俳句を書く、ということに誠実であるために、我々は限りない自省と、そこに書くことができなかったことへの志向性を失ってはならない。したがって「作家性」と呼べるようなものがあるとすれば、それは作家が「何を書いたか」ではなく「何を書くことができなかったか」ということに焦点があてられるべきだろう。曾根毅句集『花修』は、この作者が言葉を通して世界にしるしをつけつつ、そのしるしのぼやけた外延を浮かび上がらせることで、自分自身の主体性に応えようと努力した時間の痕跡である。
それゆえに、この句集は一読、読みにくい。この「読みにくさ」は、書かれた句が掴みそこねた欠落の堆積であり、作者が見ようと目を凝らした先にあるぼんやりとした真実である。そう、世界はぼんやりしている。あたかも極度に近視の者が眼鏡をはずして世界を見るように。言うまでもなく、それは俳句の「書き難さ」に起因しており、言わば俳句が俳句であろうとすることの証である。
存在の時を余さず鶴帰る
くちびるを花びらとする溺死かな
何処までもつづく暗黒水中花
玉虫や思想のふちを這いまわり
暴力の直後の柿を喰いけり
暗闇に差し掛かりたる金魚売
句集の前半の「花」「光」の章に散見されるこれらの句の「存在」「溺死」「暗黒」「思想」「暴力」「暗闇」という用語は、世界の詳細を描き出すには大ぶりで、一般的な俳句が要請してくる具象性を備えていない。逆に言えばこれらの言葉は黒々とした意味の中核を持っており、外部に近づくにしたがってその中心が発する意味のひかりが届かない抽象的な外延が広がっている。「写生」や「二物衝撃」といった、言葉の象徴性や関係性から句に余白を生み出す方法ではなく、言葉の意味の濃淡を利用した「ぼかし」によって、作者自身を起点とした世界の遠近を描き出す、単純だがユニークな手法をとっている。
昨今のライトな味付けの作品群とくらべると、くどいほどに濃い味の作品だ。試しに、これらの用語を除いてみると「時を余さず鶴帰る」「くちびるを花びらとする」「直後の柿を喰いけり」などなかなかに抒情的でロマンチックな表現が残る。あたりさわりのない平穏な日常や、それをやさしく美しく装飾する表現のなかに異質でぼやけた言葉が置かれることで、世界はひとつの具体的な意味に収斂しない。言葉と言葉のあいだに埋め尽くすことのできない深い隙間が存在していることで、読み手に容易くイメージを結ばせない。これが、この『花修』という句集の「読みにくさ」はそこにある。
物語に葛藤があるように、俳句には俳句なりの「読みにくさ」がある。この「読みにくさ」は作者による推敲の段階で丸められ均させ、あたりさわりのない表現に換骨奪胎されがちなのだが、本来、俳句で読まれるのはまさにこの「読みにくさ」なのだ。この収斂しない空間が読み手の深層に残され、その後の日々の生活でものの見方や感じ方に思いもかけず影響を与えるような書き方があるのだ。この句集の前半「花」と「光」の章がこのように書かれることによって、次の「蓮Ⅰ」を読むための基礎がかたちづけられる。
「蓮Ⅰ」の章では、句集の前半で示された世界の隙間は、さらに取り返しのつかない深いものとなっていく。
薄明とセシウムを負い露草よ
桐一葉ここにもマイクロシーベルト
燃え残るプルトニウムと傘の骨
放射状の入り江に満ちしセシウムか
「蓮Ⅰ」に登場するこれらの句は、それぞれが俳句として昇華しきれていないように見える。あたかも失敗作のように。従来の俳句的な情緒や意味のきらめきに欠けている。季語のもつ生命力や、言葉のもつ広がりや奥行きすらどこかに置き忘れてしまっているようだ。しかし、それは俳句を構成された意味として見た場合の話である。言わば平凡な俳句への期待にすぎない。これらの句には、確かにあるのだ。決定的に欠落した闇が。「あの出来事」がもたらした、意味そのものを失った瞬間が。現実が俳句としての昇華を赦さず、情緒や意味のきらめきに還元できない絶望の淵が。
ここで扱われる「セシウム」「マイクロシーベルト」「プルトニウム」という言葉は、言うまでもなく肉眼で捉えられるものではない。我々の経験や想像力の中にさえ一切のイメージをもたらさない。中核の意味すら持たない「闇」そのものだ。まるで鳥目で夜の闇を見るように、空間の一部がぽっかりと塞がれているのだ。
