2016年1月1日金曜日

【曾根毅『花修』を読む 24 】 続〈真の「写生」〉 /  五島高資



 曾根毅氏の『花修』評については、すでに「週刊俳句」において〈真の「写生」〉と題して書かせて頂いた。そこでは、真の「写生」とは、あくまで日常的な体験に裏打ちされながらも、単なる「写実」が陥りがちな些末描写や観念的な寄物陳思とは異なる物我一如という深い詩境において生命や宇宙の神秘に根ざしたものでなくてはならないと指摘した。そして、そうした真の「写生」を感得するものとして以下の句を取り上げた。


  春の水まだ息を止めておりにけり
  桃の花までの逆立ち歩きかな
  さくら狩り口の中まで暗くなり
  初夏の海に身体を還しけり
  時計屋に空蟬の留守つづきおり


 今回、これらの句については割愛するが、この度、再度、『花修』を再び読み直す機会を得て、前回触れることができなかった秀句について感想を申し述べたい。


  爆心地アイスクリーム点点と 


 長崎での被爆二世である私としては、どうしても浦上の爆心地公園を思い出す。もちろん、掲句では、溶けて地に落ちたアイスクリームの痕跡を詠んだものだと思うが、それはまた被爆者の焼け爛れて熔け落ちた身体の一部のみならず無念の思いも重なる。アイスクリームが自由に食べられる現代の平和と原爆の惨劇とが対照的に彷彿とされて、そこに単なる写実を超えた詩境が感じられる。


  草いきれ鍵をなくした少年に


 かつて私も鬼怒川の河川敷で車と自宅の鍵をなくして難儀したことがある。一時間くらい捜索してようやく見つかったから良かったものの、探しているときの不安は尋常ではなかったのを思い出した。もっとも、掲句は、そうした事実性のみならず、少年が大人社会へと参入するための「鍵」が想起される。しかし、殺伐とした大人の社会への漠然とした危惧が「草いきれ」に暗示されている様な気もする。


  水吸うて水の上なる桜かな


 樹木において根から吸収した水分を上部へ運ぶのは維管束の導管と言われているが、そのメカニズムの詳細はよく分かっていない。満月の引力が関係するものもあるようだが、いずれにしてもその不思議の上に桜が咲いていると思えば、改めて天然造化の妙を思い知らされる。掲句は、そうした不思議を湛然と捉える作者の感性の鋭さが表れている。


  竹の秋地中に鏡眠りおり


 周知のように「竹の秋」とは、地中の筍に養分を与えるために竹の葉が黄ばむことに由来する。植物にも世代間の思いやりがあるような気がして不思議である。「子は親の鏡」というが、やがて筍もまた成長して親竹となれば、同じように次の筍を育てるのだろう。もちろん、掲句における鏡はそれそのものとして地中に埋蔵されていても良い。いずれにしてもそれは真澄鏡として「情の誠」を照らし出すのである。


  醒めてすぐ葦の長さを確かめる


 パスカルの「人間は考える葦である」を思い出すが、そうすると睡眠中、つまり思考停止している時、人間は単なる葦そのものということになってしまう。掲句では、眠りから覚めて自我を取り戻す刹那がうまく捉えられている。もっとも、このことは睡眠後の覚醒時だけではない。新しい自己成長への気づきは至る所に存在するはずである。それを確かめる作者の透徹した炯眼が感じられる。


  我と鉄反れる角度を異にして


 そもそも人間の血球の主成分はヘモグロビンであり、生命にとって鉄がとても重要な働きをしている。一方、現代におけるインフラや工業製品においても鉄はその根幹を支える素材として不可欠のものである。つまり、生体も社会も鉄によって支えられていると言っても過言ではない。もっとも、それらにおける鉄は、その分子構造において異なっていることは言うまでもない。鉄化合物や金属鉄との違いは、分子レベルで見ると、その原子価角の差異による。もちろん、そうした「物の微」はさてしも「我」と「鉄」の共鳴に感得される「情の誠」も相俟って深い詩精神が立ち現れている。

                           
【執筆者紹介】

  • 五島高資(ごとう・たかとし)


