2016年5月27日金曜日

「俳句新空間」(第3号)20句作品を読む/小野裕三・もてきまり



▲俳句新空間第4号(第3号作品評)より


●俳句帖鑑賞/小野裕三

手花火に飽きて煙のなかにをり  安里琉太
ぽかんとした時空を詠んだ、ぽかんとした句。句の情報量はわりと少なくて、手花火から煙が出るのも、その煙の中に人がいるのも当たり前のことと言えるから、さらに加わる新しい情報と言えば「飽きた」くらいのことだ。しかし、このすかすかの情報密度が逆にいい。ぽかんとした気分と、それをとりまくぽかんとした時空が、ぽかんとした密度の情報形式にうまく反映されている。

夜店の灯平家の海を淋しうす  中西夕紀
栄華と零落。平家の血を彩る波乱の物語は、日本の風土のどこかに深く刻まれているのだろう。都が栄華という光の部分を象徴するものであれば、海は零落を想起させる影の場所だ。そして夜店もまた、たくさんの影に囲まれた小さな光の場所である。その対比を誰もが知っているから、夜店の明るさはどこか切ない。夜店を愉しんだ人はみな、巨大な夜の暗がりに押し戻されていく。まるで平家が落ち延びていった、あの海のような淋しさへ。

家族皆カレーはインド秋うらら  澤田和弥
この句は、いわゆる上手い句ではないだろう。家族とカレーとインドの関係はそれぞれいかにも近いし、と言って秋うららの季語も微妙な距離感だ。要するにいわゆる上手に計算された句ではない。なのだが、この凸凹した感じが、どこか俳句の生理に引っかかる。俳句の神経をざわつかせる。いかにも俳句的に消化されてしまうのを拒否しつつ、しかもどこかで俳句的構造を知悉している、そんな句だ。直接の面識はない作者だが、若くして急逝されたとのこと。謹んでご冥福をお祈りする。

風呂の中繋がっている冬の川  川島ぱんだ
一読した際に、「なるほどいいところを見ている」と感じたのだけれど、よく考えるとそんなはずもなくて、特に冬の冷たい川ともなれば、風呂と川が繋がっているはずもない。だとすれば、ぱっと句を見た時の印象として「いいところを見た」と思わせた、この不思議な錯覚は何なのか。きっと騙し絵みたいなもので、この言葉の配列をこの視点から見た時にしか、その錯覚は成立しないのだろう。なにやらカラクリめいたセンスが光る句。

厚着して紙を配つてゐる仕事  佐藤りえ
紙を配る仕事というのは基本的には単調な仕事のはずだ。仕事、という言葉でぶっきらぼうに句が終わるのは、そんな苛立たしさを言葉の行き止まりにぶつけているようでもある。だが、そんな気持ちとは裏腹に、手の動きに正確に正比例して紙束の山は着実に減っていく。そんな気持ちの停滞と物理的な進捗との間を繋ぐのが、その作業を執り行う肉体だ。なんとも板挟みのような肉体は、ただ厚い衣服に包まれるばかりだという。そんな幾層もの温度差の行き違いに、洒落た諧謔性の見える句。

●初春帖(二十句詠)鑑賞/もてきまり

火星人八手の花に隠れたり 網野月を
この「火星人」という唐突さが面白かった。八手は葉が大きく日影好みの植生である。あの裏には火星人が手だけ隠せずに身を隠しているような気がして来た。そう、あのロボットの触針のような八手の花は火星人の手かもしれない。他に〈わたくしはMr.不器用日数える〉網野さんのおおらかさを想った。

夕暮れがきて貧困を措いてゆく 大本義幸
「夕暮れ」の擬人化。「貧困」という観念の物質化に成功している。昼間は、人それぞれに生きるに忙しく、やれやれと一息つく夕暮れ時になるとなにやら佇まいの貧しさが気になるのである。あるいは人類の夕暮れ時、類としての貧困がどんと卓上に課題として措かれていく意にも取れる。時間的な遠近法といい、こうした句は作れそうでなかなか作れないものだ。他に〈ノンアルコールビールだねこの町〉日本中、どこへ行っても、やや安普請のノンアルコールビールふう町並が増えた。

久々に叩きをかける山眠る 神谷波
ここでは何に叩きをかけるのかが省略されていている事が面白い。最初布団に叩きをかけるのかなと思ったが、いや自分自身に喝をいれる意の顔に叩きをかけるかなとつぎつぎと想像してしまう。されど人が何をしようと「山眠る」。中七の「叩きをかける」の終止形と「山眠る」の二連続の「る」が句に強靭さを与えた。他句に〈初夢の鶴につつかれ覚めにけり〉そりゃあ、あなた、あの鶴の口ばしでつつかれたら起きてしまいますよ。しかし、その鶴は初夢の中のめでたき鶴で、良き目覚め。

