曾根毅の第一句集「花修」を読んだ。生硬であっても、概念が先行していても、作者の懊悩や焦燥がにじみ出す句集は、好感が持てる。それは私が、俳句を、五七五で原則は季語に縛られる、誠に不自由な詩形に於いて最大限の足掻きをすべき詩として捉えているからであろう。この句集は実に様々な試みを為しているのだが、まず目についたのは「概念としての世界」であった。
玉虫や思想のふちを這いまわり
思想というものは概念であるから、変化する。玉虫の色もまた光の加減によって変化する。だから、ここで「思想」というとき、作者は骨身を削る実体験が肉化したものという意味で使っているのではないと思う。知識人の、如何ようにも変化し得る相対的な思想について述べていると思われる。
暴力の直後の柿を喰いけり
柿の果肉の色を暴力に沿わせているのだろう。熟柿ならまだわかる。腫れ上がった頬や潰れた鼻や切れた口腔の内部などを思わせるからだ。しかし、「熟柿」と置くことも出来たであろうに、敢えて「柿」と置いた。果物の中でも特に果肉の生硬なものを。この句には暴力の具体性も方向性も無い。誰が誰にどのような暴力をふるうかの情報が一切ない。これにより句中の「暴力」は「暴力一般」という概念であると取らざるを得ない。作者が暴力の主体か、客体か、傍観者かという情報は示されていないのだが、暴力を行使した後に柿を喰らえる者が(詩として)俳句を作ろうとは思わないだろうから、主体ではないと思う。客体なら、そのような余裕があるとは思えない。ならば、これは傍観者として、暴力の余韻を感じつつ柿を喰っていることになる。「直後」という語が眼目か。暴力一般と柿を「直後」で繋ぐことにより、柿を喰う行為に暴力と通底するものを感じたのではあるまいか。暴力に対して距離を置ける余裕があるから、「暴力」という概念を置ける。机上ではない「暴力」は概念として捉える余裕など無い筈だ。暴力と名指しされる行為なら、必然的に死を内蔵する筈だからだ。これは、実際に暴力の只中に身を置いたことの無い者の目線ではあるまいか。柿が象徴するのは、未だ暴力を知らないという初々しい謙遜か、それとも暴力には染まらないという知識人の矜持か。私はこの句にも、この句を誉める人々にも、暴力が肉化していない事への苛立ち(或いは羨望)を感じざるを得ない。それでも「柿」と置かざるを得ない気持ち、暴力さえも概念と見たい気持ちは伝わるのである。
冬めくや世界は行進して過ぎる
行進せず、置き去りにされて傍観している如き作者の姿を思い浮かべるのは、「冬めくや」の寂しい上五による。戦争に向かってか、金儲けに向かってか、或いは良き明るい嘘っぱちの未来に向かってか、世界は軍隊のように、或いはデモ隊のように、或いは工場に向かう労働者のように、或いは崖に向かうレミングのように、決して個人ではなく、全体として、「行進して過ぎる」。それを見ている作者はその行進から外れ、或いは外れたいと思っている。それゆえの傍観なら、先の「玉虫」の句も「柿」の句も、敢えて概念として捉えることにより事象から離れていたいという、作者の姿勢を示すものとして納得できる。
原発の湾に真向い卵飲む
西東三鬼の「
広島や卵食ふ時口ひらく」の本歌取りであろう。攝津幸彦の「
チェルノブイリの無口の人と卵食ふ」も念頭にあろう。原子力災害と卵が良く衝撃するのは、卵が次世代の誕生の象徴であり、遺伝子情報の具体的な塊であるからだろう。作者の句も含めて三句とも、卵が作者に摂取される対象であるのは、被曝からは子孫も含め、誰も遁れることが出来ないからだ。
ここで鳩の句群を取り上げよう。
山鳩として濡れている放射能
西日中灰のごとくに鳩の群
少女病み鳩の呪文のつづきおり
闇に鳩鳴けば静かに火を焚かん
