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2016年10月7日金曜日

【俳句新空間No.3】 秦夕実の句 / もてきまり



死者係御中こちら八手咲く  秦夕実
いくら長寿社会になれども、実際、七十歳を超えるとまわりに冥途へ発つ人が多くなる。そんな中、あちら様へ「死者係御中」と封書おもてに書いた。中の文面は「こちら八手咲く」つまりまだまだこちらで頑張る決意。季語「八手咲く」のみごとな使用例。題は「おさだまり」つまり「御」「定」で、最初の十句には「御」、あとの十句には「定」が兼題として入っている。冥途に発つ前に「御定(おさだまり)」ではあるが俳句でおもいっきり遊ぼうという隠し味。最後の句は〈冥府への定期便出づ木菟の森〉。

2016年6月24日金曜日

【俳句新空間No.3】秦夕美作品評 / 大塚凱



  雲ながれ御用始の礼一つ
御用始は謂わば官公庁の仕事始にあたる。ひろびろと晴れた冬青空のもとで、新年はじめての公務がはじまろうとしている。正月休みで弛んだこころも、「礼一つ」で引き締まる心地がするのだろうか。ましてや官公庁、そのはじまりの「礼」の力強さはいかほどのものだろう。

  かにかくに天狼打てる御者の鞭
やや時代がかった情景ではあるが、御者の躍動感をいきいきと描いている。「かにかくに」というある種の誤魔化しが、御者の鞭のスピード感を生んでいるのかもしれない。「天狼」という文字から想起される獣の力感、そしてその光の鋭さが御者の動きに投影されているかのようである。「かにかくに」の入りから夜空の広がりを想像させ、すぐに「鞭」へと収斂させていく構図の大きさが魅力であった。

 作品全体を見ると、

死者係御中こちら八手咲く
 
御形つむ喜寿の朝まで生きようか 
冥府への定期便出づ木菟の森
のように、主に死を主題にした一連であると思われる。しかしながら、「死」を主観的に詠んだ作品よりは、掲句のような「生」の場における作品の方に力強さを感じた。

2015年9月4日金曜日

【俳句新空間No.2】 秦夕美作品評/真矢ひろみ



錦糸町涼しき音を放ちけり   秦夕美

 錦糸町の地名の由来は、北口にあった「錦糸堀」とも「琴糸」の工房があったなどと言われるが詳細は不明。現在、北口周辺は現代的な都市空間となっているが、南口側は古くからの歓楽街が色濃く残り、今なお猥雑な雰囲気を醸し出す。実は筆者の通学路でもあった所で、数十年前は飲み屋、ポルノ映画館、風俗店、路地に入れば安アパートなどが並び立つ、東部下町の典型的な街であり、南口方面には今なお名残りがある。

 句意は「あの『如何わしく、禍々し』かった錦糸町周辺の雰囲気もすっかり変わり、『気持ちよく涼しげ』な快音が聞こえる街になった」と、「猿蓑」凡兆の「市中は物のにほひや夏の月」と趣きを同じく、猥雑に清涼を見取る句と解されるだろうし、一方、地名という一種の呪縛から離れて「錦の糸」という表意、また「錦糸町(kinshichio)」という「i」音重複の表音からの感慨句とも取れる。「錦糸町」という言葉そのものが音となるのである。丈高く、声調が張り、作者の凛とした姿を垣間見るよう。無論、読みはどれか一つに限るわけでなく、私たちの脳はこれらを重層的に受け止めることが可能である。これが詩歌を楽しむために、神が人に与えた機能なのかもしれない。

 さらに分け入ろうとすれば、「涼しい」とした作者の心象、音を「放つ」主体と音の内容に進む。ここから先は読む側の想像に託されることとなり、読み手の「楽しみ方」にも大きく依存する。「涼しい」という季語、主体の意志を感じさせる「放つ」という言葉、いわば外枠線だけを作者はぽんと提供しているのだが、読み手にとっては、この線に沿って色を塗らなければ始まらない。