水鳥の副葬品のごとき声 坂間恒子
うーん、秀句なり。水鳥のあのいっときも整わない群れの鳴き声と遠い時代の副葬品が発見された時の(人骨の一部やら壺の破片やらがばらばらに赤土に現れた)光景とがオーバラップしたのだ。水鳥の声(音)を「副葬品」という景(絵)に転換させた感性がすばらしい。ごとき俳句はいちようにダメなんてことはない。そうしたタブーを乗り越えている。〈のぼる陽と我の真中の浜焚火〉二〇一一年の津波後を非情にも繰り返し「のぼる陽」(極大の赤)と内在化された言葉の「我の真中の浜焚火」(極小の赤)が拮抗していて緊張感ある一句を仕立てた。

ひとしきり泣いて氷柱となるまで立つ 佐藤りえ
たぶん、若松孝二監督「実録・連合赤軍あさま山荘への道程(みち)」という映画が下敷きになって構成した二十句。一句独立の視点で読むと、この句が物語から離れても句として最も立っている気がした。「ひとしきり泣いて」という肉体性(生)から「氷柱となるまで立つ」という精神性(死)の隠喩が決まった。他句に〈霜柱踏み踏み外し別世界〉求心的な組織に、間違って入り込んでしまう悲劇。赤軍でなくても、いじめ学級やブラック企業、カルト等、どこまでも人間が抱え持つ闇というものなのだろうか。

民草のひれ伏す上を手毬歌 仲寒蝉
民草は民の震えるさま(おそれおののく)を、草に例えていう語。そのひれ伏す上を繰返される「手毬歌」。この手毬歌はピョンヤン放送、北京放送のようにも思えたが、ひれ伏すまではいかぬものの民草が萎びつつある某国のN□Kのようにも思えた。妙に怖い「手毬歌」。他句に〈若水を闇もろともに汲み上げぬ〉初詣の折に若水を柄杓で汲む。まだ明けやらぬので「闇もろともに」汲みあげた。この「闇」が戦前という闇に繋がらぬよう願うばかりだ。

土門拳亡し石炭の山もなし 中西夕紀
写真集『筑豊のこどもたち』を出した土門拳も今は亡く、またモノクロに映っていた石炭の山(ボタ山)も今はもう緑の山なのだが、土門拳と言えばモノクロ。石炭の山と言えばモノクロを想起させ、又、その述語で「亡し」「なし」と畳みかける技がすぐれて妙。他に〈彼岸から吹く北風もありぬべし〉子規、最晩年の〈鶏頭の十四五本もありぬべし〉を遠く想う。子規(死者)のいる彼岸から吹く北風もあるだろうなぁというほどの意だが、彼岸から此岸へ俳句という現場に吹く北風は厳しい。

死者係御中こちら八手咲く  秦夕実
いくら長寿社会になれども、実際、七十歳を超えるとまわりに冥途へ発つ人が多くなる。そんな中、あちら様へ「死者係御中」と封書おもてに書いた。中の文面は「こちら八手咲く」つまりまだまだこちらで頑張る決意。季語「八手咲く」のみごとな使用例。題は「おさだまり」つまり「御」「定」で、最初の十句には「御」、あとの十句には「定」が兼題として入っている。冥途に発つ前に「御定(おさだまり)」ではあるが俳句でおもいっきり遊ぼうという隠し味。最後の句は〈冥府への定期便出づ木菟の森〉。

葱の鞭ときおり使う老婆いて 福田葉子
俳の象徴としての葱、それを用いての鞭。若い衆に使うのか自らに使う鞭なのか、たぶん両方に使っている。最近の老婆はとても老婆とは言えず、福田さんはもちろんのこと、金原まさ子さんはじめ、姿勢は良いしPCはこなすし、疲れた初老を凌ぐ。年を重ねることで世界の多様性に気付き自由になれる力というものがあるのではないかと最近思う。で、この鞭はけっこう痛い。他句に〈初蝶のかの一頭はダリの髭〉クールな銀の額縁に入れギャラリーに飾りたいくらい、おしゃれ。

成人の日硝子切る音どこよりか ふけとしこ
「硝子切る音」とは思わず耳を塞いでしまういやな音がするものだ。その音が成人の日にどこよりかすると云う。式典で市長がブチ切れ、騒ぐ新成人に「出て行きなさい!」と怒鳴ったニュースなどが記憶に新しいが、成人の日は祝日であるものの不穏な日。他句に〈日脚伸ぶ宗右衛門町に研師来て〉「日脚伸ぶ」という奥行きを与えられて「宗右衛門町(そえもんちょう)」「研師」という輪郭線の太い木版画のような一句。

声のみをまじわらせおる花すすき 堀本吟
「花すすき」穂がでたすすきに出会うたびに、いにしえ人がすでに白髪となり老婆老翁となり群立っているように見える。中にはあの五百年生きている安達ヶ原の鬼婆もまじっているように思えるのは私だけだろうか。そこは、古語ともつかぬ声がかすかに聞こえる幽玄の世界。他句に〈その真ん中に空蝉の観覧車〉「その真ん中に」なので都心梅田ファションビルのあの真っ赤な観覧車か。観覧車のゴンドラを「空蝉」に見立てた吟さんの内的世界を想う。