一句目は、福島の原発災害の句であろう。色々なものが放射能を発している、或いはセシウムを浴びているという句は数多ある。その中で、この句が容認できるのは山鳩の可憐さ、哀れさによる。高屋窓秋の「山鳩よみればまはりに雪がふる」を、昨今の状況を踏まえて、絶望と皮肉を以て詠えば、このようになろうか。この句の良さは、作者の「鳩」への思い入れに依るのではなかろうか。そういう言外の想いは意外と伝わるものだ。二句目の、灰の如く群れている鳩は、作者のばらばらにならんとする魂であるか。「灰のごとくに」とは、鳩を形容しているのであるが、実は西日の惨たらしさをも浮かび上がらせている。「灰は灰に、塵は塵に」と、基督教の埋葬の言を思い出しても良いだろう。三句目では、鳩は病める少女に為す術もなく近く在る。鳩のあの単調なリフレインである鳴き声を呪文と聴く作者は、鳩と一緒に呪文を唱えている。少女が癒えるようにという呪文でもなければ、少女の身代わりとなる呪文でもない。只、少女を見ている、それだけの行為が続くための呪文なのだと思う。四句目、これは句集の掉尾に置かれている句である。火を焚かんと志すのは作者、火へ向かう契機となるのは、鳩の、闇に鳴くゆえに永遠に続くような声である。鳩が作者であると読めば、それは一通りの読みなのだが、更に読み込むなら、句群中の殆ど動かないように見える鳩は、世界に対する昨今の人間一般の諦めた態度なのだ。やがて世界は闇に覆われるだろうし、もうすでに闇は晴れる事無く覆っているのかも知れない。そこで作者が志す行為はあくまでも「静かに」火を焚く事、静かに闇を照らし、闇の一部なりとも破らんとする試みである。(しかし、人間一般に留まっている限り、その試みはどこまで果たせるだろうか。)
この世には多く遺さず蟬しぐれ
啞蟬も天のうちなり震えおり
空蟬や開かれしまま忘れられ
今の若い人たちの明るい絶望感が伝わって来る。蟬は作者の自画像であろう。或いは作者を初めとする若い人たちかもしれぬ。「蟬しぐれ」とあるから、うるさいほど鳴いているのに、「多く遺さず」と観じている。確かに現実はそうであろう。ほとんどの者が虚しく滅びてゆくのだ。啞蟬、鳴かない蟬がそれでも鳴こうとして全身を震えさせているのを、「天のうち」と、「なり」の語まで使って言い切っているのは、啞蟬こそ天であって欲しいと作者が感じているからだ。空蝉が中が空洞のまま、それでも健気に蟬の形を保って、結局忘れられてしまうのは、そのまま今の一般的な人間たちの姿ではないか。蟬を真横に斬ると、腹は空洞なのである。空蝉と蝉はその空白度において、さして変わらないのだ。
時計屋に空蟬の留守つづきおり
空蟬とは、そもそも不在の物だ。羽化した後に遺された皮なのだから、不在も何も、打ち捨てられたものなのだが、其処に不在を感じるのは、蟬の形が翅以外はそっくりそのまま残っているから、又たとえ戸外に有ろうと腐りもせず一年以上も残っているから、いつか何かが帰って来るかもしれぬ錯覚を起こすからだ。空蟬とはリアルな不在、不在の具現化と言っても良い。そこに更に「留守」という語を重ねる。強調されるのは、いつか留守は終わる筈で、いつか蟬の本体が帰って来るという思いである。そのいつか終わるべき不在は時計屋を舞台に展開している。時を司る店というだけではなく、嘘の時間と本当の時間が混ざりあう場所であり、止まった時を再び進め、進み過ぎ或いは遅れ過ぎた時間を一旦止めて修正する場所でもある。ならば、蝉の本体とは、時を意識するもの或いは他者に時を意識されるものであり、即ち、作者か世界あるいはその両方であろう。
だから、多分、作者はまだ諦めていない。だが、これまで挙げてきた殆どの句に見られる受動性を鑑みるに、作者は植物的人間なのであろうか。
永き日や獣の鬱を持ち帰り
この句を読む限り、そうでもないのかもしれぬ。しかし、本当に野獣なら、わざわざ獣の鬱を意識する事はないだろう。獣は、その兇暴が発動した後に、或る虚無感と己が馬鹿馬鹿しさに鬱を発する。「獣の鬱」とは、荒ぶった後に訪れる獣の理性であろう。本来、獣臭がしない作者であるからこそ、獣の鬱を「持ち帰り」と意識するのだろう。
