2017年1月27日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [竹岡一郎] / 大塚凱



  蟹星雲産んで溽暑のとほき股 竹岡一郎
超現実的な魔力を感じる一句だった。蟹星雲は牡牛座にある星雲。手元の広辞苑第六版によると、藤原定家の「明月記」と中国の記録とによって一〇五四年に木星ほどに輝いた超新星の残骸である、とのこと。ロマンあふれる星雲のことを、作者は考えている。その折り、「溽暑のとほき股」を見たのかもしれない。熱された大地のゆらぎの上に遠く立つ女。その生命が蟹星雲を産んだのかもしれない、と空想した。星雲を産むかのような女体の神秘は、星雲ほどの遥けさで我々と隔たっているのである。

2017年1月20日金曜日

【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [安里琉太] / 小野裕三



手花火に飽きて煙のなかにをり  安里琉太
ぽかんとした時空を詠んだ、ぽかんとした句。句の情報量はわりと少なくて、手花火から煙が出るのも、その煙の中に人がいるのも当たり前のことと言えるから、さらに加わる新しい情報と言えば「飽きた」くらいのことだ。しかし、このすかすかの情報密度が逆にいい。ぽかんとした気分と、それをとりまくぽかんとした時空が、ぽかんとした密度の情報形式にうまく反映されている。

【俳句新空間No.3】もてきまり作品評 / 大塚凱



 前述(編集部注:俳句新空間No.3の中の作品評)の大本義幸や仲寒蟬の作品と同様に社会性に富んだ作品であったが、本作は退廃的なナショナリズムがひとつの大きな主題である。特に寒蟬の作品が「国家と戦争」を詠んだ一方、もてきまりの作品は「国家と私」により焦点が絞られている。

  えゝ踊りみせて裸木病む国家
実際の景としては、裸木が激しい風に吹かれているのだろうか。作者はそれを「えゝ踊りみせて」と表現した。「えゝ踊り」からは、江戸末期の混乱の中で広がったかの「ええじゃないか」という民衆の狂乱を思わせる。作者の眼に映る「国家」には、飢えた四肢のような裸木のしずかな狂気が満ちている。主観的・主情的な把握が「裸木」に投影されているという構成が鮮やかである。「裸木」の「裸」という文字が絶妙に利いているのではないか。

  しのぶれど死者は戻らずドラム缶
上五中七は一種の定型的なフレーズも言えるが、そこに「ドラム缶」と接着したことで死者のイメージとドラム缶がオーバーラップされた。ドラム缶は死者の冷たさや重たさ、つまり物体としての死者を象徴するようであり、一方では、偲べども死者は戻らぬという事実に直面した徒労感や虚しさをどこか象徴しているかのようでもある。

2017年1月13日金曜日

【俳句新空間No.3】夏木久作品評/ 大塚凱


 本作は西行の和歌十二首を引用し、その一句一句に問答する形で計十二句が並べられている。西行の〈心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ〉に対して〈もうすでに自暴自棄なり百合鷗〉と遊んだり、かの著名な〈道のべに清水ながるる柳陰 しばしとてこそ立ちどまりつれ〉には〈墨東の柳にティッシュもらひけり〉と滑稽さで応えている。

   月を見て心浮かれしいにしへの 秋にもさらにめぐり逢ひぬる

  月光は土砂降り子らの踊り出し
この句の「踊り出し」を季語と捉えるかどうか難しいところだが、月光のなかで子らが踊に混じり出したと解釈した。「月光が濡れている」などの表現はかなり手垢がついてしまっているが、「土砂降り」まで言い切った大袈裟が良い意味で馬鹿馬鹿しい。

   吉野山こずゑの花を見し日より 心は身にもそはずなりにき


  鮮明な義眼の夢を水中花
不思議な句だった。義眼が水中花を見ている空想のようだが、義眼を水中花が比喩しているようでもある。そのわからなさが一種の魅力なのであろう。義眼のまなざしの向こうに、一輪の水中花が灯っているようだ。



2017年1月6日金曜日

【俳句新空間No.3】 真矢ひろみの句 / もてきまり



初夢の瓢箪鯰という構図 真矢ひろみ
瓢箪鯰は辞書に瓢箪で鯰をおさえるように、捕え所のない要領を得ぬ男をいうとあった。ここでは「という構図」とあるので、具体的な絵としての瓢箪と鯰であろう。初夢から滑稽まじる複雑な夢。具象画を提出しておいてアナロジーがいくらでもきく「という構図」。しかも中七のぬるぬる感を保証するべく下五で句の重心を効かせた技術的したたかさに感服。他句に〈三界の無明を照らす初茜〉凡夫が生死を繰り返しながら輪廻する三界(欲界、色界、無色界)の真っ暗闇が少しずつ茜色に染まりゆく。極めてアイロニーの効いた一句。