みづうみの底に日あたる涼しさよ 浅津大雅
湖の底は、何かそれだけで詩情を感じさせる題材である。底が見えるのだから、よほど澄み切った透明度の高い水なのだろう。幾筋もの日矢が差し込み、揺らぎながら夏の時間が過ぎていく。いつまでも見つめていたくなるその瞬間、自分の体も湖底にいるかのようにひんやりと涼しく感ぜられる。今年の夏も遠くに行きたいと思わされた作品。
みづうみの底に日あたる涼しさよ 浅津大雅
河原石まるまる太る冬日かな石がまるまるとしている、というだけではなかなか一句には成りえないが、「太る」という一語が句の主眼を成した。摩耗してゆく運命を逃れ得ない河原の石から「太る」という言葉を得たのは、まさに冬日のぬくもりのなかであったからだろう。ゆたかな冬の陽射しを吸うかのような石の有り様、無機物の物体にそこはかとない「いのち」を感じているような作者のまなざしが感じられて眩しい。
踏む人のなくて汚き霜柱霜柱が踏みしだかれている無残な光景はしばしば目にするところだが、それを逆転的に発想した。踏む人のない全き霜柱はうつくしいものだと思われているが、その霜柱も土の汚れを免れ得ない。そんな霜柱の一面を切り取っている。
漆黒の水に蓮の枯れ残る冬の水の昏さを「漆黒」とやや大袈裟に表現し、枯蓮の色彩が浮かび上がるかのような構図が生まれた。「漆黒」という一語の力である。
苔むして落葉の中のタイヤかな 前北かおる題は「日光・湯西川」。古タイヤは再利用されよく小公園などで見かける。見ると落ち葉の中のタイヤが「苔むして」いた。キッチュな景の発見。他句に〈踏む人のなくて汚き霜柱〉句意は明瞭。「踏む人のなくて」というひねりが効いて、自然界「霜柱」を堂々と「汚き」と詠む。この眼差しはなかなかに貴重。嘱目吟とは不条理劇の一場にあるリアルさとどこか通ずるような気がする。
光塵の中に鹿立つ枯野かな 中西夕紀「枯野」が季題で冬。「光塵」は耳慣れない言葉ですが、おそらく日差しによって浮遊する塵が光って見える状態を表しているのでしょう。逆光気味に低く差す日の中に無数の塵が輝いて見えている、その中に一頭の鹿が日を背負って立っている、そんな枯野よという俳句です。鹿は神の使いとされますが、ここに詠われた立ち姿には現実を超越したような神聖さが備わっています。「光塵」という漢語の響き、そして季題「枯野」の静けさが、この鹿の気高さを神々しさにまで高めています。
「狐火」が季題で冬。昔、親しい数人で狐火を見たのでしょう。旅先か何かでさびしい夜道を歩いてというような状況を思い浮かべました。作者は、何十年か経って遠い記憶を思い出しているのです。その場所を再訪したのか、そうでなくても似たような夜道を歩いているのかも知れません。昔ほどには付き合いのない狐火の時の友人の顔を思い浮かべてみると、既に亡くなった人もひとり、ふたりいます。何だか自分自身の老いが実感され、ふと寂しい気持ちにとらわれたという俳句です。「狐火」という季題もそうですが、直接過去の助動詞を使って「見し」とだけ言った省略、「欠け」の脚韻の効果が、しみじみとした余韻を生んでいます。
狐火を見しひとり欠け二人欠け 中西夕紀
砂時計未生の春を綯い交ぜてやや観念的な句であるぶん評価が難しい句ではあるだろうが、「砂時計」の砂に「未生の春」が「綯い交ぜ」になっているというユニークな発想に乗った。これから落ちゆくべき砂に綯い交ぜになっている春。やはり、未来を感じさせる季節だ。
脆さとは何だろうか。荒れ果てた野にけものが潜む。きっと、生き物としての脆さを孕んだけものだ。けものに明日はわからない。そんなけものと等しい生き物であるかのように、「脆き母」が存在しているのだ。作者に命を繋いだ「母」も、「脆きけもの」のひとつとして生々しく蓬生に立っている。
蓬生に脆きけものと脆き母
初蝶のかの一頭はダリの髭蝶の触覚や舌をダリの髭と見立てたのだろうか。奔放に飛んでいる蝶の姿が見えてきて面白い。ダリの超現実主義を思えば、飛びまわる蝶もまた静謐な狂気を帯びた存在に感じられる。ダリの絵の色彩も思われるようで、ユニークな作品である。ひとつ言うとすれば、陽炎の句の直後に初蝶の句が並ぶ季感には違和感を抱く。