苔むして落葉の中のタイヤかな 前北かおる
題は「日光・湯西川」。古タイヤは再利用されよく小公園などで見かける。見ると落ち葉の中のタイヤが「苔むして」いた。キッチュな景の発見。他句に〈踏む人のなくて汚き霜柱〉句意は明瞭。「踏む人のなくて」というひねりが効いて、自然界「霜柱」を堂々と「汚き」と詠む。この眼差しはなかなかに貴重。嘱目吟とは不条理劇の一場にあるリアルさとどこか通ずるような気がする。


初夢の瓢箪鯰という構図 真矢ひろみ
瓢箪鯰は辞書に瓢箪で鯰をおさえるように、捕え所のない要領を得ぬ男をいうとあった。ここでは「という構図」とあるので、具体的な絵としての瓢箪と鯰であろう。初夢から滑稽まじる複雑な夢。具象画を提出しておいてアナロジーがいくらでもきく「という構図」。しかも中七のぬるぬる感を保証するべく下五で句の重心を効かせた技術的したたかさに感服。他句に〈三界の無明を照らす初茜〉凡夫が生死を繰り返しながら輪廻する三界(欲界、色界、無色界)の真っ暗闇が少しずつ茜色に染まりゆく。極めてアイロニーの効いた一句。

西行をクリックすれば花ふぶき 夏木久
夏木さんのPCのデスクトップには「西行」というアイコンがあり、そこをクリックすると「花ふぶき」のごとく沢山の作品がでてくる様子を想像した。最近、『神器に薔薇を』というハンドメイドの句集を上梓されたのだが、句集自体そのものがオブジェのようであり、所収されている句も攝津幸彦が生きていたら、思わずニヤリとするだろう句が並んでいる。他句に〈鮮明な義眼の夢を水中花〉「鮮明な義眼の夢を」というひねりようといい、下五の「水中花」をさらにゆらゆらと揺らす効果として格助詞「を」で切る技が冴えている。季語を手放すことなく前衛的な試みをしている作家だ。


桜ひとくくりに活ければ 日の丸 豊里友行
沖縄の桜は緋色で、一月末頃から咲きほこり、それはソメイヨシノの満開とは全く違う赴き。生きているうちに一度は見ておきたい光景の一つだ。豊里さんは沖縄の写真家で俳人。季語ということに中央主権的なものを感じ、それに強く違和を表明している。他句に〈撮始めみんな月と太陽(ティダ)のワルツ〉彼の撮る被写体はさぞいきいきとした静止態として仕上がるのだろう。明るい躍動感が伝わる。確かに沖縄の太陽は本土のとは違う「ティダ」なのだ。又、沖縄へ行ってみたい。


チリ紙・水・電池を積みし宝船 北川美美
東日本は、本当に地震が多く宝船も時代により載せる荷物が違ってくるのだ。今は非常時持出し袋の中味であるチリ紙・水・電池などを積んでいるという諧謔。他句に〈重箱の中はしきられ都かな〉年末、デパートなどで予約するお重などは細かく仕切られている。下五の「都かな」と表現されたことでまるで京の都のような料理の華やかさが目に浮かぶ。


アガペーもエロスもつどへ盆をどり 筑紫磐井
おおまかに言えばアガペーとは神の愛、無償の愛。エロスは異性間にある愛と言えるか。まぁ、ここでは色々な愛が集え(命令形)と言っている。そして「盆をどり」をご一緒にということなのだ。この「盆をどり」とは、句会、吟行、結社、同人誌の集い諸々である。俳句は、奇しくも他者がいなければ成立しない表現形式なのだ。加えて〈一流であつてはならぬ俳の道〉なるほどと思った。俳句で一流、二流というのはないのかもしれない。大先生も、時にとてつもない駄句(しかし駄句の魅力というものはある)を発表するし、攝津幸彦のように母上(攝津よしこ:S55角川賞受賞・代表句〈凍蝶に夢をうかがふ二日月〉)に攝津の句を電話で披露したら「なんだい酔っ払いの句かい?」と言われたエピソードなどを思い出した。この無記名の句が真ん中にある表現形式の不思議さとその恩寵のようなものをいつも感じさせられている。 


 顧みてみれば、私のような者が、俳句歴の長い諸先輩の俳句を怖いもの知らずとはいえ、よくもまぁ、書きまんな~と(なぜか突然、関西弁で)私の中の誰かが呟く。ふだん怠惰な私に、このような機会を頂き、読むという事により大変勉強になった事と、最後の磐井氏の二句には勇気付けられた事を申し添えて終りとしたい。深

2016年5月20日金曜日

【俳句新空間No.3】神谷波作品評 / 大塚凱



 「師走」から新年詠を経て「木守」まで。新春帖に相応しい、去年から今年への移り変わりを真正面から詠んだ二十句作品である。

  大声に師走の猿の逃げつぷり
作品の第一句目。「走」と「逃」は連想としてはやや手近なところではあるが、簡潔な述べ方が良い。「逃げっぷり」の「っぷり」が師走の猿の様子をユーモラスに想像させてくれる。

