夜店の灯平家の海を淋しうす 中西夕紀栄華と零落。平家の血を彩る波乱の物語は、日本の風土のどこかに深く刻まれているのだろう。都が栄華という光の部分を象徴するものであれば、海は零落を想起させる影の場所だ。そして夜店もまた、たくさんの影に囲まれた小さな光の場所である。その対比を誰もが知っているから、夜店の明るさはどこか切ない。夜店を愉しんだ人はみな、巨大な夜の暗がりに押し戻されていく。まるで平家が落ち延びていった、あの海のような淋しさへ。
2017年3月24日金曜日
【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [中西夕紀] / 小野裕三
ラベル:
OnoYuzo(小野裕三),
中西夕紀,
俳句新空間No.3,
平成二十六年甲午俳句帖
2016年11月4日金曜日
【俳句新空間No.3】 中西夕紀の句 / もてきまり
写真集『筑豊のこどもたち』を出した土門拳も今は亡く、またモノクロに映っていた石炭の山(ボタ山)も今はもう緑の山なのだが、土門拳と言えばモノクロ。石炭の山と言えばモノクロを想起させ、又、その述語で「亡し」「なし」と畳みかける技がすぐれて妙。他に〈彼岸から吹く北風もありぬべし〉子規、最晩年の〈鶏頭の十四五本もありぬべし〉を遠く想う。子規(死者)のいる彼岸から吹く北風もあるだろうなぁというほどの意だが、彼岸から此岸へ俳句という現場に吹く北風は厳しい。
土門拳亡し石炭の山もなし 中西夕紀
ラベル:
MotekiMari(もてきまり),
中西夕紀,
俳句新空間No.3,
俳句新空間作品鑑賞
2016年7月8日金曜日
【俳句新空間No.3】 中西夕紀初春帖(二十句詠)鑑賞/前北かおる
光塵の中に鹿立つ枯野かな 中西夕紀「枯野」が季題で冬。「光塵」は耳慣れない言葉ですが、おそらく日差しによって浮遊する塵が光って見える状態を表しているのでしょう。逆光気味に低く差す日の中に無数の塵が輝いて見えている、その中に一頭の鹿が日を背負って立っている、そんな枯野よという俳句です。鹿は神の使いとされますが、ここに詠われた立ち姿には現実を超越したような神聖さが備わっています。「光塵」という漢語の響き、そして季題「枯野」の静けさが、この鹿の気高さを神々しさにまで高めています。
「狐火」が季題で冬。昔、親しい数人で狐火を見たのでしょう。旅先か何かでさびしい夜道を歩いてというような状況を思い浮かべました。作者は、何十年か経って遠い記憶を思い出しているのです。その場所を再訪したのか、そうでなくても似たような夜道を歩いているのかも知れません。昔ほどには付き合いのない狐火の時の友人の顔を思い浮かべてみると、既に亡くなった人もひとり、ふたりいます。何だか自分自身の老いが実感され、ふと寂しい気持ちにとらわれたという俳句です。「狐火」という季題もそうですが、直接過去の助動詞を使って「見し」とだけ言った省略、「欠け」の脚韻の効果が、しみじみとした余韻を生んでいます。
狐火を見しひとり欠け二人欠け 中西夕紀
ラベル:
MaekitaKaoru(前北かおる),
中西夕紀,
俳句新空間No.3,
俳句新空間作品鑑賞
2016年6月17日金曜日
【俳句新空間No.3】中西夕紀作品評 / 大塚凱
一島を工場とせり百合鷗例えば東京湾湾岸には、それぞれの用途に合わせて計画された埋立地が多く存在する。具体的な名称は存じ上げないが、一島まるごと工業用地として埋め立てられた島もあるだろう。百合鷗がいかにも舞っていそうである。鷗の白さと工場の色彩も、互いにオーバーラップするかのようだ。
弟を前へ押し出し餅配り
一読して、石川桂郎の〈入学の吾子人前に押し出だす〉がほのかに思われた。「入学の吾子」はこの「弟」よりも幼いであろうが、作者が作中の「弟」に抱く気持ちと通ずるものが感じられる。「餅配り」に際してどこか弟の顔見せをしているような気配すらある。少しはにかむようだがぎこちない表情をしているかもしれない。そんな弟を取り囲む生活の場の有り様が想像される。