薄明と・・・・を負い露草よ
桐一葉ここにも・・・・・・・・・
燃え残る・・・・・・と傘の骨
放射状の入り江に満ちし・・・・か
これらの言葉の向こうには、それを引きうける主体がいない。読み手が寄り添うことのできる声がない。この作者の俳句の書き方が、従来の意味をつなげるだけではなく、言葉が元来もっている意味の「余白」を重ねることで、意味とは違う言葉の彩りを表現していることがわかる。そして、言うまでもなくそれこそがこの句集の「読みにくさ」が最も極まる瞬間なのだ。ここには我々俳句を作る人間が俳句表現について真摯に考えなければならないひとつの側面がある。それは俳句というこの短い詩形は、言葉をつなげて意味を語るだけでは十分ではなく、むしろそうした言葉の意味が完全に結ぶことのない、禍々しい現実を背負っているということだ。
この黒く塗りつぶされた部分に当たり障りの無い言葉を置けば、それなりの俳句に構成することは難しいことではない。けれども、福島の原発事故により日本の一部に踏み入ることの困難な地域ができてしまったように、これらの句もまた触れることのできない深い闇を請け負っている。我々の日常を完結させることのない、いつも精神のどこかが暗く淀んでいるような欠落が存在している。ここでは、俳句と意味の欠落した言葉の関係が、日本と原発事故との関係に対してフラクタルな構造を成立させている。
「蓮Ⅱ」「蓮Ⅲ」の章は、大きな欠落から世界が象徴性を取り戻してゆく再生の過程である。しかし、そこにはやはり何か失われたものがある。
みな西を向き輝ける金魚の尾
人日の湖国に傘を忘れ来し
雪解星ふっと目を開く胎児かな
萍や死者の耳から遠ざかり
ところてん人語は毀れはじめけり
神官の手で朝顔を咲かせけり
人の手を温めており涅槃西風
祈りとは折れるに任せたる葦か
次の間に手負いの鶴の気配あり
相変わらず世界はどこか毀れつつあり、死も影もそこにあるけれど、それを「死」や「影」として相対化し主題化できるだけの象徴的枠組みは再構築されつつある。しかし、肝心なのは、そこで取り戻された日常は「二度目の」日常であるということだ。すでに「蓮Ⅰ」の時間を経験した私たちにとって、「以前」の時間といまここに取り戻された「日常」とを同一化することはできない。「西」「湖国」「胎児」「死者の耳」「人語」「祈り」などあらゆるものが、再び定義しなおされ、象徴世界は「象徴世界´(ダッシュ)」として我々の疑いのなかに沈んでいる。
この「二度目の日常」はかつての日常と同じものなのか、それとも我々の切実な視線をうばう「リビングデッド」なのか。我々が試されているのは、この「疑い」とどう関わるかであって、「信じること」をどのように取り戻していくかという問題である。本句集は「蓮Ⅰ」とその以前、以後という三つの時間軸によって、読み手と日常との間の信頼関係に起きた不思議な関係性を描き出している。特に後半の「蓮Ⅱ」「蓮Ⅲ」はここだけを切り出すとそれほど特異な作品には見えない。けれど三つの時間軸の最後に置かれることでその性質を明らかにする。俳句に意味があるとすれば、そこで明らかになるものこそが「意味」と呼ぶべきものなのだ。
俳句はたしかに世界を描き出すが、それは主題化された意味による「世界の取扱説明書」とは全く異なる。本書は五つの章が平成十四年から平成二十六年までの間に起きた出来事を踏まえつつ、ついに書き換えられるに至った世界の心理を描き出している。これが本来の俳句の「書き方」であると思うし、曾根毅句集『花修』はその「書き方」にどこまでも忠実な一冊だと思う。
ところで、「蓮Ⅱ」「蓮Ⅲ」の章に入る直前、欠落を極めた「蓮Ⅰ」の章は次の一句で締められている。
少女病み鳩の呪文のつづきおり
実にいい句だと思う。言われてみれば我々にも消し難い呪文が今もつづいている。
【執筆者紹介】
- 田島健一(たじま・けんいち)
1973年東京生れ。「炎環」同人。「豆の木」「オルガン」に参加。
ブログ「たじま屋のブログ」: http://moon.ap.teacup.com/tajima/
WEBSITE「HAIKU BILLY」: http://kuchibue.org/
Twitter: @tajimaken