  数え日の棚からだるま落ちてくる
前掲の句に続く二句目。棚からだるまが落ちてくるという、何とも言い難い「数え日」感。生活に即しているような軽い詠みぶりが、魅力的である。続く〈あまりにも近すぎ除夜の鐘の音〉と続くところを見ると、ユーモアにあふれた作風であると評価したい。他の句はおそらく旧仮名遣いで書いているので、「数へ日」に正したいところではある。

  鷹晴れと呼びたきほどの二日かな
「鷹晴れ」という表現も、作者独特のものである。晴れていることのめでたさは誰しもが感じ得るところ。「鷹晴れ」という言葉を得たことで、そのスケールの大きさを生んだ。「二日」は、まさに種々の物事をはじめるべき日。なんと良い一年を予感させてくれることだろう。



2016年5月13日金曜日

【俳句新空間No.3】 大本義幸作品評 / 大塚凱



 二十句の連作作品として、貧困や災害、老いといった社会的な主題性に富んだ作品であった。

  年収200万風が愛した鉄の町
上五の「年収200万」にやや饒舌な印象をもったことや「風が愛した」という表現にお洒落すぎる危うさを感じたことは否定できないが、「鉄の町」と止めたことで句になった。風に吹かれている人物まで、景が立ちあがってくるようだ。

  やわらかき右脳路地裏の猫よ
誰の右脳がやわらかいのか。作者か。人間みんなか。猫か。否、右脳のやわらかさのイメージが、「路地裏の猫」にオーバーラップされているように読みたい。猫はやわらかに、しなやかに、苦しみに満ちた人間の生活の端っこで自らの生を営んでいる。そんなぼんやりとした生き様の猫に、一種の救いを感じるのだ。

  天災と朝顔ポストは右へと曲がる

 この連作の中で最も惹かれた句であった。とある路地に、朝顔が咲いている。おのずから、曲がって捻じれている。この町ではポストもまた、天変地異によって右曲りになってしまったようだ。朝顔とポスト、この異質な二物の姿が重ね合わせられている歪さに惹かれる。天災という見えない力が、街を歪めてしまったのか。

2016年5月6日金曜日

抜粋「俳句新空間」(第1~2号)20句作品を読む/小野裕三・もてきまり



「抜粋広告」を載せ始めたので、自分自身である「俳句新空間」の広告も載せてみようと思う。「俳句新空間」では前号作品評を載せているが、特に小野裕三氏、もてきまり氏は、時代性をもったユニークな作品評を毎号書いて頂いている。

雑誌になった記事であるが、雑誌を読んでいる人も少ないし、雑誌そのものが捨てられたりしているから今こうした形で再読することも意味があるであろう。

意外な平成の名句が潜んでいるかもしれない。

20句作品(新春帖、夏行帖)を中心に読んでみる。   

(記と稿選:筑紫磐井)

▲俳句新空間第2号(第1号作品評)より

★小野裕三選評(2014/03/31『俳句新空間No.1』)

 鳥は風つないで来たり冬木立     内村恭子 
 神のみな目の垂れてゐる宝船     しなだしん 
 日が落ちて正月映画回り出す     三宅やよい 
 田楽が田楽のまま冷めてゐる     太田うさぎ 
 三面鏡蝶を押し潰してしまふ     仙田洋子 
 雲行きに早々しまふ氷旗       小早川忠義 
 パソコンときゆつと消えけり春の闇  中西有紀 
 ワイシャツの父が舟漕ぐこどもの日  三宅やよい 
 かき氷メニュー三十全て読む     小沢麻結 
 扇風機部屋中の書の付箋そよぐ    関悦史 
 順接の団扇逆接の扇風機       三宅やよい 
 大なるを月小なるをたましひと言ふ  仲寒蝉 
 見られてしまひ蜩が木の裏へ     西村麒麟 
 山眠る間際のひかり一人占め     近恵 
 手にとりて鈴のごとくに冬の鮨    外山一機 
 貸衣装に身体を通しクリスマス    藤田るりこ 
 聖夜劇ほんものの馬引き出さる    仲寒蝉 
 皺くちやな紙幣に兎買はれけり    中西有紀 
 双六に勝つ夭折のごとく勝つ     堀田季何

 俳句新空間と書こうとすると、俳句真空管と変換してしまうのがちょっと面白い、新雑誌。「ブログから紙媒体へ」ということを意図したということだが、ブログの方で興行的(?)に開催された「歳旦帖」以下のシリーズは、僕も欠かさず参加させてもらっている。ブログに投稿されたものをまとめて発表しているだけ、と言ってしまえばまあそれまでなのだけれど、なんとなくそれ以上に企画性というか、盛り上がり感があって面白い。時を追うごとに参加者が少しずつ増えてもいるようで、そんなことも盛り上がり感を密かに支えている。なんとなく、〝風狂〟という言葉がぴったり来るような印象を持ったのは僕だけか。

