毅兄へ
拝啓
君が関東から関西へ居を移してからもうどれくらいになるだろうか。久しく会う機会を持たなかったが、先日、都内で行われた某俳句勉強会にて図らずも再会を果たした時は嬉しく思ったものだった。
ところで、君の本『花修』のことだが、告白すれば、上木からこの方さほど多く繙いたわけではない。それは、同じ俳句会に属している手前ほとんどの作品が未だ記憶に新しいということ、そして、それ以上に(殊に初期の作品に“その思い”は強いのだが)およそ二十年になんなんとする君との付き合いがもたらす抑えがたい昔日の感が、ともするとページを繰る手を鈍らせていたということもあるかもしれない。
そうした些かセンチメンタルな読みのうちに、『花修』が湛える或るテクスチュアに絡んで私的にいくつか思い出されることがあった。まあ、他愛のない些細なエピソードだが、それでも僕にとっては或る懐かしさとともにささやかながら作品理解(あるいは作者理解といった方が正しいか)に繋がる事柄のようにも思えるのだ。それは、およそ次のようなことである。
「曾根です」―と言って、その都内にある某ミュージックスクールに君がやってきたのは‘90年代半ばの春だったか秋だったか。当時、世間は一種のプチ・サックスブームで、その音楽学校のサックス科も仕事帰りのサラリーマンやOLの生徒らで一時の賑わいをみせていた。エリック・ドルフィーと阿部薫にかぶれていた僕がそこに籍を置いてからしばらくして、君が先述の挨拶を伴いあらわれた時の様子を思い起こすのはそれほど難しいことではない。大方の生徒が基本スタイルとしてアルトを手にする中、君はシブい関西弁とともに数少ないテナーサックスの徒としてレッスンルームにやってきたのだった。ともに、まだ20代だった。その後、いくたびかのセッションと音楽談義の中で、君がかのジョン・コルトレーンの楽曲に触発されてテナーを始めたことを知るに及んで少しく頷けるものを覚えた。そうか、ソニー・ロリンズでもなく、ウェイン・ショーターやマイケル・ブレッカーでもなく、ましてやレスター・ヤングでもない、「私は聖者になりたい」と嘯き不惑の若さで亡くなったあのジョン・コルトレーンか―。
年齢が近いせいもあってかお互い打ち解けるのにさほど時間を要さなかったが、正直、君がどのような経緯で俳句を始めるに至ったかよく覚えていない。サックスと並行して俳句を始めていた僕がその頃参加していた『海程』や某超結社句会の冊子などを君に見せていたことが多少なりとも影響したものか。直接、君に俳句作りを勧めたことはなかったと思うが、そのうちに君も手探りの中から五七五を紡ぎ始めたということは俳句の持つ何かが君の感覚に触れたということだろう。
その時からだろうか、音楽と並んで俳句や文学談義を交わすようになったのは。「あまり本に馴染んでこなかった―」とは当時の君のセリフとして耳に残っているが、こちらも人に自慢できるほどの文学的内容があるわけではない。ただ、僕の場合、昔から「本」「音楽」「映画」をエンゲル係数として生活してきた由、“食べた”モノについてはいくらか語れたろうからそうした貧しい情報量の中から君に目ぼしい本や作家を紹介したことはあるかもしれない。そうした中で、僕が君に何を勧めたかは大よそ忘れてしまったが、君から勧められて読んだ本のことは今でも覚えている。それは松下竜一の『狼煙を見よ』というノンフィクションである。かつて、「東アジア反日武装戦線“狼”」を中心とする新左翼系活動グループが起こした連続企業爆破事件(‘74~‘75)の内幕とテロ事件前後の「“狼”」メンバーほかの動向を丹念に取材したものだ。実はこの手合いは決して得意な方ではなく、当時は思想的興味からわずかにフーリエやクロポトキン、トロツキーや北一輝、チェ・ゲバラ等に触れるのみだった。松下竜一にしても決して良い読者とは言えず、その頃の記憶では彼が実家の豆腐屋を手伝いながら綴ったデビュー作である歌集『豆腐屋の四季』と、甘粕大尉に虐殺されたアナキスト大杉栄と伊藤野枝の娘・伊藤ルイの半生を記した『ルイズ―父に貰いし名は』を辛うじて掠めていたに過ぎなかった。ちなみに「“狼”」のリーダー格である大道寺将司は、現在、死刑囚として東京拘置所に収監されているが、数冊の句集を持つ俳人としても“活動”しており、今思えば、どこか奇妙な因縁を感じないでもない。そして、『狼煙を見よ』を読み終えた時、僕はまたしても君に対して少しく頷けるものを感じたのだった。
ジョン・コルトレーンと松下竜一『狼煙を見よ』―この二つに直接的な絡みはない。また、この二要素のみをもって君や『花修』を語りきるつもりもない。だが、君という人間との関連性において、それぞれに或る共通性は窺えるなと思った。コルトレーンの音/松下竜一の文、いずれも武骨で不器用なギャロップでありながらそこはかとないナイーヴさを秘めつつ或る信念への揺るぎない強さに満ち溢れている。そのエッセンスは「愚直なまでの誠実さ」ということ。かつて「曾根毅という男はこういうところに共鳴するのだな」という感懐を抱いたが、星霜を経て今、それは君や『花修』のイメージを些かも裏切らない。
さて、長すぎる思い出話もここまでに、『花修』評について、である。僕の意見は至ってシンプルなものだ。すなわち―次の次なる作品に期待する、と。