 【曾根毅『花修』を読む 23 】 永久らしさ / 佐藤文香



  いつまでも牛乳瓶や秋の風

 そこに白い液体が入っているあいだは、液体の白を透かすそれも含めて牛乳と呼ばれていたのだが、私が液体の方を飲み終えると、それは牛乳全体のうちの一部ではなく牛乳瓶として独立し、返却してリサイクルなどされない限り、つまりはここにある限り、いつまでも牛乳瓶と呼ばれ牛乳瓶であり続ける。

 秋風がゆくとき、瓶には口があるので、それに触れてゆく。すでに疲労したガラスに少し入り込みがちな牛乳の動物的な匂いがあるとすれば、風はそれを巻き込んでゆくだろう。


  水吸うて水の上なる桜かな

 桜の花を単に桜と呼ぶとき、まだ枝のなかの維管束が花弁に対して機能している状態を思う。花びらや花といわれるとーーそれはある種俳句的な表現というだけであるかもしれないがーーたとえば夜空の星に対する星型のモニュメントのような、花という印象にまみれたものように感じるから、この句で「花」でなく「桜」なのは、まだ今から水に生かされたり殺されたりする可能性のあるものを描いた、ということではあるまいか。

 古木の枝が湖の水面を這うように伸び、花の一部が水に浸かり、しかし水の上に咲き続ける花、花はだから桜。


  凍蝶の眠りのなかの硬さかな


 冬まで生きている蝶の、眠りというのだから死ではない、生きてどこかに留まり凍える様子である。その眠りのなかに硬さがあるという。眠り全体が硬いのではなく、どこかに硬さがある。
 眠りとは、眠っている蝶の心の置きどころだとして、そもそも眠る蝶に心があるのか、という問いは立てないことにして、ならば蝶は、夢を見る。

 思うに凍蝶が見る夢とは、凍蝶の過去に由来するものだ。この蝶は、卵から生まれ青虫になり、脱皮を繰り返し蛹になり、羽化して蝶のからだつきを得、夏を経て仲間は死に、冬を迎えた。その一生で出会った硬さの思い出、要は橘の葉であるとか、アスファルトの道であるとかが、蝶の夢の内の一部を占める。それが「眠りのなかの硬さ」であると思う。

 しかしそんな具体的な何かではなくただ「眠りのなかの硬さ」なのだ、とも思う。

  初鏡一本の松深くあり
  神官の手で朝顔を咲かせけり
  能面は落葉にまみれ易きかな


 曾根毅の作品は水墨画のようだ。永久に存在し続けるのが自然であるかのような顔をしている。よって、過去も未来も変わらないだろう素材が選ばれたときに、生きる、残るものが生まれる。


【執筆者紹介】

  • 佐藤文香(さとう・あやか)

1985年兵庫県生まれ。池田澄子に師事。「里」「鏡」「クプラス」に参加。句集『海藻標本』『君に目があり見開かれ』、詩集『新しい音楽をおしえて』、共著『新撰21』。3月に『俳句を遊べ!』(小学館)刊行予定。

2015年12月25日金曜日

【曾根毅『花修』を読む 22 】 墓のある景色  / 岡田一実


曾根氏との出会いは関西の現代俳句協会青年部の勉強会だった。芝不器男俳句新人賞を受賞された直後の勉強会で、勉強会前から会場は祝福モードが漂っていた。私はどんな方なのだろうと興味津々だった。勉強会が終わった二次会から三次会への移動のときにさりげなさを装って横を陣取って話しかけたところ、どのような話題にもにこにこと応じてくださって、気遣いのある温厚な人柄が印象的だった。

『花修』を繙くとまず「墓」を題材にした句に惹かれた。

墓標より乾きはじめて夜の秋 
夕焼けて輝く墓地を子等と見る 
秋深し納まる墓を異にして 
霾るや墓の頭を見尽して 
墓場にも根の張る頃や竹の秋

墓を詠んで墓の暗さがない。そこにあるのは墓への親しみであり安らぎである。濡れた墓が乾き始める造形としての美しさ、様々な形の墓が並び輝く墓地を子等と眺め遣る優しい切なさ、死ぬときは違う墓に入るというしみじみとした諦観、黄砂に煙る最中の墓への執着、墓場とその他を分け隔てることなく根を張る竹の生の営み。どの句も実に魅力的である。
『花修』には「死」そのものを詠んだ句も多いがその世界観は重なるところもありつつより多様である。