 この企画は、「江戸時代」ということを強く意識しており、江戸からインスパイアされたことを文字通り現代に蘇らせている。まさしく江戸の時空へと向かってするすると釣瓶を落としているわけだが、僕はその行為自体にどこか共感する。俳句は古い文芸であると言いながらもどこか明治になって再整理されたようなところがあって、そのパースペクティブは強く明治によって規定されている。そんな明治なんて知りませんよとばかり、すっとばして江戸にアクセスする。

 実は日本古来の伝統のような顔をしながら明治になって作られたものである、というものは数多い。典型的なものが国家神道としての神道だ。西洋に対抗するためのひとつの支柱として作られたそれは、日本の伝統という顔をしながらも〝キリスト教の日本国版〟みたいな印象がどこかにある。議論の多い靖国神社も、明治になって作られたもので、歴史的には実は新しい部類に属する。明治から昭和初期までの天皇制も、言うまでもなく日本古来のものというよりは、プロイセン王制やあるいは中華思想を摸したものという面が強い。そのように、明治になって新たに時間を遡行するかのように〝日本の伝統〟として再編されたものは数多い。そして言うまでもなく、そのようなものの同列に俳句もある。

 だから私たちが江戸の俳句について直接考える時、つまり明治の視点を通して再編された芭蕉や一茶を見るのではなく、そのような明治的パースペクティブを排して江戸の俳句と直接に繋がる時、どこか気分に解放感が漂う。その解放感は極めて本能的なものかも知れないが、俳人の本能としては正しい本能でもある。さらに言うまでもないが、太陽暦に変わる以前という意味で、そこでの季語の含意もまったく違う面がある。だから、江戸に惹かれるという俳人の本能はいろんな意味で正しいと感じる。

※小野裕三公式ブログ『ono-deluxe』
http://www.kanshin.com/user/42087より転載

▲俳句新空間第3号(第2号作品評)より
★「俳句新空間NO.2」特別作品鑑賞/もてきまり

風が喰(は)む硝子の歯ぎしりブラザー軒 大本義幸

 その昔、いぶし銀のような声の高田渡というフォーク歌手がいて「ブラザー軒」を歌った。〈♪東一番丁ブラザー軒♪硝子簾がキラキラ波うち〉その向こうには死んだ親父と妹がいるというような設定の歌詞だったと思う。〈高田渡的貧しい月がでる〉無欲天然のその声にはファンが多かった。そしてカメラは急にパンして作者の現在形に。〈わっせわせ肋(あばら)よ踊れ肺癌だ〉〈さらば地球われら雫す春の水〉私達もいずれは「雫す春の水」なのだが、「わっせわせ」と自分の癌を皮肉な手つきであやし、句をむしろ明るい絶望に化けさせた。耕衣の言葉を借りて言えば自己救済と他己救済が同時になされている秀句だ。

水無月の汐留駅は黄泉の駅 秦夕美

 確かに地下にある駅は、夜昼の区別なく煌々と照明がつき、まして雨の季節ともなると濡れた傘と雨に裾などを少し汚した人々が行き交う景は背景に雨が見えないだけに虚構の舞台のようで、なるほど黄泉のようだ。そんな中、自画像として〈ぽつねんと私雨の鉄砲百合〉異界にまぎれこんでぽつねんとしながらもあちこちと首をふり観察を怠らぬかのような鉄砲百合的痩身の作者を想像してしまう。そして〈波布と会ふたそがれ熱のままの指〉「波布」とはあの猛毒の蛇のことだ。この句には妖気ただようエロスがあり凡者には怖いほどだ。

夏木立ルソーを蒼くぬってみる 神山姫余

 眼前には夏木立がある。それを表現しようとすると作者の潜在意識にあるアンリ・ルソー(あの素朴派ともいわれた葉の一枚一枚に輪郭線を克明に画き、同時代の潮流とは遠く隔たっていた画家)の絵がせりあがってきたのだ。そしてルソーの絵の中の葉を作者が持っている内面的なパレットから「蒼」を選び出しぬってみるというほどの句意なのだが、夏木立を二重、三重の位相で表出しながら不思議なさやけさがある。他に〈若鮎の眼の中にある死界かな〉〈終戦記念日 無数の針が立っている〉等、異界から覗こうとする眼(まなこ)の持ち主としての姿勢を感じた。 

品なしと鯰が泥鰌笑ひけり 仲寒蝉

 〈泥鰌浮いて鯰も居るというて沈む 耕衣『悪霊』〉の本歌取りである。が、観察眼の効いた皮肉な表現がたまらなくうれしい。実は鯰も泥鰌も句会仲間。で、おのずと鯰は太り気味なので動作が遅い。そこいくと泥鰌は感性的にもすぐ反応し軽い身のこなし(たぶん女性陣にも評判がいい)。そこで鯰氏は泥鰌氏のことを「品なし」と言って「笑ひけり」。この「けり」が物語の虚構性に一役かっていて妙。〈釣り人の夏を釣らむとしてゐたり〉の良質な俳味。〈浮巣から見ゆる自分がまざまざと〉と詠む作者の立ち位置はなかなかにクールなものだ。

