2015年9月30日水曜日

【俳句新空間No.2】北川美美の句 / 陽美保子


片蔭の突然切れているところ    北川美美
暑い盛りであれば、片蔭を選んで歩くことは自然の行為。今まで意識することもなく片蔭を歩いてきたが、片蔭が突然切れて、はっと目覚めたように道を見つめ直す。そして、これからどこを歩こうかと途方に暮れる。「突然切れているところ」で終わっているのが心憎い。

2015年9月28日月曜日

【俳句新空間No.2】 仲寒蟬作品評ーひとところをー / 津髙里永子



 作者、仲寒蟬氏は多作という修業を日々続けておられる荒武者。その手応えと手ざわり、切れ味、そして包容力のある俳句にいつも圧倒されている。忙しさにかまけて弁解ばかり言っている私には眩い存在である。

木漏日のそのまま春の水の底 仲寒蟬
午前中の診察が一段落した作者は、街路樹のある歩道を気分転換に歩いてみた。雨も上がって遅い昼下り、午後三時ごろであろう、その光に、ああ、日差しが柔らかくなったなあ、ずいぶんと日が伸びたねと呟きながら、ひとところ、舗装が崩れて水溜りになったところに立ちどまる。車や人の往来の激しい道なのに、木の葉が沈んでいるぐらいのあまり濁っていない水溜り、その小さい水溜りをちょっと覗いただけの作者なのに、掲句のような「春の水」の本意を捉えたような一句に仕立て上げる。その凄腕は、「春の水」で終わらせず「春の水の底」ときちっと気持ちを水底まで沈めたあたりにある。「水温む」の感覚をまずは思わせ、水底の浅さ、それに映っているものの揺らぎが春そのものであることを読者が感じとれるようにする。そして、なお、「底」ということばによって、「春愁」の気分まで漂わせる重層的な句なのである。

   橋わたるたび夏めいてゆく心地  寒蟬 
夏を大づかみして表わすために、掲句一句目のように橋を介在させるというのは、じつに聡明である。太陽の強い光、その白い反射をより身近に体感させれば、町の中の橋で充分であろうが、作者は「橋わたるたび」となんども橋をわたったことを強調、そのたびにますます夏の雰囲気にひたれる境地へと深まっていったことを歓喜しておられるようであるから、足元に流れる川の勢いに身がすくんでしまうような山間の細い橋をわたっていっての一句と考えるべきであろう。スリル感を楽しめるのは、やはり、夏の季節の間であろう。場所を限定させる言葉、たとえば「山中の」とか「峡谷の」とか、はたまた「海近き」などの条件を言わずとも、情景が目に浮かび、作者の詩ごころが伝わってくる句こそ、まさしく俳句精神に則ったものといえるのではないか。

   釣り人の夏を釣らむとしてゐたり  寒蟬
ぴんぴん跳ねながら目の前に降参した姿を見せる魚を想像しながら釣糸を投げる釣り人。小さい魚など要らぬと、完全に彼の頭の中の映像は大きな魚しか結ばれていない。両足をふんばって構える釣り人を遠景としてみつめる作者。どこかに「釣りは趣味の中の窮極である」というようなことが書かれていたのを見たことがあるが、魚との駆け引きに賭け、ひたすら自分を信じて、長時間、ひとところに居続ける根性に作者はしばし、言葉もなくして見つめていたのであろう。 
ポイントを摑まえた、多くを語らない句はそれぞれ読者の思い出を甦らせる。このようなサービス精神のある、プロとしての俳句に私は心を奪われた次第である。

2015年9月25日金曜日

【俳句新空間No.2】 津高里永子の句 11 / 仲寒蟬



水音の絶え間なき駅避暑期果つ  津高里永子
「夏果つ」でも「休暇果つ」でもなく「避暑期果つ」である。これによって作者がいま避暑地にいると分かる。避暑の客が去った後の避暑地の駅、そこに水音が絶えない。もう水の秋が来ているのだ。夏の終りや夜の秋と水音との取合せは珍しくないが「避暑期果つ」とずらしたのが効いた。フェードアウトしていくような終わり方は最初の句と呼応して読者を大景へと連れてゆく。
 全体を通して読んで爽快感を覚える。引きずる感じがなくテンポがいいのだ。力まずに季節の移り変わり、生活の流れを淡々と、しかし作者の存在感をしっかりと刻む形で詠まれている。それが出来るにはかなりの力量が必要なのだが。

