2014年10月17日金曜日

登頂回望・号外編(その2)[小林千史]  /   網野月を 


春の鹿群れを離れて汚れゐて    小林千史

(『俳句新空間No.1』 「新春帖」平成26年1月1日より)


春鹿にとっては大変な事件があっただろうが、作者の目からは座五の「汚れゐて」が重要なのである。眼前の鹿が汚れていることが作者の琴線に触れてのである。中七の「て」と座五の「て」と重ねる方法で、句のリズムを意図的に作り出している。二次元的世界で別方向へ中七と座五を導いているのではない。それではその二本の導線が元の方(逆の方)で交わってしまうからだ。二本の導線は三次元的に配置されて交わらないようになっている。同じ春鹿の状態を表現している語なのであるが、そうすることによって、春鹿の群れから離脱した孤立感や「汚れゐて」から来る切迫感が演出されている。

2014年10月10日金曜日

登頂回望・号外編(その1)[仲寒蝉] /  網野月を


冬麗や廃墟の石の尖りにも    仲 寒蝉


 (『俳句新空間No.1』「新春帖」平成26年1月1日より)

海外での句作は季語の問題などからも困難さを伴うものである。「アストゥリアス」の題が付されていて、スペイン北部の州アストゥリアスへの紀行俳句のようである。二十句には作者の好きな研ぎ澄まされた対象を詠み込んでいて、極めて先鋭的な感覚が伝わってくる。「寒月光とどくや沼の底の剣」、「巡礼の道にしたがふ冬銀河」、掲句、「石の壁いちまい冬の日に対す」「尖塔に凍雲触れて過ぎゆけり」などなどだ。対象の質感をそのまま句の中へ取り込もうと意図している。それだけに語句が生のように感じるのだが、それも作者の術中に筆者がはまってしまったからであろう。筆者はレンタカーでバスクから聖ヤコブの道を辿ったことがあるが、残念ながらアストゥリアスは通過地点であった。このような水分の比較的少ない土地柄で、句作することは難しいと思われるが、作者は見事に成し遂げている。(『俳句新空間No.2』より転載)







2014年10月3日金曜日

ドラマチックな私事ですが / 仮屋賢一

(『俳句新空間No.2 』平成二十六年甲午俳句帖 花鳥篇より)

 日常であれ非日常であれ、それをドラマチックに描けるとすれば、結局それはその人の感覚しだいであると思う。俳句は小さなドラマである。すごく素敵で私的な、ドラマ。

念力のやうな音して冷蔵庫  しなだしん

家電製品が魔法だとか念力だとか、いつの時代の話だろう。この冷蔵庫も電気冷蔵庫のことだろう。氷がなくたって中に入れればものが冷えるのはもはや不思議でもなんでもない。でも、ただ冷やすだけにしては、音が多い。大きな、多機能の冷蔵庫になるとなおさら。一体コイツ、何してるんだろう、そんな気にもなる。持って回った言い方でとぼけているような面白さがありながらも、「念力」が言い得て妙である。

神々の混み合つてゐる青嵐   仲寒蝉


語りは極めて明快。夏の句で「混み合つてゐる」と言いながらも一切暑苦しさを感じない面白さ。いや、でも、もしかしたら、神々たち張本人は、不快なのかも。神々のなんとも暑苦しい光景が、人間界では(多少荒々しいが)情緒ある自然の風となっている。と言ってしまうのは、少しばかり不謹慎か。

語り合ひ笑ひ緑蔭出てゆかず   長嶺千晶

なんだかんだ、ずっといる。日の動きに従って、ちょっとずつこの人たちも動いているのかもしれない。話に夢中になっているようで、そういうところはしっかりしている、というより、このような避暑は人間の本能なのかもしれない。いかにも居心地の良さそうな、緑蔭である。

薔薇の名を残念なほど忘れけり   西村麒麟

薔薇ほど多くの品種が作られ、それら一つ一つにユニークな名前が与えられる観賞花も珍しいように思う。普通に生活してれば、数種の名前を知っているだけで上出来である。とはいえ、薔薇好きの人が話をしてくれたり、薔薇園を回ったりして、色々な薔薇の名前と触れることもあるだろう。へえ、そんな名前が! なんて、その時は楽しんでいる。そしていざ、後になって、そういえば面白い名前があったな、なんて思いだしてみたら……「残念なほど忘れ」ている。冗談じゃなく、「残念」なのである。

致死量を超えてピーマン肉詰めに 山本たくや

包丁を入れられたと思ったら明るくしてくれていた、なんてことがあったり(「ピーマン切って中を明るくしてあげた 池田澄子」)、素材を活かした料理を作ってくれたと思ったら殺されそうになっていたり(掲句)、ピーマンの俳句での扱いはどうしてこうも同情したくなるのだろう。ピーマンという野菜は料理の光景がいちいちドラマチックである。致死量なんて言葉の恐ろしさとは裏腹に、たっぷり肉詰めされた様子がいかにも食欲をそそるし、逆説的に生き生きとした新鮮なピーマンも見えてきて、なんとも美味しそうである。同情したくなりはするが、結局、同情なんてしない。これが、ピーマンなんだろうなあ。