一時間時計をもどし街薄暑 前北かおる

 「香港」という題がなければ、一瞬「えっ!」と思うのだが、なるほど香港時間は日本より一時間ほど遅いのだ。でも俳句って一句独立で読ませるので、この句はなかなかに不思議なテイストを持っている。外部=内部という世界観からか、作者は多作な写生派。その多作の中にコツンと日常の結界に言葉がぶつかる時がある。〈ぶらんこを捨てて帰国の荷を詰めに〉の「ぶらんこ」がそんな例だ。カシャと撮ったスナップ写真に作者さえ意図しない無意識の領域の小道具がバッチリ映る面白さがある。(尚この詳細は『断想』関悦史「ロータス25号」参照の事)

誘拐現場十薬の花の浮き ふけとしこ

 まず俳句現場ではあまり見かけない「誘拐現場」という言葉に「えっ」と思わせるものがある。俳句用語に作者の既成概念のなさを感じた。そして「十薬の花が浮き」とは襲ってくる人の恐怖心をアナロジーしていて、それを宙吊りにしたままの終わり方もうまい。〈包帯の伸びきつてゐる夏野かな〉この句もたぶん夏野を前に洗濯物として伸びきった包帯が干してある光景なのだろうが省略効果からか、夏野と伸びきった包帯がフェイドイン、フェイドアウトしてまるでヌーヴェルヴァーグの映画の出だしのような不安や不穏を内包した景を提出している。

麦秋の赤信号を牛走る 神谷波          

 本当にこんな光景がまだ日本にもあるのかも知れない。赤信号なんて人間がかってに作ったもので牛には関係ない。でも、なんとなくそこを察知して走る牛。おおらかさからくる観察のおかしみがある。〈夏の夜の時計の針が逆回り〉神谷波さんのお仲間が集まれば夏の夜など、時計の針が逆回りして、皆、〈往年の少年少女水芭蕉〉になってしまう。〈遠くまでいく蟻近場ですます蟻〉この句もコンピニですます蟻とこだわって遠くの老舗に行く蟻を思わせる一方、精神的に遠くまでいく蟻と近場ですます蟻を思わせて意味の重層性とおかしみを披露している。

夏の夜の立入禁止といふわたし 関根かな

 〈沈丁やをんなにはある憂鬱日 鷹女〉あるいは〈閉経まで散る萩の花何匁 池田澄子〉という句が示す通り、女性は周期的に訪れる悩ましい現象を抱えながら生きている。この句もそんな時の自分を茶化して出てきた句だ。「立入禁止」という言葉がとてもユニーク。〈優曇華に場所を移してよく眠れ〉そんな日は誰も来ない優曇華でよく眠るのがベストだ。〈元彼に似ているやうな飛蝗飛ぶ〉元彼≒飛蝗のポップな把握。〈軍艦の鮨はわけられないよ好き〉という口語。実に巧みな術者だ。〈太陽のちぎれて八月十五日〉の「太陽のちぎれて」というたった九音で昭和二十年八月十五日の全てを表現し得ている。なんびとも認める佳句だと思う。

ぼうたんの揺るるは虐殺プロトコル 真矢ひろみ

 〈ぼうたんの百のゆるるはゆのやうに 森澄雄〉の本歌取りである。白牡丹の沢山咲いている景はお湯がふつふつと沸いているようなというほどの意味だが、むしろ句の意味は横に置いて、漢字「百」以外は仮名表記のシニフィアン(記号表現)の美として私は享受してきた。掲句の「ぼうたんの揺るるは」というシニフィアン(ここでも意味は重要ではない)は「虐殺プロトコル」だと云う。プロトコルとはIT用語で手順とか手続きのような意味だ。想えば大量のお湯が沸騰する景は怖い。そのサブリミナル効果も入って「虐殺プロトコル」。二〇一四年五月ウクライナのオデッサで二十一世紀とは思えないほどのネオナチによる市民虐殺があった事を思い出した。他にも共鳴句が多く〈国霊やコンビニの灯を門火とす〉等。

野生種のような長女や山ツツジ 網野月を

 「野生種のような」すてきな長女さん。と言っても、もう年頃だから親としてはとても複雑。山ツツジのあの朱色を好きな方は多いのでは・・・。〈五月病むかし甕割り今ガシャン〉こちらは長男の方?大学に入りたてはとかく五月病にやられます。むかしは親と口喧嘩などしてお気に入りのアンティークの甕など割ってくれた程度でしたが、今は電話かけてもろくに会話もしないで「ガシャン」なんです。はい、我が家もそうでした。他の印象深い句に〈かたつむり殻持ち運ぶ自衛権〉。

昼顔に目覚めて口のにがきかな 中西夕紀

 夏の午後、ちょっとうたた寝して目覚めてみるとあの昼顔の花になっていた。口がにがいから確かに私なのだけどと「変身」(カフカ著)の昼顔版と読むのはおおいなる誤読なのだが、そうとも読めてしまうシュールな表出。
〈波打つて大暑の腹の笑ひをり〉ステテコ姿の七福神の一人に似た老人が檜の縁台などで大笑いしている姿。なんといっても「大暑の腹」という把握が玄人。〈混み合へる仏壇を閉じ夏布団〉実家に帰省すると時に仏間に寝かせられるときがある。老母などは「先祖代々南無むにゃむにゃチーンッ!」と拝むのだが、確かに仏壇の中には「先祖代々」が入っているのでそうとう混み合っている。

