小鳥来る我が煩悩と遊ぼうよ
「煩悩と遊ぶ」ということがどのようなことなのか僕にはわからない。わからないが、この句からは右肘を膝につき、さながら「考える人」のかたちで小鳥を眺めているような人物が見えてきたのである。どこか孤独なこころが小鳥の存在を求めているかのような詠みぶりだ。その一方で、「遊ぼうよ」にはなげやりで自虐的な含みをかすかに感じるのである。
東京は春鍵盤のビルの海
都会がビルの海であるという把握には既視感を感じるが、「鍵盤」という一語が句を豊かにした。黒鍵と白鍵のような街の陰影、春の音色などが感じられてくる。
本作品は他の二十句作品とは異なって、十句作品と「『桜』に見る季語再考」という文章から成っている。せっかくなので、文章にも目を向けたい。歳時記が春夏秋冬で区分されていることで「季節の多様な世界を俳句では詠めない」と述べた上で、沖縄での季感を異にする大和・江戸での季感で歳時記が決定されている現状を「中央集権的」だと批判している。前掲した「小鳥来る」の句が〈出稼ぎの父と雪来る上野駅〉と〈桜ひとくくりに活ければ 日の丸〉の間に並べられていることはその批判に基づくのだろうか。しかし、「上野駅」の直後であれば「小鳥来る」は東京であると解釈するのが自然であり、この句順はむしろ東京における「季節の多様な世界」に背いている。季節の変遷を、句を読み進めるスピードに伴って表現できることが、連作形式のひとつの効用であると僕は信じている。沖縄特有の季節感も同様に表現可能だろう。「季語再考」を謳うのならばせめて、この十句作品でそれを貫くべきではないだろうか。