啄めるものに囲まれたる朝寝
朝、外では様々な鳥が鳴いている。それを蒲団の中で聞いている。鳥たちは朝、食べ物をあさっているのである。何をあさっているのか。実は鳥は至近距離にあるのではないか。寝ていると思っている自分は、実は死んでいて、鳥たちはこれから自分を啄むべく囲んでいるのではないか。そんな思いがよぎる。
五月雨のコインロッカーより鈍器
この句には、先に挙げた「玉虫」、「柿」、「冬めく」の句には感じられなかった、或る肉化が感じられる。つまり、思想、暴力、世界を詠った句にはない、或るリアリティが感じられる。ここに作者の思想、暴力、世界観は明瞭に浮かび上がっているなら、作者の秘められた実感は一種のアナーキズムに有るだろうか。「五月雨」は作者の鬱屈であり、「コインロッカー」は平均化された区別のつかない心であり、「鈍器」は勿論、暴力衝動である。この句が優れているのは、概念として世界を見る事から踏み込んで、生の欲望を暗喩しているからと取れる。或る切迫した心情が期せずして浮かび上がっていて、俳句には類型の安心感でなく、生の血肉と叫びが見たいと希む私は、こういう句を評価する。鈍器が如何に使われるか、その有様まで示してほしいものだが。
消えるため梯子を立てる寒の土
やはり天に憧れ天に消えたいと思うから、梯子を立てるのか。「寒の土」が悲しい。地上は寒々としているがゆえに、一層天への憧れが強まるのである。しかし、天は地上よりもなお寒く、それは重々承知の上で、それでも此処ではない何処かへ行きたいと思うのだ。ここに先ほど挙げた「鈍器」の句と同じようなリアリティを感じるのだが、してみると、あの鈍器は天に向かっては梯子であるのか。
我と鉄反れる角度を異にして
「反れる」という現象を反逆、反発などの心情として捉えるなら、自分と鉄とは、反発、反逆する角度が異なると言っているのである。鉄とは現在の文明の基礎であり、鉄を熱し、溶かし、叩くことにより、文明は発達した。鉄は、最初は戦争の為の武器として、次に恒久性のある生活用品として、更に遠くへ行き活動範囲を広げるための乗り物、今ならば、自動車や船や飛行機として欠くことの出来ないものだ。その文明の基礎である鉄と、自分は「反れる」とき、言い換えるなら自我を出すときの角度が異なるという。現在の世界から一歩距離を置く表明なのだろう。
引越しのたびに広がる砂丘かな
ここに詠われるものも、おなじく世界に対する視線である。引越しを繰り返すのは、落ち着けないからであろう。仕事の関係か、自分の意志かは知らぬが、たとえ仕事の関係だとしても、人間はその深層意識が望むものだけを手に入れる。ここではない何処かを絶えず作者は望んでいるのだが、そのどこかへ移り住む度にますます砂丘は広がる。それはそうであろう。一回引越す度に、ここもまた違うという場所が増えるから、そして「此処は違う」という意識が世界を砂丘と見做しているのだから。これは人間の普遍的な虚しさを示している。今ある夢から次の夢へと飛び移り、それが夢であると理解すれば、また次の夢に移る。諸法無我、とは、世界には実体がない意だが、それに気づかずに足掻くさまを詩的に表現すれば、掲句の如きとなる。
祈りとは折れるに任せたる葦か
人間は考える葦である、という。生物の内で、祈るのは人間だけであろう。人間だけが、止むに止まれずに、祈る対象を想定する。「折れるに任せたる葦」と定義する事により、作者は祈りを、無抵抗に等しい受動性として捉えている。植物とは受動するものである。少なくとも鳥獣虫の在り方から見れば、遙かに受動的である。(尤も、長い時間で見れば、植物の能動性は極めて緩慢ではあるが広範囲に及ぶ凶暴なものであろう。)ここで、作者が人間にしか出来ぬ祈りというものを、植物的なものとして捉えているのは面白い。それは即ち、作者が自身を植物的人間であると告白しているようなものだからだ。