くちびるを花びらとする溺死かな
 
快楽以後紙のコップと死が残り 
夕ぐれの死人の口を濡らしけり 
我が死後も掛かりしままの冬帽子 
死に真似の上手な柱時計かな 
桜貝いつものように死んでおり 
雨が死に触れて八十八夜かな 
金魚玉死んだものから捨てられて 
萍や死者の耳から遠ざかり 
しばらくは死人でありし箒草 
猫の死が黄色点滅信号へ 

観念としての死への憧憬、現実の死へのドライな対応、弔いに際しての叙情、死の美しさ、死の容赦なさ、そういったものが織り交ざり死の多面性を捉えようとしている。
死にまつわることを描くことで生もまた見えてくる。観念的思考の饒舌さは作者によって具現化され沈黙が訪れる。それによって読者は根源的な思索へと導かれる。

闇に鳩鳴けば静かに火を焚かん

『花修』の末尾を飾る句である。氏は今後も先の見えない暗闇の中で感覚を鋭敏に保ちながら本質や根源を照らすべくひとつひとつ火を焚いてゆくだろう。
今後が非常に楽しみである。


【執筆者紹介】


  • 岡田一実(おかだ・かずみ)

1976年生まれ。「100年俳句計画」賛同、「らん」同人、「小熊座」会員。現代俳句協会会員。句集に『小鳥』マルコボ.コム『境界―border―』マルコボ.コム。共著に「関西俳句なう」本阿弥書店

【曾根毅『花修』を読む 21 】 たどたどしく話すこと / 堀下翔



曾根毅の句について書こうとしているのだが、この人の句にいつもまとわりついている奇妙な言葉の手触りを、はたして正確に言い得ることができるだろうかと、考えだすと、とりとめがない。

とりそぎ、

薄明とセシウムを負い露草よ    曾根毅『花修』深夜叢書社/2015

の句を頭にうかべ、これはやはり曾根毅の『花修』に通底する言葉づかいで書かれているよなあ、と思う。そんなところから始めてみる。漢語・外来語・和語という質感の異なった三つの名詞がどうにかバランスを取ろうとしているこの句を、まずひといきに読みくだしてみると、そこに、微妙に言葉の角が落とされていないような、表現が粗暴であるような印象を覚える。

一句の真ン中に置かれる「セシウム」という単語が、生硬で、忽然としていて、「薄明」「露草」という他の名詞と並べたてられると、異物めいた感じを読者に与えるのが、まず一つにはある。「セシウム」というと、時事の言葉で、詩語としてはもとより、われわれの生活の上にあってさえ、いまださほど多くの人の手を経ていないので、どうしても他の、われわれが普段触り慣れた言葉とは、うまく響かない。

だけれども、この句がうち隠している言葉のこなれなさは、「セシウム」という名詞の性質にのみ立脚しているのではない。こんどは句の骨格、つまり、名詞どうしがどのように結びつき合っているのかという点を見てみる。

問題は「負い」と「よ」の対応にある。

「よ」というと、言葉を遠くに投げて、それをもって言葉の響きとするような間投助詞で、上五・中七・下五のいずこに置かれるかによって働きは異なろうが、下五にあっては、まず一つには、ずらずらと連なる十七音全体に接続し、一句に流れる一筋の勢いを引き受け、大きな詠嘆を生むもの、もう一つには、中七まででいったん弱い切れが入り、一呼吸置いたあと、下五の四音ぶんが「よ」に掛かる、すなわち、「よ」の圧力を短い単語が独占し、さながら下五の言葉のイメージが異様に輝き、それが感動の中心として声高に語られているような効果を生むものとがある。

