2014年10月31日金曜日

さらりとした違和感~佐藤りえ「麝香」を読む / 浅津 大雅

(俳句新空間No.2ー夏行帖ー「麝香」 佐藤りえ より )


引っかかりなく読めるのに、次々と謎が湧いてくるような印象を持った、「麝香」から。

親切にのしかかられて心太

心太は多くの場合、「天突き」とよばれる道具で糸状にされて食される。人間からすれば、これは「押す」という行為に相違ない。けれど、心太の立ち位置になると、「のしかかられて」いると感じるのもうなずける。それも、「親切に」。この親切心はどこに働いているのか。心太に対してだろうか。食べる人に対して、と読んでもよいなら、ただただうれしい。

日傘など呉れて優しい男かな

日傘を呉れるという状況は、かなりあやしい。男は初めから、日傘を渡すつもりで用意していたとしか思えない。その日傘には単なる優しさ以上のものが含まれている――というのは深読みだろうか。どちらにせよ、作中主体(おそらく女性)の目に、悲しいかな、この男は「優しい男」以上の映り方はしていない。

濡れてゐる闇から帰り瓜を切る

濡れてゐる闇、とは? 雨中か雨後か、あるいはしっとりとした夏の夜の空気か。そこから帰ってきて、瓜を切るという行為に戻る。おそらくこの瓜も、闇と同じくらいしっとりとしているのだろうと思う。

水の痕消えない布を叩きをり

水の痕は、しばらくすれば乾いて消えるのだろう(特殊な化学反応で滲みになってしまうとかなら、ともかく)。しかし、それがなぜか消えない。消えるまで待てないだけだろうか。水を溢してしまった布を、必死になって叩いている。水の痕を隠そうとしている。けれど、叩いたところで消えるはずがない。延々とループする行為の果てには、おそらく、やっぱり水が乾いて痕が消えるだけなのである。

おとなしく麝香を嗅いでゐればいい

そうなのか。麝香を嗅いでゐればいいのか。それも、おとなしく。表題句となっているこの句が、実はいちばん謎なのではないか。あの濃密な香りが鼻をつくので、なかなかおとなしくはできない気がする。そわそわしてしまう。だからこそ、おとなしく麝香を嗅いでさえゐれば、なんとなく許された思いになるのかもしれない。


蹠を孔雀の羽根で擦る係

当然、こそばゆい。孔雀の羽根といえば、目のような模様が入ったあの大きくて派手な羽根が思い浮かぶ。およそ、「蹠を擦る」という役割には適していないところに面白さがある。そして、そういうことを役割にする係の人がいる。係ということは、その仕事を一手に引き受けている。目の前に並ぶあしのうらを、手に持った孔雀の羽根で順番にくすぐっていく。

火をつけるまへのまなこのさゆらぎよ

いきなり、はっとさせられる句に出会った。火をつける時、人間はその火に注視する。そして、その人自身が火をつけているにも関わらず、その熱と光が発せられると同時に、目の中に動揺が浮かぶ。目の中には火が像を結び、あるいはまぶたがぴくりと動く。人間の根源的な火への畏怖を垣間見た思いがする。

まひまひの睡りや雨後の木の股に

「睡り」にファンタジーがあるとしても、これはわかりよい。まひまひ、木の股、という措辞がユーモアを添えているようにも受け取れる。あたり一帯をつつみこむ雨上がりの匂いが、まひまひの睡りをより一層おだやかなものに仕立て上げている。




【執筆者紹介】 


  • 浅津大雅(あさづ・たいが)

平成八年生まれ。関西俳句会「ふらここ」。現在、京都大学文学部在学中。

2014年10月24日金曜日

登頂回望・号外編(その3) [もてきまり]  /   網野月を 

七転びころびしままの黄巻貝    もてきまり

八百八町かげろふの縁貝の縁




(『俳句新空間No.1』 「新春帖」平成26年1月1日より)

 二十句が数え歌のように一から二十まで笠付けになっている。掲句はその第七句目と第八句目である。題も「二十吃(く)」となっている。季題は順不同であり、二十句の句意の統一性はない。折句、折端、笠付、などにその趣旨はちかいものであろう。一句一句の句意はそれだけに極めて幻想的で、捉えどころのない句に思えるが、二十句の総体として鑑賞すると、そこにレースのような質感が編み出されていることに気付く。一本の糸の捩れを追う読者を翻弄しているかのようだ。






2014年10月17日金曜日

登頂回望・号外編(その2)[小林千史]  /   網野月を 


春の鹿群れを離れて汚れゐて    小林千史

(『俳句新空間No.1』 「新春帖」平成26年1月1日より)