 筆者の読みは次のとおり。ある者(または作者)が南口側の雑踏の中に蹲り、大友克洋『AKIRA』のように、両手で小動物を包み隠すごとく何かを覆っていたが、その掌を少しづつ開け始める。すると、摩訶不思議な音が、パチンコ店の流行歌や風俗店の呼込む声、右翼の街頭宣伝などにかき消されながらも、円形に広がっていく。その広がりとは、観察者が音を認識したのではなく、何かに高揚する子供たち、はっとしたような表情の老夫婦、音の有りかを探ろうと周辺を見渡すキャバクラ嬢などの姿を通して、視覚的に捉えられる。神経を研ぎ澄まして微かに聞こえる音は、阿弥陀如来来迎の際に、雲中供養音薩が奏でるとされる音楽に似て、華やかとしながらも、現代音楽に慣れ親しむ者からすれば、抑揚のない単純なもの。そして、この音を放った者こそ、日常に非日常を持ち込み、空虚な心に魂をもたらす者、即ち都市に棲む「マレビト」であった。

 ・・・といった具合。『AKIRA読み』とでも言うべきか。派手なストーリー仕立ては筆者の性分であり、ご容赦いただきたい。俳人の素質にそぐわぬものかも知れぬが、これとて明白な論拠はない。


2015年6月16日火曜日

【俳句新空間No.2】 秦夕美の句 /もてきまり


水無月の汐留駅は黄泉の駅  秦夕美
確かに地下にある駅は、夜昼の区別なく煌々と照明がつき、まして雨の季節ともなると濡れた傘と雨に裾などを少し汚した人々が行き交う景は背景に雨が見えないだけに虚構の舞台のようで、なるほど黄泉のようだ。そんな中、自画像として〈ぽつねんと私雨の鉄砲百合〉異界にまぎれこんでぽつねんとしながらもあちこちと首をふり観察を怠らぬかのような鉄砲百合的痩身の作者を想像してしまう。そして〈波布と会ふたそがれ熱のままの指〉「波布」とはあの猛毒の蛇のことだ。この句には妖気ただようエロスがあり凡者には怖いほどだ。

2014年11月21日金曜日

【『俳句新空間No.2』 平成二十六年[夏行帖]を読む】 第二夜 山の手線、廃線〜秦夕美〜  / 中山奈々



最後の議題です。動揺されている方も多いですね。みなさんの大半が、これを議題にする日がくるとは思ってもいなかったでしょう。私もです。しかしこの議題抜きにして、オリンピック成功はあり得ないのです。

そう。このトーキョーで三回目となるオリンピックおよびパラリンピック。これまでの二回は進歩を全面に押し出して来ました。交通しかり施設しかり。これはどこの国もそうですが。その反面、コスト面で大打撃です。投資だと笑っている場合ではありません。

確かに第一回目のトーキョーオリンピックでこの国は成長しました。しかしこれ以上の成長はむしろマイナスです。そこで逆転の発想といいますか、われわれは後進してみようと思ったわけです。
後進。そう、山の手線の廃止です。すでにトーキョーは毛細血管よりも行き届いたメトロの発達のおかげで、山の手線なしでも不自由はしないのです。


錦糸町涼しき音を放ちけり       秦夕美

スカイツリーと同じ墨田区にあり、押上駅からはたった一駅。しかし川の流れもひとの流れもなんとゆるやかなことか。天神橋、錦糸橋、松代橋。琴線、とまではいいませんが、あの場所独特の涼しい音。

東京メトロ半蔵門線。薄紫で描かれているあの路線です。


水無月の汐留駅は黄泉の駅

もうひとつ紫の路線があります。ワインレッド。ワインなんてお洒落なものを呑んでいるかわかりませんが、酔っ払いサラリーマンの地、新橋。そこに隣接する汐留駅は大江戸線。江戸。後進も後進。かつての名をつけるこの路線は山の手線よりも、東京23区を広く回るのです。少し歩けば、浜離宮。

新橋と浜離宮。まるでこの世とあの世の間のような。さらに、ゆりかもめに乗れば、お台場にも行けます。鎖国時代は外国船を追い払う砲台場でしたが、今やオリンピック会場として各国から選手、観客、観光客を迎えるのです。歴史の長さを感じます。

古都京都奈良に比べれば、トーキョーの歴史は浅く思えてしまいます。卑弥呼の墓とされる箸墓古墳を有していません。ましてや宇宙に繋がる糸魚川もありません。ならば何が出来るでしょうか。そうです。山の手線廃線です。これほどのインパクトあることがあるでしょうか。進歩しない。後進する。世界を驚かせることはこれしかないのです。

そこ、寝ないでください。われわれが今議論していることは、本当に重要なことなのです。だからいち早くここから抜け出ないといけないのです。

どうかここからわたしを出してください。


美しき嘘とはいへず吾亦紅