曾根の掲句は中七の末尾が「負い」と、連用形になっている。句意としては、「薄明」と「セシウム」とを「負」っているのは、ひとまずは「露草」なのだが、韻文の中で連用形を用いると、意味の上では結びついていても、表現上は、すこし切れた感じが出るので、先の分類でいえば、後者にあたる。この〈下五の「や」〉型では、下五に大きな負荷がかかるほか、中七から下五にかけて、前の言葉から次の言葉へうつるときに、時間的なマが生まれて、そのマに静謐さが生じたりもする。この句の場合も、中七ののちに一瞬の無言があるので、下五の名詞の現われによってその緊張が解かれる安堵に、「露草」という言葉のかそけさもひとしおとなる。

だが、この句の言葉どうしの結びつきは、上記の効果を最大に引き出しては、実はいない。〈薄明とセシウムを負い露草よ〉は、何度くちずさんでも、何度くちずさんでも、どうにも言葉の坐りが悪いような、述べ方の反射神経が鈍いような気がしてならない。その理由は、「負い」に「て」がないことではなかろうか。「て」というと、接続助詞であり、付属語であり、だからもちろん自立語である「負う」や「露草」とは明確に区別され、そうであるがために、もしここに「て」が接続されていたとしたら、「負い」と「露草よ」とのはざまにある時間的なマは、はっきりとしたシルエットを持っていただろう。だが、ここに「て」はない。「負い」の「い」という活用語尾によって切れている。動詞の連用形はいきもののように次の動詞を待つ。明確な切れとなりきれぬまま、なまなまと、「負い」は「露草よ」に隣る。結果として、中七から下五にかけて、言葉どうしはきびきびとした脈をうしない、言い難い読後感を湛えている。

曾根の句は、こんなふうに、きびきびとしていない。日本語が少しへたな感じがする。

くちびるを花びらとする溺死かな

の「―をーとする」に見られる、説明っぽさ。

水吸うて水の上なる桜かな

の「―てーなる」に見られる、言葉の流れの向きのばらつき。

その、一句ずつが語られるときのたどたどしさが、曾根の句を決定的に支えているものだ。情感と表現は表裏一体である。うれしい歌はうれしく歌い、かなしい歌はかなしく歌ってこそなのである。たどたどしい曾根の句を読むと、ああ、現代ってこんな感じだったな、と思う。奇妙であいまいな現実の生きごこちをおぼろげに考えながら、自分に言えることと言えないことの選別もうまくできないままに話し出してしまう、いまがそんな時代であったことに『花修』は思い至らせてくれるし、何十年かしてもう一回読みなおしたときにもやっぱり、ああ、そうだったなあ、と思い出すことができるような気がするのである。



【執筆者紹介】

  • 堀下翔 (ほりした・かける )

1995年北海道生まれ。「里」「群青」同人。筑波大学に在学中。

2015年12月18日金曜日

【曾根毅『花修』を読む 20 】 きれいにおそろしい / 堀田季何



曾根毅の第一句集『花修』を読み、原発事故や戦争といった現代社会の負の側面を詠む仲間がまだいることに強く勇気づけられた。

そういった素材の面でも曾根毅はその師である鈴木六林男を継いでいると云える。六林男の句のような生々しさ、不気味さ、迫力にやや欠ける分、もう少し言葉寄り、観念寄りである毅の句はかわりに「きれいさび的な怖ろしさ」という魅力を獲得している。毅の句はひたすらに美しく、エロやグロといった類とは無縁である。しかしながら、言葉と観念の操作が真骨頂に達した時、毅の句は禍々しくかがやき、六林男の句にも太刀打ちできる域に達する。

そういう意味で、集中、特に言葉が重層的に作用する句に惹かれた。

鶴二百三百五百戦争へ

数字の増加は、「ゆらぎ見ゆ百の椿が三百に」(高濱虚子)、「牡丹百二百三百門一つ」(阿波野青畝)、「筍や雨粒ひとつふたつ百」(藤田湘子)といった先行句があるので、用法が確立されたレトリックの一つとして使っていると思われる。実際、この句で注目すべきは数字の増加でなく「鶴」の多義性である。