春鹿にとっては大変な事件があっただろうが、作者の目からは座五の「汚れゐて」が重要なのである。眼前の鹿が汚れていることが作者の琴線に触れてのである。中七の「て」と座五の「て」と重ねる方法で、句のリズムを意図的に作り出している。二次元的世界で別方向へ中七と座五を導いているのではない。それではその二本の導線が元の方(逆の方)で交わってしまうからだ。二本の導線は三次元的に配置されて交わらないようになっている。同じ春鹿の状態を表現している語なのであるが、そうすることによって、春鹿の群れから離脱した孤立感や「汚れゐて」から来る切迫感が演出されている。

2014年10月10日金曜日

登頂回望・号外編(その1)[仲寒蝉] /  網野月を


冬麗や廃墟の石の尖りにも    仲 寒蝉


 (『俳句新空間No.1』「新春帖」平成26年1月1日より)

海外での句作は季語の問題などからも困難さを伴うものである。「アストゥリアス」の題が付されていて、スペイン北部の州アストゥリアスへの紀行俳句のようである。二十句には作者の好きな研ぎ澄まされた対象を詠み込んでいて、極めて先鋭的な感覚が伝わってくる。「寒月光とどくや沼の底の剣」、「巡礼の道にしたがふ冬銀河」、掲句、「石の壁いちまい冬の日に対す」「尖塔に凍雲触れて過ぎゆけり」などなどだ。対象の質感をそのまま句の中へ取り込もうと意図している。それだけに語句が生のように感じるのだが、それも作者の術中に筆者がはまってしまったからであろう。筆者はレンタカーでバスクから聖ヤコブの道を辿ったことがあるが、残念ながらアストゥリアスは通過地点であった。このような水分の比較的少ない土地柄で、句作することは難しいと思われるが、作者は見事に成し遂げている。(『俳句新空間No.2』より転載)







2014年10月3日金曜日

ドラマチックな私事ですが / 仮屋賢一

(『俳句新空間No.2 』平成二十六年甲午俳句帖 花鳥篇より)

 日常であれ非日常であれ、それをドラマチックに描けるとすれば、結局それはその人の感覚しだいであると思う。俳句は小さなドラマである。すごく素敵で私的な、ドラマ。

念力のやうな音して冷蔵庫  しなだしん

家電製品が魔法だとか念力だとか、いつの時代の話だろう。この冷蔵庫も電気冷蔵庫のことだろう。氷がなくたって中に入れればものが冷えるのはもはや不思議でもなんでもない。でも、ただ冷やすだけにしては、音が多い。大きな、多機能の冷蔵庫になるとなおさら。一体コイツ、何してるんだろう、そんな気にもなる。持って回った言い方でとぼけているような面白さがありながらも、「念力」が言い得て妙である。

神々の混み合つてゐる青嵐   仲寒蝉


語りは極めて明快。夏の句で「混み合つてゐる」と言いながらも一切暑苦しさを感じない面白さ。いや、でも、もしかしたら、神々たち張本人は、不快なのかも。神々のなんとも暑苦しい光景が、人間界では(多少荒々しいが)情緒ある自然の風となっている。と言ってしまうのは、少しばかり不謹慎か。

語り合ひ笑ひ緑蔭出てゆかず   長嶺千晶

なんだかんだ、ずっといる。日の動きに従って、ちょっとずつこの人たちも動いているのかもしれない。話に夢中になっているようで、そういうところはしっかりしている、というより、このような避暑は人間の本能なのかもしれない。いかにも居心地の良さそうな、緑蔭である。

薔薇の名を残念なほど忘れけり   西村麒麟

薔薇ほど多くの品種が作られ、それら一つ一つにユニークな名前が与えられる観賞花も珍しいように思う。普通に生活してれば、数種の名前を知っているだけで上出来である。とはいえ、薔薇好きの人が話をしてくれたり、薔薇園を回ったりして、色々な薔薇の名前と触れることもあるだろう。へえ、そんな名前が! なんて、その時は楽しんでいる。そしていざ、後になって、そういえば面白い名前があったな、なんて思いだしてみたら……「残念なほど忘れ」ている。冗談じゃなく、「残念」なのである。

致死量を超えてピーマン肉詰めに 山本たくや

包丁を入れられたと思ったら明るくしてくれていた、なんてことがあったり(「ピーマン切って中を明るくしてあげた 池田澄子」)、素材を活かした料理を作ってくれたと思ったら殺されそうになっていたり(掲句)、ピーマンの俳句での扱いはどうしてこうも同情したくなるのだろう。ピーマンという野菜は料理の光景がいちいちドラマチックである。致死量なんて言葉の恐ろしさとは裏腹に、たっぷり肉詰めされた様子がいかにも食欲をそそるし、逆説的に生き生きとした新鮮なピーマンも見えてきて、なんとも美味しそうである。同情したくなりはするが、結局、同情なんてしない。これが、ピーマンなんだろうなあ。


(※冊子「俳句新空間」ではブログ掲載の俳句帖を作者名あいうえお順に掲載しています。)

【執筆者紹介】


  • 仮屋賢一(かりや・けんいち)

1992年生まれ、京都大学工学部。
関西俳句会「ふらここ」代表。作曲も嗜む。