(俳句新空間No.2ー夏行帖ー「麝香」 佐藤りえ より )
引っかかりなく読めるのに、次々と謎が湧いてくるような印象を持った、「麝香」から。
親切にのしかかられて心太
心太は多くの場合、「天突き」とよばれる道具で糸状にされて食される。人間からすれば、これは「押す」という行為に相違ない。けれど、心太の立ち位置になると、「のしかかられて」いると感じるのもうなずける。それも、「親切に」。この親切心はどこに働いているのか。心太に対してだろうか。食べる人に対して、と読んでもよいなら、ただただうれしい。
日傘など呉れて優しい男かな
日傘を呉れるという状況は、かなりあやしい。男は初めから、日傘を渡すつもりで用意していたとしか思えない。その日傘には単なる優しさ以上のものが含まれている――というのは深読みだろうか。どちらにせよ、作中主体(おそらく女性)の目に、悲しいかな、この男は「優しい男」以上の映り方はしていない。
濡れてゐる闇から帰り瓜を切る
濡れてゐる闇、とは? 雨中か雨後か、あるいはしっとりとした夏の夜の空気か。そこから帰ってきて、瓜を切るという行為に戻る。おそらくこの瓜も、闇と同じくらいしっとりとしているのだろうと思う。
水の痕消えない布を叩きをり
水の痕は、しばらくすれば乾いて消えるのだろう(特殊な化学反応で滲みになってしまうとかなら、ともかく)。しかし、それがなぜか消えない。消えるまで待てないだけだろうか。水を溢してしまった布を、必死になって叩いている。水の痕を隠そうとしている。けれど、叩いたところで消えるはずがない。延々とループする行為の果てには、おそらく、やっぱり水が乾いて痕が消えるだけなのである。
おとなしく麝香を嗅いでゐればいい
そうなのか。麝香を嗅いでゐればいいのか。それも、おとなしく。表題句となっているこの句が、実はいちばん謎なのではないか。あの濃密な香りが鼻をつくので、なかなかおとなしくはできない気がする。そわそわしてしまう。だからこそ、おとなしく麝香を嗅いでさえゐれば、なんとなく許された思いになるのかもしれない。
蹠を孔雀の羽根で擦る係
当然、こそばゆい。孔雀の羽根といえば、目のような模様が入ったあの大きくて派手な羽根が思い浮かぶ。およそ、「蹠を擦る」という役割には適していないところに面白さがある。そして、そういうことを役割にする係の人がいる。係ということは、その仕事を一手に引き受けている。目の前に並ぶあしのうらを、手に持った孔雀の羽根で順番にくすぐっていく。
火をつけるまへのまなこのさゆらぎよ
いきなり、はっとさせられる句に出会った。火をつける時、人間はその火に注視する。そして、その人自身が火をつけているにも関わらず、その熱と光が発せられると同時に、目の中に動揺が浮かぶ。目の中には火が像を結び、あるいはまぶたがぴくりと動く。人間の根源的な火への畏怖を垣間見た思いがする。
まひまひの睡りや雨後の木の股に
「睡り」にファンタジーがあるとしても、これはわかりよい。まひまひ、木の股、という措辞がユーモアを添えているようにも受け取れる。あたり一帯をつつみこむ雨上がりの匂いが、まひまひの睡りをより一層おだやかなものに仕立て上げている。
【執筆者紹介】
- 浅津大雅(あさづ・たいが)
平成八年生まれ。関西俳句会「ふらここ」。現在、京都大学文学部在学中。