桃の花までの逆立ち歩きかな

「桃の花」からユートピア的な桃花源(桃源郷)や西王母の桃園を連想した。いずれも不老不死かつ平和の象徴である。そこまでの逆立ち歩き、一向に到達しそうもない、いや、到達できずに死ぬであろう。それでも逆立ち歩きを続けて理想郷を目指すのだ。

玉虫や思想のふちを這いまわり

思想という形而上のものに、玉虫が這いまわるふちという形而下の属性を持たせ、思想そのものを形而下に引きずりおろしているのか、それとも、玉虫を形而上のものに昇格させているのか。「玉虫」「這いまわり」の象徴性が効いている。

影と鴉一つになりて遊びおり

「寒鴉己が影の上におりたちぬ」(芝不器男)の本歌取りだと思われる。降り立ったのち、鴉が地上を歩き回ったり跳ねたりしながら、その鴉につかず離れずの影と一体化しているように遊ぶ、という解釈が常識的であろう。しかし、個人的には、己が影の上におりたった鴉は、そのまま足から影に吸い込まれ、やがて一体化し、遊びはじめ……といった解釈の方に惹かれる。いずれにせよ、不器男句と違って、毅句では「鴉」や「影」が象徴性を帯びている。

佛より殺意の消えし木の芽風

「佛より/殺意の消えし木の芽風」という解釈も可能だが、「佛より殺意の消えし/木の芽風」という解釈で読んだ。佛(仏)より殺意が消えた、ということは佛に殺意があったということ。衆生を救うべき佛に殺意があるという発想には一読驚くが、佛の存在理由を改めて考えてみるとこの発想は意外にも腑に落ちる。「木の芽風」も意味的にリンクしていて効いている。

手に残る二十世紀の冷たさよ

梨の銘柄と前世紀の時代を掛けている、洒落た言葉遊びの句。もちろん、内容は深刻であり、「手に残る」「冷たさ」が少し前に終わった二十世紀に少しでも生きていた実感を総評している。二十二世紀に別の俳人が二十一世紀を形容した場合、同じような実感になるのだろうか。

ロゴスから零れ落ちたる柿の種

形而下の柿の種は、言葉(ロゴス)を発した口から零れ落ちたのであろう。形而上の柿の種は、その言葉(ロゴス)からそのまま零れ落ちたのであろう。柿の種とはどういった性質のものであろうかと考えながら、聖書の「創世記」及び「ヨハネによる福音書」の第1章を読んでみると慄然とする。

春すでに百済観音垂れさがり

丑丸敬史が「花は笑う」という文章で提示した解釈にほぼ賛同する。加えて、「春すでに/百済観音垂れさがり」と読むのが普通であるが、「春/すでに百済観音垂れさがり」と読むと更に不気味である。

鶏頭を突き抜けてくる電波たち

われわれの肉体を日々刻々と突き抜けていく億兆の携帯端末メッセージ等の電波を考えると、なかなかおぞましい。肉体のあらゆる部分を痴話喧嘩の会話や殺人予告のメールが貫通していっているのだ。自分で通話したりする場合など、電波は頭を直撃している。それだけでなく、(ゲーム機器、テレビ、パソコンを含む)電波を発する機器の普及、蔓延により、多くの国民が思考力を奪われている、という事実も想起される。掲句の「鶏頭」は花の名前でありながら、鶏並みの脳を持った愚民の頭でもあり、鶏頭の花のような血の色に染まった国や組織の頭領(ヘッド)でもあろう。

祈りとは折れるに任せたる葦か

「祈」と「折」という字の類似に着目した句。右側の旁が「斧旁」であるところも効果的。「をりとりてはらりとおもきすすきかな」(飯田蛇笏)といった句やパスカルが『パンセ』で述べた「人間は考える葦である」(正確な訳は「人間は一茎の葦にすぎず、自然界で最も弱きものでありながら、それは考える葦である」といったものであるらしい)という箴言、聖書「イザヤ書」第42章に出てくる「傷ついた葦を折ることなく」等を下敷きとして句を読むと味わい深い。信仰や救済についても考えさせられる。


【執筆者紹介】

  • 堀田季何(ほった・きか)

「澤」「短歌」各同人。歌集『惑亂』