奥よりも裏側である海酸漿 佐藤りえ

 海酸漿を鳴らすのは意外に難しく、そう奥よりも舌の裏側で鳴らすのよというぐらいの句意なのだが、これは「奥」「裏側」という言葉が曲者で、ずばり言えば性的な意味で受け取る殿方も多いのではと思った。なにしろタイトルも「麝香」。作者はけっこう無意識にその領域をさらっと表出する。〈濡れている闇から帰り瓜を切る〉この句も男女の営みとしての「濡れている闇」から帰りと取れば「瓜を切る」の瓜がメロウな匂いを微かに放ち始める。攝津幸彦が密かに喜びそうな句。〈飽きられた人形と行く夏野かな〉この句の不思議さも妙。「飽きられた人形」とは作者の一部分である事は確かなのだが・・・。

ポリフォニーひそむ水田つばくらめ 堀本吟

ここでのポリフォニーは間テクスト性詩学のルーツであるバフチンのポリフォニーかなと。(←Wikipedia知識〈汗〉)「ポリフォニーひそむ」とはつまりいろいろな声、考え方、感じ方がひそんでいるくらいの意味。じゃあ「水田」とは何?となるのだが、私は、ここは大胆に俳句現場の表象としての「水田」という事にしたい。日本特有の「水田」には春夏秋冬があるし、畦でしきられるブランドもあり、♪こっちの水は甘いぞ的要素があったりする俳句のトポスとしての「水田」。でね、吟さんが、水田を高く低く飛んで批評などを書いている姿「つばくらめ」。でも時に〈超新星死に体じゃあと叫び声〉のスランプも。このキュチュな表現も又、愛すべし。

脈拍はレゲエのリズム海晩夏 福田葉子

 「レゲエのリズム」という捉え方がいい。夏も終わりの海での出来事。かなり疲れがでて脈拍が速くなってしまった経験。深刻でなくむしろ少し滑稽というかキッチュに近い味。〈死後のごと湯船に赤いバラ浮かべ〉この句もいい。白いバラでは付きすぎで、ダメ。黄色もピンクもいただけない。赤でないといけない。なんかここまで書いて作者の一側面がみえてきたような、だって「レゲエ」「赤いバラ」に次に披露するのは「恋」。〈茅花野に仮の一夜を恋わたる〉ひたむきな茅花のせつなさ。「仮の一夜を恋わたる」ああ、もう涙なくしては語れない。

水音の絶え間なき駅避暑期果つ 津高里永子

 「みなおとのたえまなきえきひしょきはつ」と読む。句の意味は自明。むしろ中七、下五に畳まれるように三つのki音の響き。それが避暑地の噴水のある駅の様子を思い起こさせて快い。漣のように寄せる一夏の思い出に耽り抒情詩の象徴のような水色のワンピースの女性が立っている。他に〈字のごとく打ちし蚊落ちて紙の上〉。

完璧な死体なるべし心太 高橋修宏

 これは寺山修司の詩、「昭和十年十二月十日にぼくは不完全な死体として生まれ何十年かかゝって完全な死体となるのである」の本歌どり(間テクスト)であるが、「心太」がなんとも巧だと思った。少し濁りある誕生。つーと突き出されてからの一生は短くて人に喰われてしまう。その喰った人間の一生もそのように又短いことをアナロジーさせる。〈日は生母月は養母の水くらげ〉この句も宮入聖の〈月の姦日の嬲や蓮枯れて後〉の句の形と響きあう。
水くらげというアンフォルメルな生命の形は精神的不安定な表象と取れる。確かにおおくの生命は太陽が「生母」。月は、その精神的なものを育み「養母」という把握。

麦畑刈られ巨人が来る気配 北川美美

 旅先で麦畑の刈られた風景にでくわした。広大な自然の中に麦藁を直径1.5mぐらいの幾何学的な円筒形に圧縮したストローベイルなるものが点々と置いて在り、初めて見る者には不思議な光景だった。確かに「巨人が来る気配」だった。それも旅人を喰う一つ目のキュクロプス。日本ばなれした麦刈り後の風景を彷彿とさせる「巨人が来る気配」。他に〈夏草を踏みしめている乗用車〉等。 

責問や金具に締めて氷掻き 堀田季何

幾つかサドマゾ的傾向の句を拾ってみた。手回し掻き氷機という責め具。「責問や」なのでここでの氷は口を割らない容疑者と見た。で、この氷(ピン)氏を金具でガチッと締めガリガリと削りあげるのである。赤いものが滲んだ自白の掻き氷が出来上がる。〈うつくしく牛飲まれゆく出水かな〉「うつくしく」と仮名表記の韜晦。「牛乳飲まれ」に錯視させんばかりの「牛飲まれゆく」と捻り「出水かな」と残酷な着地。確かに俳とは人偏に非なので、このくらい非情の眼も面白い。(いやん、嫌いという方もいるが)表現とは孤独なもの。マゾ的な句として〈うき草や楽園といふ檻の中〉〈未来にも未来あり糞ころがせる〉楽園という檻で永遠に糞ころがしでは、さぞやお辛かろう。

