように、捕え所のない要領を得ぬ男をいうとあった。ここでは「という構図」とあるので、具体的な絵としての瓢箪と鯰であろう。初夢から滑稽まじる複雑な夢。具象画を提出しておいてアナロジーがいくらでもきく「という構図」。しかも中七のぬるぬる感を保証するべく下五で句の重心を効かせた技術的したたかさに感服。他句に〈三界の無明を照らす初茜〉凡夫が生死を繰り返しながら輪廻する三界(欲界、色界、無色界)の真っ暗闇が少しずつ茜色に染まりゆく。極めてアイロニーの効いた一句。

2016年12月30日金曜日

【俳句新空間No.3】真矢ひとみ作品評 / 大塚凱


  林檎植うこと穢土に子をもたぬこと
「植う」は連体形の「植うる」としたいところではあるが、林檎を植えることと子をもたないことの並列が抑制して書かれた作者の感情を伝える。それは淋しさ、切なさ、気楽さなどと言った単語では表せないいびつな塊であろう。「林檎植う」が繋ぐ原初からの生命のイメージだ。

  人に添ふ冥きところに雪降り積む
「人に添ふ冥きところ」とはどこであろうか。影法師か、ひょっとしたら、それはもっと内的な「冥きところ」かもしれない。雪は眼前のものすべてに降りかかる。人間の影にも、そして、こころの影にまでも等しく降り積もる。雪はその「冥さ」を弔うように、慰めるように清らかに白い光を放つのである。

  電波か魂か初空のきらきらす
初空はなぜきらめいているのか。「電波」と「魂」の交錯がそのきらめきであるのだ、と独断した作者の把握である。電波と魂、つまり物理の世界と精神の世界のものがひとつの空の下で飛び交っているというドライな空想が面白い。初空の明るさを分析的に想像する視点のユニークである。様々なきらめきを包み込む初空の大きさが見えてくる。

2015年9月4日金曜日

【俳句新空間No.2】 秦夕美作品評/真矢ひろみ



錦糸町涼しき音を放ちけり   秦夕美

 錦糸町の地名の由来は、北口にあった「錦糸堀」とも「琴糸」の工房があったなどと言われるが詳細は不明。現在、北口周辺は現代的な都市空間となっているが、南口側は古くからの歓楽街が色濃く残り、今なお猥雑な雰囲気を醸し出す。実は筆者の通学路でもあった所で、数十年前は飲み屋、ポルノ映画館、風俗店、路地に入れば安アパートなどが並び立つ、東部下町の典型的な街であり、南口方面には今なお名残りがある。

 句意は「あの『如何わしく、禍々し』かった錦糸町周辺の雰囲気もすっかり変わり、『気持ちよく涼しげ』な快音が聞こえる街になった」と、「猿蓑」凡兆の「市中は物のにほひや夏の月」と趣きを同じく、猥雑に清涼を見取る句と解されるだろうし、一方、地名という一種の呪縛から離れて「錦の糸」という表意、また「錦糸町(kinshichio)」という「i」音重複の表音からの感慨句とも取れる。「錦糸町」という言葉そのものが音となるのである。丈高く、声調が張り、作者の凛とした姿を垣間見るよう。無論、読みはどれか一つに限るわけでなく、私たちの脳はこれらを重層的に受け止めることが可能である。これが詩歌を楽しむために、神が人に与えた機能なのかもしれない。

 さらに分け入ろうとすれば、「涼しい」とした作者の心象、音を「放つ」主体と音の内容に進む。ここから先は読む側の想像に託されることとなり、読み手の「楽しみ方」にも大きく依存する。「涼しい」という季語、主体の意志を感じさせる「放つ」という言葉、いわば外枠線だけを作者はぽんと提供しているのだが、読み手にとっては、この線に沿って色を塗らなければ始まらない。

 筆者の読みは次のとおり。ある者(または作者)が南口側の雑踏の中に蹲り、大友克洋『AKIRA』のように、両手で小動物を包み隠すごとく何かを覆っていたが、その掌を少しづつ開け始める。すると、摩訶不思議な音が、パチンコ店の流行歌や風俗店の呼込む声、右翼の街頭宣伝などにかき消されながらも、円形に広がっていく。その広がりとは、観察者が音を認識したのではなく、何かに高揚する子供たち、はっとしたような表情の老夫婦、音の有りかを探ろうと周辺を見渡すキャバクラ嬢などの姿を通して、視覚的に捉えられる。神経を研ぎ澄まして微かに聞こえる音は、阿弥陀如来来迎の際に、雲中供養音薩が奏でるとされる音楽に似て、華やかとしながらも、現代音楽に慣れ親しむ者からすれば、抑揚のない単純なもの。そして、この音を放った者こそ、日常に非日常を持ち込み、空虚な心に魂をもたらす者、即ち都市に棲む「マレビト」であった。

 ・・・といった具合。『AKIRA読み』とでも言うべきか。派手なストーリー仕立ては筆者の性分であり、ご容赦いただきたい。俳人の素質にそぐわぬものかも知れぬが、これとて明白な論拠はない。


2015年7月7日火曜日

【俳句新空間No.2】 真矢ひろみの句 /もてきまり


ぼうたんの揺るるは虐殺プロトコル 真矢ひろみ
ぼうたんの百のゆるるはゆのやうに 森澄雄〉の本歌取りである。白牡丹の沢山咲いている景はお湯がふつふつと沸いているようなというほどの意味だが、むしろ句の意味は横に置いて、漢字「百」以外は仮名表記のシニフィアン(記号表現)の美として私は享受してきた。掲句の「ぼうたんの揺るるは」というシニフィアン(ここでも意味は重要ではない)は「虐殺プロトコル」だと云う。プロトコルとはIT用語で手順とか手続きのような意味だ。想えば大量のお湯が沸騰する景は怖い。そのサブリミナル効果も入って「虐殺プロトコル」。二〇一四年五月ウクライナのオデッサで二十一世紀とは思えないほどのネオナチによる市民虐殺があった事を思い出した。他にも共鳴句が多く〈国霊やコンビニの灯を門火とす〉等。