2015年9月24日木曜日

【俳句新空間No.2】 北川美美の句 /もてきまり


麦畑刈られ巨人が来る気配   北川美美
旅先で麦畑の刈られた風景にでくわした。広大な自然の中に麦藁を直径1.5mぐらいの幾何学的な円筒形に圧縮したストローベイルなるものが点々と置いて在り、初めて見る者には不思議な光景だった。確かに「巨人が来る気配」だった。それも旅人を喰う一つ目のキュクロプス。日本ばなれした麦刈り後の風景を彷彿とさせる「巨人が来る気配」。他に〈夏草を踏みしめている乗用車〉等。 

2015年9月23日水曜日

【俳句新空間No.2】 津高里永子の句 10 / 仲寒蟬



羽抜鶏搔きし砂場の砂黒し 津高里永子
連作では終わり方もまた大事。このような光景は羽抜鶏の句としては珍しいのではないか。羽抜鶏そのものの風情や哀れさに注目するのが常道であろうが、鶏が引っ掻いた砂場の砂が黒いという発見だけを詠んだ。しかし肩透かしを食ってもあまり嫌な気分ではない。それは目の前の景がきちんと書かれているから、作者が、従って読者もそこにいるという臨場感が味わえるから、であろう。

2015年9月18日金曜日

【俳句新空間No.2】 作品鑑賞/五島高資



  星々を招き入れたる植田かな 仲寒蟬
農村の夜景が目の前に広がる。ちょうと田植えしたばかりだから田圃には水面が多く見える。そこに星影が映えるという風情には、単なる実景を超えた天人合一の詩境を感じる。「招き入れたる」所以である。

  万緑や長き鉄橋わたりける 仲寒蟬
渓谷にかかる一本の鉄橋と山々の万緑がとても印象的な風景である。しかし、それだけではなく、「わたりける」という措辞から、一粒万倍に展開する豊かな詩情が感じられる。

  空へ出る仕掛としての青岬 仲寒蟬
たしかに岬の果てへ至ればその先は海原が広がるのみである。しかし、「海」と「天」が同じ「あま」と考えるならば、たしかに岬は「御崎」として神々の住む高天原へと繋がっているような気がする。青葉が茂る頃ならなおさらである。
 ほかの感銘句を以下に列挙する。

  波打つて大暑の腹の笑ひをり 中西夕紀
  泉湧く木の葉一枚踊らせて 福田葉子
  日の沖へ向かう柩の中に瀧 高橋修宏

2015年9月16日水曜日

【俳句新空間No.2】 夏木久の句 /もてきまり


TOKYOや海市となりて流れ寄り 夏木久 
「見渡せば花ももみぢもなかりけり 浦のとまやの秋のゆふぐれ」という藤原定家の歌が前詞として置かれている。今、繁栄の絶頂期にある東京。それを毀れやすいブロックのようなローマ字で「TOKYO」と表記。前詞の「見渡せば花ももみぢもなかりけり」に対応する部分の「TOKYO」である。榮枯盛衰は世のならいと言うが如く、そこはかとなく花も紅葉もない廃墟の東京のイメージが浮き上がる。原因は浜岡原発かどうかは、誰もわからない。すでに「海市となりて流れ」寄る東京。「TOKYOや」といちようは切れているものの、私には「TOKYO」と「海市」がオーバラップして見えた。他の好きな句に〈旅人や袖にサハラの月を入れ〉。

2015年9月14日月曜日

【俳句新空間No.2】 筑紫磐井の句 /もてきまり


炎天のエミュウは我を見くびれる 筑紫磐井
エミュウはダチョウに似て大きく、翼を失くした鳥。─ここは新宿百人町。夜8時頃、男はたまに行くバー「エミュウ」に入る。そこには炎天にいるような服装のマダム・エミュウが居て、いつものグラスを出す。黒メガネを外した顔でぽつりぽつりと会話。「そう、あんたはまだ翼を持っているのね」とエミュウ。男は密かに見くびられていると意識する。(配役/マダム・エミュウ=美輪明宏、男=筑紫磐井)Film『黒エミュウ』予告編より抜粋─この続きも書きたかったが字数制限迫り、清く諦める。次は〈賢きはをんな をとこは茸である〉納得。これは古来より普遍原理でいたしかたない。〈蒼古たる歴史の上に敗戦忌〉「蒼古たる歴史の上に」が見セ消チでわざと消されている表記。「敗戦忌」は造語。もはや戦前かも。

2015年9月11日金曜日

【俳句新空間No.2】作品詠鑑賞(堀田季何の句) / 夏木 久



鮨握るうちにバッハの拍となる 堀田季何
バッハだ!この魔術から音も詩も脱出出来るか?心地良い和音メロディと説明しやすい意味の言葉、二足歩行で鍛えたこの大脳は、それで満足に漂えるのか、現を。

2015年9月10日木曜日

【俳句新空間No.2】作品詠鑑賞(網野月をの句) / 夏木 久



あの世にて師に見ゆまで熱帯夜  網野月を

今は昔、師がいた頃が懐かしい。詩に師は要らぬ、がモットーだったが、知人に言われ、とある師の誌に参加した。袂を分ったが、この先そのことは熱帯夜を漂うようなものだろうか、俳句の世界に足を入れてる限り?