牛肉に記す牛の名雪催「牛の名」といっても一頭ごとの名前ではない。つまり、「ブランド」である。松阪牛なら松阪牛、と牛の個体は「牛の名」のもとに一括りにされ、埋没する。個体名があるにしても、それは数文字列にすぎず、我々消費者の意識するところではない。そんな現代性を帯びたはかなさに、雪は降りかからんとしている。
ラベル:
OtsukaGai(大塚凱),
中西夕紀,
俳句新空間No.3,
俳句新空間作品鑑賞
2015年7月20日月曜日
【俳句新空間No.2】 中西夕紀作品評 / 西村麒麟
向かひ合ひボート漕ぐ父独り占め 夕紀世の中の全ての父が羨ましがるに違いない。息子でも良いが、そう読むと少し甘い。やはり娘の方が句が美しい。父親とはボートを漕ぐ男の力と、娘が見るに足る面構えが必要なのだろう。娘にはそれが誇らしい。
混み合へる仏壇を閉ぢ夏蒲団 夕紀そう言えば仏壇は混みあっている。よく見るあたり前なことだけれども、よく観察すると仏壇とは妙なものだ。パタンと閉じて、眠る。仏壇の中の人も眠る。
ゆふぐれを白扇の行く厳島 夕紀源氏と平家では文句無しに平家の方が好きだ。源氏なら昼、平家ならゆかしい夕暮れか。白は平家で厳島は清盛の夢だ。扇とくれば那須与一め。それぞれの言葉から平家の魂がちらちらする。作者もきっと平家贔屓に違いない。
2015年7月9日木曜日
【俳句新空間No.2】 中西夕紀の句 /もてきまり
昼顔に目覚めて口のにがきかな 中西夕紀夏の午後、ちょっとうたた寝して目覚めてみるとあの昼顔の花になっていた。口がにがいから確かに私なのだけどと「変身」(カフカ著)の昼顔版と読むのはおおいなる誤読なのだが、そうとも読めてしまうシュールな表出。
〈波打つて大暑の腹の笑ひをり〉ステテコ姿の七福神の一人に似た老人が檜の縁台などで大笑いしている姿。なんといっても「大暑の腹」という把握が玄人。〈混み合へる仏壇を閉じ夏布団〉実家に帰省すると時に仏間に寝かせられるときがある。老母などは「先祖代々南無むにゃむにゃチーンッ!」と拝むのだが、確かに仏壇の中には「先祖代々」が入っているのでそうとう混み合っている。
ラベル:
2014(平成26)年8月作品詠,
MotekiMari(もてきまり),
No.3掲載,
中西夕紀
2015年7月3日金曜日
【俳句新空間No.2】中西夕紀の句 2/ 陽美保子
混み合へる仏壇を閉ぢ夏蒲団 中西夕紀考えてみれば、この世よりあの世の方が余程混んでいるに違いない。たとえば、仏壇ひとつに自分と配偶者の両親の位牌を引き受けたとしても四つの位牌が入ることになる。なんとも狭苦しいことだ。せいぜい長生きをして、人口密度の低いこの世でゆっくり寝たいものだ。仏壇に比べ、夏蒲団が広々と涼しげに見える。
〈骨の音涼しく傘を畳みけり〉は、仏壇の句を読んだ後のせいか、「骨の音すずしく」まで読んで、骨壺を想像したが然にあらず。「傘」ときて楽しく裏切られる。
ラベル:
2014(平成26)年8月作品詠,
No.3掲載,
YoMihoko(陽美保子),
中西夕紀
2015年7月2日木曜日
【俳句新空間No.2】中西夕紀の句 1/ 陽美保子
父の日の暮れて影置く畳かな 中西夕紀何の影とは言っていないが、物自体が重要なのではない。外の方が明るいような夕暮時、まだ灯りを点けぬ薄暗い畳に落ちる物影の趣が、昔の日本の父の趣に重なる。谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を思い出す。「われらは落懸のうしろや、花活の周囲や、違い棚の下などを填めている闇を眺めて、それが何でもない蔭であることを知りながらも、そこの空気だけがシーンと沈み切っているような、永劫不変の閑寂がその暗がりを領しているような感銘を受ける。」掲句の影にはこれと同じ閑寂がある。その閑寂は、そのまま厳格で寡黙な父の姿でもある。
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2014(平成26)年8月作品詠,
No.3掲載,
YoMihoko(陽美保子),
中西夕紀
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