『花修』落掌、さて表紙の美しさにほれぼれしつつ、悩みが始まる。
「なんて読むんだろ?」・・・・・はなおさめ?かしゅう?個人的にははなおさめと読みつつ、タイトル横に添えられているふりがな「かしゅう」に気が付く。
目次には「花」「光」「蓮Ⅰ~Ⅲ」とある。花がお好きなんだなあ、と表紙絵のごとく明るい気分で読み始める。
立ち上がるときの悲しき巨人かな
いきなり「悲しい」と言われて、こちらもなんだか悲しくなってしまう。しかもいまはやりの進撃の巨人?『進撃の巨人』とは平成21年より別冊少年マガジン(講談社)にて連載開始。したがって、掲句とは全くの無関係であることを了解し、もう一度掲句を眺める。
古来、巨人とは獰猛だったり、理不尽だったり、あまり人間と交感しない存在。ファンタジーではトロールなどに代表されるように愚かで乱暴なだけの存在として描かれることも多い(『ハリーポッターと賢者の石』1997、『ナルニア国物語』1950『ホビットの冒険』1937・・・トロールはもともと北欧神話に登場する妖精のこと)。
ふと、シーシュポスの逸話を思い出したのは大きな岩を惨状へ運ぶ姿をいつの間にか巨人の姿に置き換えていたと見える。ギリシャ神話に於けるシーシュポスは人であって巨人とは書かれない。あえて言えば巨岩を運ぶ労苦のひとである。
鶴二百三百五百戦争へ
200+300=500?それとも、200+300+500+・・・・? 数字に意味を求めつつ、たくさんの鶴が飛んでいく様を想像するとその迫力と美しさには圧倒されるにちがいないと確信が持てる。
一方で、この鶴が折り鶴という選択肢はないのか。折り鶴は願いの象徴であり、広島の原爆の子の像にはおそらく万の単位の折り鶴が捧げられているだろう。折り鶴が祈りを象徴する存在である以上、下五は平和でなければならないはずだ。それが予定調和だといわれても、そこは譲れない。しかしながら、戦争へ向かっていくわけだから、これはやはり折り鶴であってはならないのだろう。
鶴は北の国から来て北の国に帰る。これが日本での一般的な見方。とするなら、この鶴は北の戦争に帰って行くことになる。・・・なるほど、ロシアか。チェチェンに始まり今ではウクライナでも戦闘が続く荒れた北の大地である。
存在の時を余さず鶴帰る
これも飛び立っていく鶴の姿を捉えたもの。おそらくは一羽たりとも残らぬ潔い旅立ちの姿なのだろうと思う。とはいえ「存在の時を余さず」は難解。鶴自身の存在した時間ということでいいのか。「時」のなかに何か含み込んでいるようで、その「時を余さず」の内容がもう少し明確になればいいのにと思う。
春の水まだ息止めておりにけり
春の水が息をとめているのか?それとも私自身が息を止めているのか?どちらにも読める。まだ冷たい凍ったままの水が、あるいは凍みたままの雪が溶けて行く。そのことを「息止めて」といったのならば平凡か。 (以上ブログ記事草稿)
そんなこんな考えていたら空の会に招かれ、曾根毅氏の句集『花修』についてレポートをとのこと。同じ読むなら、とほいほいお引き受けして、過日報告してきた。以下、そのときの資料と後日改めて考えたことをここに記しておきたい。少々文体やらなにやら変わるかもしれないがお許し願いたい。
発表当日、私は大雑把に見て、曾根氏の句に三つの軸を見出した。
1宗教的語彙への指向性これらについて強い指向性を持っているのではないか、と句集から拾い上げたものを披瀝した。それをもとに、竹中宏氏は「象徴性の高い語を使う、多義的なものを目指す」というのがこの句集の特徴ではないかとまとめられた。また会場では、加田由美氏ほか数名から鈴木六林男の作風との強い類似性が指摘された。
2社会的な指向性
3本歌取り的な指向性
以下が、当日配布した引用句である。(なお、より的確性を期し当日使用した用語は変更した)
〈宗教的語彙への指向性〉宗教的な語を念頭に置き作句しているもの。
花
永き日のイエスが通る坂の町
光
佛より殺意の消えし木の芽風
神鏡に近づいてゆく大百足
憲法と並んでおりし蝸牛
阿の吽の口を見ている終戦日
天高し邪鬼に四方を支えられ
悪霊と皿に残りし菊の花
蓮Ⅰ
しばらくは仏に近き葱の花
少女また桜の下に石を積み
墓場にも根の張る頃や竹の秋
春近く仏と眠りいたるかな
蓮Ⅲ
人の手を温めており涅槃西風
涅槃の夜一雫のみ音を立て
黄泉からの風に委ねて蛇苺
秋霖や神を肴に酒を汲み
〈社会的指向性〉社会的、時事的な語を軸に作句しているもの。
花
立ち上がるときの悲しき巨人かな
鶴二百三百五百戦争へ
稲田から暮れて八月十五日
暴力の直後の柿を喰いけり
冬めくや世界は行進して過ぎる
光
この国や鬱のかたちの耳飾り
五月雨のコインロッカーより鈍器
爆心地アイスクリーム点点と
塩水に余りし汗と放射能
敗戦日千年杉の夕焼けて
温暖な地球のつるべ落としかな
手に残る二十世紀の冷たさよ
木守柿不法投棄に取り巻かれ
蓮Ⅰ
薄明とセシウムを負い露草よ
桐一葉ここにもマイクロシーベルト
燃え残るプルトニウムと傘の骨
放射状の入り江に満ちしセシウムか
布団より放射性物質眺めおり
生きてあり津波のあとの斑雪
山鳩として濡れている放射能
