作者、仲寒蟬氏は多作という修業を日々続けておられる荒武者。その手応えと手ざわり、切れ味、そして包容力のある俳句にいつも圧倒されている。忙しさにかまけて弁解ばかり言っている私には眩い存在である。
木漏日のそのまま春の水の底 仲寒蟬午前中の診察が一段落した作者は、街路樹のある歩道を気分転換に歩いてみた。雨も上がって遅い昼下り、午後三時ごろであろう、その光に、ああ、日差しが柔らかくなったなあ、ずいぶんと日が伸びたねと呟きながら、ひとところ、舗装が崩れて水溜りになったところに立ちどまる。車や人の往来の激しい道なのに、木の葉が沈んでいるぐらいのあまり濁っていない水溜り、その小さい水溜りをちょっと覗いただけの作者なのに、掲句のような「春の水」の本意を捉えたような一句に仕立て上げる。その凄腕は、「春の水」で終わらせず「春の水の底」ときちっと気持ちを水底まで沈めたあたりにある。「水温む」の感覚をまずは思わせ、水底の浅さ、それに映っているものの揺らぎが春そのものであることを読者が感じとれるようにする。そして、なお、「底」ということばによって、「春愁」の気分まで漂わせる重層的な句なのである。
橋わたるたび夏めいてゆく心地 寒蟬夏を大づかみして表わすために、掲句一句目のように橋を介在させるというのは、じつに聡明である。太陽の強い光、その白い反射をより身近に体感させれば、町の中の橋で充分であろうが、作者は「橋わたるたび」となんども橋をわたったことを強調、そのたびにますます夏の雰囲気にひたれる境地へと深まっていったことを歓喜しておられるようであるから、足元に流れる川の勢いに身がすくんでしまうような山間の細い橋をわたっていっての一句と考えるべきであろう。スリル感を楽しめるのは、やはり、夏の季節の間であろう。場所を限定させる言葉、たとえば「山中の」とか「峡谷の」とか、はたまた「海近き」などの条件を言わずとも、情景が目に浮かび、作者の詩ごころが伝わってくる句こそ、まさしく俳句精神に則ったものといえるのではないか。
釣り人の夏を釣らむとしてゐたり 寒蟬ぴんぴん跳ねながら目の前に降参した姿を見せる魚を想像しながら釣糸を投げる釣り人。小さい魚など要らぬと、完全に彼の頭の中の映像は大きな魚しか結ばれていない。両足をふんばって構える釣り人を遠景としてみつめる作者。どこかに「釣りは趣味の中の窮極である」というようなことが書かれていたのを見たことがあるが、魚との駆け引きに賭け、ひたすら自分を信じて、長時間、ひとところに居続ける根性に作者はしばし、言葉もなくして見つめていたのであろう。
ポイントを摑まえた、多くを語らない句はそれぞれ読者の思い出を甦らせる。このようなサービス精神のある、プロとしての俳句に私は心を奪われた次第である。