(※冊子「俳句新空間」ではブログ掲載の俳句帖を作者名あいうえお順に掲載しています。)

【執筆者紹介】


  • 仮屋賢一(かりや・けんいち)

1992年生まれ、京都大学工学部。
関西俳句会「ふらここ」代表。作曲も嗜む。





2014年5月23日金曜日

【俳句新空間No.1を読む】  『俳句新空間No.1』を読む(転載)/陽美保子


良き人と書いてあるなり鳴雪忌    西村麒麟
(『俳句新空間』No.1)

 鳴雪忌は、内藤鳴雪の忌日で二月二十日。鳴雪の俳句は、〈初冬の竹緑なり詩仙堂〉、〈只頼む湯婆一つの寒さかな〉くらいは知っているが、それほど人口に膾炙しているというわけでもない。子規に俳句を学んだというが、俳句より江戸俳諧の研究の方が知られている。どんな人だったのだろうと調べてみると、「良き人」と書いてある。その単純明快な記述が、いかにも温厚実直な人柄を思わせて好ましい。この言葉を、これまた素直に受け取った作者のお人柄も一句に滲み出ていて、思わず顔がほころぶ。

水鉄砲最新式でありにけり      麒麟

 最新式とはどんな仕掛けのある水鉄砲なのだろうと想像が膨らむ。また、その水鉄砲にやられて、「参った、参った」と言っているお父さんなども想像され、楽しい一句である。まったく説明しないことにより、読者の想像力が刺激され、一句が大きくなる好例だ。

 〈雑に蒔く事の楽しき花の種〉〈鉄斎の春の屏風に住み着かん〉〈いただけるならもう少し冬休〉など自在。

 (以上「泉」5月号より転載)

2014年5月2日金曜日

ブログから紙媒体へ-平成二十五年癸巳俳句帖を読んで- /小澤麻結

好みの珈琲を選んでご覧というような表紙絵が、摂津幸彦氏の手による、という贅沢がまずあるこの冊子ですが、内容のほとんどは既に知っています。平成25年に週刊「BLOG俳句空間-戦後俳句を読む-」に掲載された「歳旦帖」「春興帖」「花鳥篇」「夏興帖」「秋興帖」「冬興帖」と二十四節季題詠句等で、新作は平成二十六年新春帖だからです。

以下に、「歳旦帖」を例にして個人的な印象を述べます。ブログでは、年初の読み応えある句帖であったと記憶しています。お声掛け頂き、私も「俳句帖」6シリーズに参加させて頂きました。

それでは、ずうずうしくもこの冊子に何を期待したかといえば、発表形態が電子データから紙ベースになると印象はどうかという点です。私は筑紫磐井氏の<ブログから紙媒体へ>との試みを面白いと思いました。ブログでは、各「俳句帖」は四~八週にかけて、数名毎に掲載されました。それが冊子では一挙に掲載されます。巻物を広げたように、その季ごとの句が繰り広げられるのを読んだなら、どう感じるかを体験してみたいと思いました。

第一印象は「困惑」でした。冊子では、句の掲載順が到着順からあいうえお順に変更になっているので、最初はそのためかと、思ってみたりしました。ブログでは、各人の句が独立していましたが、ページを埋めるように句が並びます。期待した通り巻物を伸べたようではあるけれど、何というか混沌としていました。ひと通り最後のページまで読み、繰り返し読んでみました。

そして私は自分の固定観念に気付きました。無意識に、多数の句の流れに意味を見出そうとしていました。調和を求めたからこその困惑だったのです。この冊子は系統の異なる俳句を愛する者たちの多様な作品集なのです。混沌が当然だし、むしろそこから生まれる力を味わえばいいのでした。

且つ多種多様な句が行合ながら掲載されることで、全体としてその季らしさを表現し得ることができるのです。読者は、自身に呼びかける歳旦を祝う句を好きに拾うことが可能です。俳句の宇宙のようです。これはこの冊子の楽しみ方の一つだと思います。

紙ベースでは、ページを繰ることは視野が広がってゆくかのように感じます。これは私が紙ベースの方が慣れているからかもしれません。冊子では穏やかに情報が続き、心惹かれる句にはゆっくり立ち止まることができます。

一方ブログの場合は、展開は潜行型に感じます。光として飛び込んでくる情報は、強い印象をもたらしますが疲れます。ブログで、冊子のように各俳句帖を一気に見せられたら、ボリュームを確認した時点で閉じてしまうかもしれません。数名毎の掲載は聡明なご判断なのだったと得心しました。
また、ブログで読んでいた時には、各俳句帖を全体として考えたことはありませんでした。勿論考える必要も感じませんでした。ですが冊子として手にした時、1句1句を一つの季の構成要素として味わいたいと自然に思いました。改めて冊子と電子媒体は、用途が異なることを実感しました。それぞれの良さを活かすには、工夫が必要なのです。

俳句帖を紙ベースで読んだことで、私は少し自由になったように思います。不自由だったというわけではありません。空間が広がった気がしたのです。新しい空間に出会いました。俳句新空間です。


【筆者略歴】

  • 小澤麻結 (おざわ・まゆ)

「知音」同人。句集『雪螢』、共著『超新撰21』。