物書きというものは、大方はじめの二、三編は自分の“持ち物”で書けるものだろうという考えを抱いて久しい。その意味で君の『花修』とは、それなりの内容を有し、それを書けるだけの力量を持つ人間が、それを発揮したという“証明”であり、また俳句作家・曾根毅のやや遅きに失した俳句界へのささやかな“挨拶”に過ぎない。ゆえに、僕からすれば『花修』とは褒めるも貶すもなく、言わば批評以前の句集なのである。といっても得心がいかないかもしれない。こう記せば伝わりやすいだろうか。『花修』は、君の私的俳句史からは五年、公的俳句史からは五十年の遅れを取っている。前者の年数は便宜上のものだ。五年であろうと十年であろうと、要は君の内実に比して刊行が“遅きに失した”ということが理解されれば良いのだから。後者については、賢明な君ならば気付いていないはずはない。君の直接の師である鈴木六林男をはじめ、君が決定的な影響を受けたかつての新興俳句の作家たちの句業を熟知していれば「宜なるかな」と思わない方がおかしいのだ。
先刻、僕は君のことを「俳句作家・曾根毅」と書いたが、このように記する時、僕は君の俳句行為を六林男はもちろんのこと、誓子、三鬼、白泉、窓秋、赤黄男、または鬼城、蛇笏、石鼎、普羅、水巴、さらには子規、虚子、碧梧桐、はては芭蕉にまで連なる同一線上の批評軸において見ているのだ。これまで数多くの評者が『花修』について書いてきた。それぞれに真摯な、また友愛的な態度で書かれたものだろう。だが、それらが如何なるスタンスだとしても他者の毀誉褒貶など僕には一向与り知らぬことだ。僕にとって問題なのは、『花修』が1ミリたりとも僕を“殺さない”ということなのだから。
「俳句を書く」ということを、君はどのように考えているだろうか。それは、あたかも鏡に自身を映すように季語と五七五に己を仮託し移してゆく自己投影の営み―すなわち「自己表現」であろうか。以前、別のところでも書いたが、僕はその“短さ”と“定型”ゆえに主体をその主体自体から切り離しつつあらたな創造へと向かう「脱自‐超俗」の道と考えている。<書く>とは、いわば終わりなき“私殺し”であり、その度ごとに自己を超えてゆく「超脱」の法ということだ。「秘すれば花」―これは君が自身の本のタイトルモティーフとした『風姿花伝』の中で最も人口に膾炙した言葉だが、僕流に換言すれば、それは差し詰め「弑すれば花」といったところだ。君が討つべき相手は、師・六林男であり、新興俳句の作家たちであり、そして何より己自身である。
2011年3月11日。あの日、かの地で、君は何を見たか。東日本一帯を突如襲った未曾有の大地震と大津波―その日、偶然、仕事の出張先である東北にいた君は、そこで一体何を体験し、何を感じたか。それは他者が不用意に踏み込めぬ領域ではあろうけれども、人間・曾根毅としての君が確実に“何か”に討たれたであろうことは想像に難くない。が、『花修』ではそのテーマが表層レベルに止まっていることは否めない。急いで付け加えれば、ここでいうテーマとは「震災」や「原発」などといった瑣事(!)ではない。諸々の「存在」と「時間」、その変容と大いなる可能性のことだ。むろん、君ならば所謂「震災詠」なるものをコルトレーン張りの“シーツ・オブ・サウンド”で書きまくることも可能だろう。事実、そのような作家連もいた。ここでは、そうした作家および作品への論評は控えるが、敢えて言えば、そうした“地上的”かつ“人間的”な視点や感覚での表現は疾うに先達が試行していることである(たとえば戦火想望俳句)。ともあれ、君が“持ち物”をすべて吐き出したところから俳句作家・曾根毅の本当の俳句行為は始まるだろう。
ところで、ここまで『花修』の作品を一つも出さずにきたが、出来如何とは関係なく心に深く刻印された一句がある。
立ち上がるときの悲しき巨人かな
作家の本質はその処女作によくあらわれる―とは僕の今一つの持論だが、『花修』冒頭の掲句を読むたびに、曾根毅は図らずも自身(または人類?)の“運命”を書いてしまったのではないかという複雑な気持ちにとらわれる。むろん、誰しも順風満帆な人生など送れるはずもなく、僕の見方もたんに人間的甘さからくるロマンティシズムに過ぎない。が、俳句においても、実人生においても、そのような“とき”が君にたびたび訪れるのではないか。しかし、それが君の大いなる足跡 Giant Stepsのプロセスと考えるならば、むしろそれは歓待すべき“とき”かもしれない。
最後に蛇足ひとつ。時折、君から周囲の“雑音”についての悩み(?)を聞かされることがある。第四回芝不器男俳句新人賞を受賞して以来、宝くじの当選者に急に新しい“親戚”が増えるように、様々な人たちが君の周りを取り囲んだことだろう。それに連れて耳触りのよくない雑多な“ノイズ”も飛び交ったに違いない。言えば「選ばれてあることの恍惚と不安」といったところだろうが、これも“とき”のひとつと考えればいくらかの達観にはなるだろうか。あるいは助け舟代りにひとつ僕が言っておこうか―「曾根毅をナメんなよ。彼は『花修』程度で終わる作家じゃねぇんだ!」
さて、布石(放言?)は打っておいた。あとは君がそれを証明するだけだ。切に君の健康を祈る。
敬具
夜想拝
【執筆者紹介】
1970年生。『LOTUS』編集人。