TOKYOや海市となりて流れ寄り 夏木久 

「見渡せば花ももみぢもなかりけり 浦のとまやの秋のゆふぐれ」という藤原定家の歌が前詞として置かれている。今、繁栄の絶頂期にある東京。それを毀れやすいブロックのようなローマ字で「TOKYO」と表記。前詞の「見渡せば花ももみぢもなかりけり」に対応する部分の「TOKYO」である。榮枯盛衰は世のならいと言うが如く、そこはかとなく花も紅葉もない廃墟の東京のイメージが浮き上がる。原因は浜岡原発かどうかは、誰もわからない。すでに「海市となりて流れ」寄る東京。「TOKYOや」といちようは切れているものの、私には「TOKYO」と「海市」がオーバラップして見えた。他の好きな句に〈旅人や袖にサハラの月を入れ〉。

炎天のエミュウは我を見くびれる 筑紫磐井

 エミュウはダチョウに似て大きく、翼を失くした鳥。─ここは新宿百人町。夜8時頃、男はたまに行くバー「エミュウ」に入る。そこには炎天にいるような服装のマダム・エミュウが居て、いつものグラスを出す。黒メガネを外した顔でぽつりぽつりと会話。「そう、あんたはまだ翼を持っているのね」とエミュウ。男は密かに見くびられていると意識する。(配役/マダム・エミュウ=美輪明宏、男=筑紫磐井)Film『黒エミュウ』予告編より抜粋─この続きも書きたかったが字数制限迫り、清く諦める。次は〈賢きはをんな をとこは茸である〉納得。これは古来より普遍原理でいたしかたない。〈蒼古たる歴史の上に敗戦忌〉「蒼古たる歴史の上に」が見セ消チでわざと消されている表記。「敗戦忌」は造語。もはや戦前かも。

この稿は磐井氏より依頼され、いささか荷が重かったのだが、誤読にこそ、一つの読みがあるかも知れぬと少々開き直り、楽しみながら書かせて頂いた。深謝。

★「俳句新空間NO.2」特別作品鑑賞/小野裕三

遠くまでゆく蟻近場ですます蟻 神谷波

 蟻は身近な虫で、公園などを探せばどこにでもいる。蟻のおおよその生態は大人なら知っているだろうが、でもそれはかなりの面で耳学問でしかなく、実際に蟻の巣をほじくりかえして長時間観察したことのある人はそんなにいないだろうから、実態はやはり謎に満ちている。働き蟻とは言われるけれども、実はその労働意欲には濃淡があって、その濃淡こそが、まさにどこにでもいる蟻の分布図を作っているのだとしたら。擬人法としてもなかなか高等な部類で、江戸にも通じる俳諧味がある句。

真夜中に撫ぜて励ます冷蔵庫 北川美美

 すべてが動きを止めた夜の部屋で、それでもなにやらうめき声のような低い音を立てて動いているものがある。もはや背景音のようになってしまって、それが動いていることすらも日頃は意識しづらい。それでもたまに冷蔵庫のコンセントを抜いてみると気づく。本当に無音の世界がそこにはあったのだということに。そんなわけで、冷蔵庫はあまり注目を浴びない働き者である。けっこうけなげな存在なのだ。そんなけなげなモノと過ごす真夜中の時間。たぶん作者と冷蔵庫しかいない暗い部屋で向き合う、そんな一人と一個。人間と機械とで、心が通い合うわけもなく、それでも何かが通い合っているように見える、そんな深夜の密かな光景が面白い。

書初は遠い喇叭の水辺かな 夏木久

 書初、喇叭、水辺。この三つにいったい何の関係があるのだろう。いろいろと連想を働かせてみるが、どうにもそれぞれに縁遠い関係としか思えない。いわゆる二物衝撃というのとも違う、なんだか不思議な間合いがそこにはある。書初と喇叭と水辺と、その三つのものの間にぽっかりと空いた、まるでポテンヒットを生みそうな空間。なるほど、これはつまりポテンヒット俳句なのかも知れない。三つのものの距離感を巧みに操って、読み手の意識を思ってもいなかった空白地点へと誘導する俳句。もちろん、誰もが成功するやり方でもなく、言葉に対するセンスのようなものがないと、この企みは成功しないだろうが。

囀の上のコサックダンス隊 木村オサム

 囀のさわさわした感じとコサックダンスの動きの感じを重ね合わせた、と言えば確かにそうで、比喩としてはそんなに突飛な範囲に属するようにも思えない。だが、「隊」がついたことでぐっと映像的になる。腕を前に組んだ男の一団が、足を突きだしてリズミカルに踊る。異国語の掛け声なども掛けながら。しかも、「囀の上」ということだから、なんだか宙空のような、足場も頼りない場所で、男たちの一団はダンスを続けるのだ。そのことの映像的な面白さと言ったらない。