2015年9月9日水曜日

【俳句新空間No.2】作品詠鑑賞(大本義幸の句) / 夏木 久



 絵は抽象を、音楽は無調を、意味はリアルを超え、新たな人間存在の軽いリアルを模索する。なのに俳句はまだ写生?《ひらかなででもかけば(これは失礼!)。》
真摯に言葉に向かう、この姿勢を持って俳句に向かう(すでに近世にはあったのだが)、進歩であっても後退であっても、今はそれを考える、一番の愉しみとして。

死体を隠すによい河口の町だね 大本義幸
これは銀河の河口に違いない。口臭のきつい団塊世代の先輩が、インド旅行の思い出を―ガンジスに浮かぶ屍を見て、人生が変わった―と言っていた。そんな腐臭もこれには感じない。父母の屍も銀河まで来れば、生の香りを思い出すように謎めいて漂うようだ、曲解でも。


2015年9月8日火曜日

【俳句新空間No.2】仲寒蝉の句 / 陽美保子


木漏日のそのまま春の水の底 仲寒蝉
そのままと言えばそのままの句ではあるが、不思議な魅力がある。それは動詞を略した俳句そのものの魅力。この句に「届く」などの動詞があれば凡句となるであろう。即物的な叙述の中に、木々の葉がまだ茂っていない明るい早春の林中と、そこに流れる浅い川のきらめきが髣髴とする。

2015年9月7日月曜日

【俳句新空間No.2】神谷波の句 / 陽美保子


汗の身におそれおほくて輪島塗 神谷波
汗を拭きつつ、少し改まった席に着く。汁物の器は輪島塗。手にとれば高級な漆器にべとっと指紋が付いてしまいそうでとても手に取れない。まずはハンカチで汗を拭い、呼吸を整える。「おそれおほくて」の庶民感覚に読者はにやりとさせられる。調べ共々格調の高い〈拭ひてはもどる漆の春埃 長谷川櫂〉の漆の句とは違って、これもまた楽しい。

2015年9月4日金曜日

【俳句新空間No.2】 秦夕美作品評/真矢ひろみ



錦糸町涼しき音を放ちけり   秦夕美

 錦糸町の地名の由来は、北口にあった「錦糸堀」とも「琴糸」の工房があったなどと言われるが詳細は不明。現在、北口周辺は現代的な都市空間となっているが、南口側は古くからの歓楽街が色濃く残り、今なお猥雑な雰囲気を醸し出す。実は筆者の通学路でもあった所で、数十年前は飲み屋、ポルノ映画館、風俗店、路地に入れば安アパートなどが並び立つ、東部下町の典型的な街であり、南口方面には今なお名残りがある。

 句意は「あの『如何わしく、禍々し』かった錦糸町周辺の雰囲気もすっかり変わり、『気持ちよく涼しげ』な快音が聞こえる街になった」と、「猿蓑」凡兆の「市中は物のにほひや夏の月」と趣きを同じく、猥雑に清涼を見取る句と解されるだろうし、一方、地名という一種の呪縛から離れて「錦の糸」という表意、また「錦糸町(kinshichio)」という「i」音重複の表音からの感慨句とも取れる。「錦糸町」という言葉そのものが音となるのである。丈高く、声調が張り、作者の凛とした姿を垣間見るよう。無論、読みはどれか一つに限るわけでなく、私たちの脳はこれらを重層的に受け止めることが可能である。これが詩歌を楽しむために、神が人に与えた機能なのかもしれない。

 さらに分け入ろうとすれば、「涼しい」とした作者の心象、音を「放つ」主体と音の内容に進む。ここから先は読む側の想像に託されることとなり、読み手の「楽しみ方」にも大きく依存する。「涼しい」という季語、主体の意志を感じさせる「放つ」という言葉、いわば外枠線だけを作者はぽんと提供しているのだが、読み手にとっては、この線に沿って色を塗らなければ始まらない。