作者が植物的人間であると仮定して、
落椿肉の限りを尽くしたる
徐に椿の殖ゆる手術台
これらの生々しさを見事と思うのだ。植物に仮託して、初めて自身の肉化が示される。夥しい落椿の花弁を「肉の限り」と観ずるのは、椿の目線に立っていなければ出来ない。血が噴き出て肉が切り刻まれる場所である手術台にゆっくりと椿の花が増殖してゆくイメージもまた然り。
凭れ合う鶏頭にして愛し合う
一見、可憐に見えて、実はおどろおどろしくさえある恋愛を描写している。庭園の植物たちは、虫や風へ向かって大股に性器を晒し遠くの恋人たちと無差別に生殖し、根で以て喰らい合い、枝葉で以て愛撫し合い憎み合い、立ち尽くしたままその死体を晒す。ならば、掲句の鶏頭の肉厚の暗紅の夥しく重なり捩れつつ凭れ合う花達の、何と淫靡な事か。
くちびるを花びらとする溺死かな
入水のオフェーリアを思う。「花びらをくちびるとする」なら、溺死して流れゆく顔に花が降りかかるのだが、「くちびるを花びらとする」のであるから、実景に流れてゆく人間が居ようが居まいが、作者の心は花にあり、花の目線に立って、花の気持ちを詠う。
恋愛の手や赤雪を搔き回し
この不思議な句も、花よりも更に儚く、本来、天に属している筈の雪を肉化していると読めば、納得出来ない事も無い。肉と見るから、雪は赤く見えるのである。肉と見るのは雪の恋愛を思うからで、だから、正確には作者の恋愛の手で掻き回すとき雪は肉化して目に赤と化す、言い換えるなら雪が作者の、又は作者が恋する対象の肉として映るのである。
さて、人と生まれたからには仏陀とならねばならぬ。仏陀が最上のものであるからだ。と、踏まえた上で、作者の植物との自己同一化を観じた上で、次の句を読もう。
春すでに百済観音垂れさがり
何処にも花とは言ってないが、春の法隆寺、飛鳥仏たる百済観音を最も荘厳する日本の事物は、やはり桜であろう。「すでに」の一語で、満開の様を暗喩し、「百済観音」に桜のたおやかなる立振りと飛鳥仏特有の初々しい優美さを重ね、「垂れさがり」にその姿態と衣の流線型と手に持つ水瓶を描写すると同時に、垂れる枝に咲き充ちる花を想起させる。即ち、満開の枝垂れ桜である。それが百済観音の魂か。更に、法隆寺夢殿には有名な枝垂れ桜があり、その本尊は同じく飛鳥仏である救世観音である事を思うなら、枝垂れ桜を通じて大宝蔵院の百済観音と夢殿の救世観音が境内に響き合い、一体化する。ならば、この句は飛鳥なる磁場を詠んだものとも取れまいか。
ここで句集の冒頭の句を挙げる。
立ち上がるときの悲しき巨人かな
巨人の句の系譜が俳句にはある。高浜虚子の「草を摘む子の野を渡る巨人かな」、或いは、安井浩司の「稲の世を巨人は三歩で踏み越える」を思う。ここで「巨人」とは、人間を超えるもの、或いは超えんとする意志だ。その「巨人」を句集冒頭に持ってきた、その意図を素直に信じるなら、遠からず作者は二者択一を迫られることになろう。枠組みに許容されて平均的作家になるか、枠組みを超えて巨人たらんとする意志を貫くか。「悲しき」は謙遜であるか。立ち上がるから悲しいのだが、逆に、悲しいからこそ立ち上がる巨人とも見えよう。願わくば、どうか決然として孤独に歩み給え。孤独だからこそ、巨人を志さざるを得ないのなら、その気持ちは佳い。
【執筆者紹介】
昭和38年8月生れ。平成4年、俳句結社「鷹」入会。平成5年、鷹エッセイ賞。平成7年、鷹新人賞。同年、鷹同人。平成19年、鷹俳句賞。平成26年、鷹月光集同人。現代俳句評論賞受賞。著書句集「蜂の巣マシンガン」(平成23年9月、ふらんす堂)。句集「ふるさとのはつこひ」(平成27年4月、ふらんす堂)