原子炉の傍に反りだし淡竹の子
夏風や波の間に間の子供たち
蓮Ⅱ
ところてん西へ西へと膨れけり
天牛は防空壕を覚えていた
みな西を向き輝ける金魚の尾
寒き夜核分裂を繰り返し
諸葛菜活断層の上にかな
原発の湾に真向い卵飲む
蓮Ⅲ
日本を考えている凧
殺されて横たわりたる冷蔵庫
〈本歌取り?〉先人の作品を念頭に置いている、もしくは読者に別の先人の句を想起させうるもの。
木枯の何処まで行くも機関車なり
爆心地アイスクリーム点点と
頬打ちし寒風すでに沖にあり
永き日や獣の鬱を持ち帰り
皃の無き蟷螂にして深緑
「象徴性の高い語を使う、多義的なものを目指す」という方法、つまり大きな思想(宗教や社会的時事的事象)に拠る作り方は、同世代、同時代の読者の共感は得やすい(もちろん反発も得やすい)。個人的な体験より意味を共有しやすいし、より個人的な体験へおろしてきやすいからしたがって共感もしやすい。(だから、逆に自分の感じ方と違うという反発も生じやすい)。大きな思想は抽象性が高く受け取り方の個人差が大きくなる。たとえば「神」といっても日本的な八百万の神なのか西洋的中東的な一神教の神なのかでその一句の解釈は大きくかわってくるだろう。
曾根氏の作風はそのような先にある思想や作品に大きく寄りかかっているのだ。その作り方の問題は読者を選ぶということだろうと思う。スキキライ、主義の賛成反対、そういったことももちろんだが、それだけでなく、その句の意図するところの理解について読者を選ぶのではないか、という点だ。要はわかるわからない、というところ。
それが如実に出たのが本歌取り的な指向性というカテゴリーに括ることのできる作品群。そもそも日本の和歌の伝統の中にあって本歌取りは立派な技法である。それは、先人の作品がわかっているからこそ作ることができる、そしてそれを解釈することができる、という作者読者双方の了解があってこそ成立するというもの。修辞としてはパロディーの一つと考えることができよう。
たとえば〈木枯の何処まで行くも機関車なり〉、この句については山口誓子の〈海に出て木枯帰るところなし〉や〈夏草に汽罐車の車輪来て止る〉をすぐに思い出せる。これをただの翻案だというか、その先行句をも内包した表現と捉えるかは、曾根氏の句の自立力によるのだろうと思う。もし前者であるならばそれはただの俳句連想ゲームになってしまう。後者になるならば、もはや先行句など問題にならなくなるのではないか。その意味で先の句などは成功しているとはいいがたい。ただのオマージュに過ぎない。
一方、〈永き日や獣の鬱を持ち帰り〉は芝不器男の〈永き日のにはとり柵を越えにけり〉との対比にある。鳥と獣、穏やかさと鬱。対置されたときの面白さ、が作者の意図だとするならこれは成功した部類に入れてよいと思われる。
けれど、つねに自分の句が先行句のどれかと対置されて読まれ続けるのだとしたらそれは作者にとっていずれは不本意なものになるだろうという気もする。結局、自分の表現の半分を先人の句が担っているということになるからだ。本歌取りが珍重されたのは、自身の教養や知識を暗にも明にもアピールすることができたからで、そこから独り立ちした一首をものすことができたのはごくごく限られた歌人たちだけだったのではないだろうか。
私はこの句集を読者として読む分には楽しかった。常に裏にある思想、主張、とりわけ先人の句を想起させる一種のゲームとして楽しめたからだ。あの句この句、と私は自分の知識や記憶と勝負しながらこの句集のある部分を読んだわけで、それは言い換えれば江戸時代の談林俳諧と同じありかたということでもある。その意味で、栞にある対馬康子氏のいう「俳諧師」という語は実に的確に曾根氏の立ち位置を表したものだと思われる。ある種の謎解きが俳諧の面目であり、『花修』にはその面目がふんだんに取り入れられているからだ。
ところで。
面白いのは宗教的な語彙への指向が収まるとほぼ同時に社会的な指向が始まる。つまり、自分の中の大きなテーマ(足場?)が宗教的なものから社会的なものに移動したと思われるのだ。若かりし頃の壮大な思想は、自身の属する社会に汚染され吸収されて、自身もまたより現実的になっていく。そういう人生における年代の悲哀のようなものが見え隠れするようだ。
『花修』はつねに「第4回芝不器男俳句新人賞」とともに語られる句集になるだろう。セシウムやプルトニウムといったものを超えて、次に氏がなにを詠みたいと思うのか、大いに興味あるところだ。
わたなべじゅんこ選
我が死後も掛かりしままの冬帽子
元日の動かぬ水を眺めけり
霾るや墓の頭を見尽して
ねむる子ら眠りつづけて竜の玉
水吸うて水の上なる桜かな
身の内の水豊かなり初荷馬
家族より溢れだしたる青みどろ
鳥葬の傍らにあり蛇苺
雪解星ふっと目を開く胎児かな
薄氷地球の欠片として溶ける
乳母車止め置きたる桜の根
唐突に梅咲きはじむ二人かな
指先が水に触れたる目借時
原子まで遡りゆく立夏かな
椎若葉空を違えていたるかな
罵りの途中に巨峰置かれけり
七五三錫の匂いを纏いけり
山猫の留守に落葉の降りつづく
狐火のかすかに匂う体かな
【執筆者紹介】
- わたなべじゅんこ(わたなべ・じゅんこ)
記載なし