 筆者の読みは次のとおり。ある者(または作者)が南口側の雑踏の中に蹲り、大友克洋『AKIRA』のように、両手で小動物を包み隠すごとく何かを覆っていたが、その掌を少しづつ開け始める。すると、摩訶不思議な音が、パチンコ店の流行歌や風俗店の呼込む声、右翼の街頭宣伝などにかき消されながらも、円形に広がっていく。その広がりとは、観察者が音を認識したのではなく、何かに高揚する子供たち、はっとしたような表情の老夫婦、音の有りかを探ろうと周辺を見渡すキャバクラ嬢などの姿を通して、視覚的に捉えられる。神経を研ぎ澄まして微かに聞こえる音は、阿弥陀如来来迎の際に、雲中供養音薩が奏でるとされる音楽に似て、華やかとしながらも、現代音楽に慣れ親しむ者からすれば、抑揚のない単純なもの。そして、この音を放った者こそ、日常に非日常を持ち込み、空虚な心に魂をもたらす者、即ち都市に棲む「マレビト」であった。

 ・・・といった具合。『AKIRA読み』とでも言うべきか。派手なストーリー仕立ては筆者の性分であり、ご容赦いただきたい。俳人の素質にそぐわぬものかも知れぬが、これとて明白な論拠はない。


2015年9月3日木曜日

【俳句新空間No.2】  津高里永子の句 9 / 仲寒蟬


友引の日か空蟬の脚欠けて 津高里永子
全体の題となった句である。「て」で終わっているせいもあって決して重くれていない。空蝉の脚の欠けたのを見て何故かそう言えば今日は友引だと思い出す。縁起でもないと思わなくもないけれども気分としては極めて軽い。

2015年9月2日水曜日

【俳句新空間No.2】  津高里永子の句 8 / 仲寒蟬


勉強と仕事と眼鏡して昼寝    津高里永子

 これもどこか力の抜けたような所のある句だ。時はいま夏休み。一日のスケジュールを羅列したような軽さ。ただし勉強と仕事の両立が大変そう。だから眼鏡をしたまま昼寝する羽目になる。

2015年9月1日火曜日

【俳句新空間No.2】  神山姫余作品評  / 羽村美和子



 
タイトルの「所在」には、あるようなないような自分の「所在」、あるいは居場所を求めているような感覚がある。(レ)を巧く受け取れないでいるが、返り点のレ、チェックマークのレなどが当てはまるのかも知れない。思春期の飢えや喪失感の漂う句群である。

  海面の白い航跡や裏切りの早さ 神山姫余
「航跡」を敢えて「海面の白い」と強調し、読み手の脳裏から消えないうちに、「裏切りの早さ」とぶつける。「裏切り」は白い波が見る見る消えていくことであり、人の「裏切り」でもある。景としては当たり前なのに、意外な表現をぶつけた面白さがある。

DNA滑り落ちて僕の夏 姫余
中学生か高校生の「僕」。エネルギッシュな季節であるが故の挫折感も「夏」にはある。全速力である分、躓けば一気に沈んでいく。自己否定さえ生じる。それを「DNA滑り落ちて」と表現した。思春期の若者にとっては、決してオーバーな表現ではない。俳句は一人称とは限らない。作者は目の前の「僕」にかつての自分を重ね、その喪失感に痛いほど共感している。

ざらざらと地球に還る我が髑髏 姫余
全く関係がないのに、尹東柱(ユンドンジュ)の詩を思い出した。独立運動の嫌疑をかけられ、日本で獄死した詩人だ。自分の死を予感したような詩の一節に「…行こう行こう/追われるもののように行こう/白骨に気づかれないように/美しいもう一つの故郷に行こう」というのがある。体を離れた、精神の昇華された世界を願った詩だ。背景にあるものは全く違うのに、掲句にもそれに似たものを感じる。「我が」精神は昇華され宇宙を漂う。それに対して「我が髑髏」は「地球に還る」しかない。だから「ざらざらと」の措辞なのだろう。作者のピュアな精神の願望を感じる。地球を俯瞰している感覚も良い。

告白の今日を知らずや蝶渡る 姫余
アサギマダラであろう。揚羽より少し小さく、黒に半透明の水色と褐色の模様がある美しい蝶だ。初秋に南西諸島の方へ「渡る」とか。幼虫の時毒性の高い草を食べ、自ら体内に毒を取り込むらしい。当然成虫も体内に毒を持つ。「告白」は掲句の場合、相手からの「告白」。内容は、恋なのか懺悔なのかわからないが、いずれにせよ本人は、傷つき狂おしいほどの思いを抱き、苦しさ故の決別を決意したというところであろうか。自虐性や自己否定の象徴として、毒を持つ美しいアサギマダラを配し、「蝶渡る」とした妙。青春性漂う句である。