日常であれ非日常であれ、それをドラマチックに描けるとすれば、結局それはその人の感覚しだいであると思う。俳句は小さなドラマである。すごく素敵で私的な、ドラマ。
念力のやうな音して冷蔵庫 しなだしん
家電製品が魔法だとか念力だとか、いつの時代の話だろう。この冷蔵庫も電気冷蔵庫のことだろう。氷がなくたって中に入れればものが冷えるのはもはや不思議でもなんでもない。でも、ただ冷やすだけにしては、音が多い。大きな、多機能の冷蔵庫になるとなおさら。一体コイツ、何してるんだろう、そんな気にもなる。持って回った言い方でとぼけているような面白さがありながらも、「念力」が言い得て妙である。
神々の混み合つてゐる青嵐 仲寒蝉
語りは極めて明快。夏の句で「混み合つてゐる」と言いながらも一切暑苦しさを感じない面白さ。いや、でも、もしかしたら、神々たち張本人は、不快なのかも。神々のなんとも暑苦しい光景が、人間界では(多少荒々しいが)情緒ある自然の風となっている。と言ってしまうのは、少しばかり不謹慎か。
語り合ひ笑ひ緑蔭出てゆかず 長嶺千晶
なんだかんだ、ずっといる。日の動きに従って、ちょっとずつこの人たちも動いているのかもしれない。話に夢中になっているようで、そういうところはしっかりしている、というより、このような避暑は人間の本能なのかもしれない。いかにも居心地の良さそうな、緑蔭である。
薔薇の名を残念なほど忘れけり 西村麒麟
薔薇ほど多くの品種が作られ、それら一つ一つにユニークな名前が与えられる観賞花も珍しいように思う。普通に生活してれば、数種の名前を知っているだけで上出来である。とはいえ、薔薇好きの人が話をしてくれたり、薔薇園を回ったりして、色々な薔薇の名前と触れることもあるだろう。へえ、そんな名前が! なんて、その時は楽しんでいる。そしていざ、後になって、そういえば面白い名前があったな、なんて思いだしてみたら……「残念なほど忘れ」ている。冗談じゃなく、「残念」なのである。
致死量を超えてピーマン肉詰めに 山本たくや
包丁を入れられたと思ったら明るくしてくれていた、なんてことがあったり(「ピーマン切って中を明るくしてあげた 池田澄子」)、素材を活かした料理を作ってくれたと思ったら殺されそうになっていたり(掲句)、ピーマンの俳句での扱いはどうしてこうも同情したくなるのだろう。ピーマンという野菜は料理の光景がいちいちドラマチックである。致死量なんて言葉の恐ろしさとは裏腹に、たっぷり肉詰めされた様子がいかにも食欲をそそるし、逆説的に生き生きとした新鮮なピーマンも見えてきて、なんとも美味しそうである。同情したくなりはするが、結局、同情なんてしない。これが、ピーマンなんだろうなあ。
(※冊子「俳句新空間」ではブログ掲載の俳句帖を作者名あいうえお順に掲載しています。)
【執筆者紹介】
- 仮屋賢一(かりや・けんいち)
1992年生まれ、京都大学工学部。
関西俳句会「ふらここ」代表。作曲も嗜む。