▲俳句新空間第4号(第3号作品評)より
●俳句帖鑑賞/小野裕三
手花火に飽きて煙のなかにをり 安里琉太ぽかんとした時空を詠んだ、ぽかんとした句。句の情報量はわりと少なくて、手花火から煙が出るのも、その煙の中に人がいるのも当たり前のことと言えるから、さらに加わる新しい情報と言えば「飽きた」くらいのことだ。しかし、このすかすかの情報密度が逆にいい。ぽかんとした気分と、それをとりまくぽかんとした時空が、ぽかんとした密度の情報形式にうまく反映されている。
栄華と零落。平家の血を彩る波乱の物語は、日本の風土のどこかに深く刻まれているのだろう。都が栄華という光の部分を象徴するものであれば、海は零落を想起させる影の場所だ。そして夜店もまた、たくさんの影に囲まれた小さな光の場所である。その対比を誰もが知っているから、夜店の明るさはどこか切ない。夜店を愉しんだ人はみな、巨大な夜の暗がりに押し戻されていく。まるで平家が落ち延びていった、あの海のような淋しさへ。
夜店の灯平家の海を淋しうす 中西夕紀
家族皆カレーはインド秋うらら 澤田和弥この句は、いわゆる上手い句ではないだろう。家族とカレーとインドの関係はそれぞれいかにも近いし、と言って秋うららの季語も微妙な距離感だ。要するにいわゆる上手に計算された句ではない。なのだが、この凸凹した感じが、どこか俳句の生理に引っかかる。俳句の神経をざわつかせる。いかにも俳句的に消化されてしまうのを拒否しつつ、しかもどこかで俳句的構造を知悉している、そんな句だ。直接の面識はない作者だが、若くして急逝されたとのこと。謹んでご冥福をお祈りする。
風呂の中繋がっている冬の川 川島ぱんだ一読した際に、「なるほどいいところを見ている」と感じたのだけれど、よく考えるとそんなはずもなくて、特に冬の冷たい川ともなれば、風呂と川が繋がっているはずもない。だとすれば、ぱっと句を見た時の印象として「いいところを見た」と思わせた、この不思議な錯覚は何なのか。きっと騙し絵みたいなもので、この言葉の配列をこの視点から見た時にしか、その錯覚は成立しないのだろう。なにやらカラクリめいたセンスが光る句。
厚着して紙を配つてゐる仕事 佐藤りえ紙を配る仕事というのは基本的には単調な仕事のはずだ。仕事、という言葉でぶっきらぼうに句が終わるのは、そんな苛立たしさを言葉の行き止まりにぶつけているようでもある。だが、そんな気持ちとは裏腹に、手の動きに正確に正比例して紙束の山は着実に減っていく。そんな気持ちの停滞と物理的な進捗との間を繋ぐのが、その作業を執り行う肉体だ。なんとも板挟みのような肉体は、ただ厚い衣服に包まれるばかりだという。そんな幾層もの温度差の行き違いに、洒落た諧謔性の見える句。
●初春帖(二十句詠)鑑賞/もてきまり
火星人八手の花に隠れたり 網野月をこの「火星人」という唐突さが面白かった。八手は葉が大きく日影好みの植生である。あの裏には火星人が手だけ隠せずに身を隠しているような気がして来た。そう、あのロボットの触針のような八手の花は火星人の手かもしれない。他に〈わたくしはMr.不器用日数える〉網野さんのおおらかさを想った。
夕暮れがきて貧困を措いてゆく 大本義幸「夕暮れ」の擬人化。「貧困」という観念の物質化に成功している。昼間は、人それぞれに生きるに忙しく、やれやれと一息つく夕暮れ時になるとなにやら佇まいの貧しさが気になるのである。あるいは人類の夕暮れ時、類としての貧困がどんと卓上に課題として措かれていく意にも取れる。時間的な遠近法といい、こうした句は作れそうでなかなか作れないものだ。他に〈ノンアルコールビールだねこの町〉日本中、どこへ行っても、やや安普請のノンアルコールビールふう町並が増えた。
久々に叩きをかける山眠る 神谷波ここでは何に叩きをかけるのかが省略されていている事が面白い。最初布団に叩きをかけるのかなと思ったが、いや自分自身に喝をいれる意の顔に叩きをかけるかなとつぎつぎと想像してしまう。されど人が何をしようと「山眠る」。中七の「叩きをかける」の終止形と「山眠る」の二連続の「る」が句に強靭さを与えた。他句に〈初夢の鶴につつかれ覚めにけり〉そりゃあ、あなた、あの鶴の口ばしでつつかれたら起きてしまいますよ。しかし、その鶴は初夢の中のめでたき鶴で、良き目覚め。
水鳥の副葬品のごとき声 坂間恒子うーん、秀句なり。水鳥のあのいっときも整わない群れの鳴き声と遠い時代の副葬品が発見された時の(人骨の一部やら壺の破片やらがばらばらに赤土に現れた)光景とがオーバラップしたのだ。水鳥の声(音)を「副葬品」という景(絵)に転換させた感性がすばらしい。ごとき俳句はいちようにダメなんてことはない。そうしたタブーを乗り越えている。〈のぼる陽と我の真中の浜焚火〉二〇一一年の津波後を非情にも繰り返し「のぼる陽」(極大の赤)と内在化された言葉の「我の真中の浜焚火」(極小の赤)が拮抗していて緊張感ある一句を仕立てた。
ひとしきり泣いて氷柱となるまで立つ 佐藤りえたぶん、若松孝二監督「実録・連合赤軍あさま山荘への道程(みち)」という映画が下敷きになって構成した二十句。一句独立の視点で読むと、この句が物語から離れても句として最も立っている気がした。「ひとしきり泣いて」という肉体性(生)から「氷柱となるまで立つ」という精神性(死)の隠喩が決まった。他句に〈霜柱踏み踏み外し別世界〉求心的な組織に、間違って入り込んでしまう悲劇。赤軍でなくても、いじめ学級やブラック企業、カルト等、どこまでも人間が抱え持つ闇というものなのだろうか。
民草のひれ伏す上を手毬歌 仲寒蝉民草は民の震えるさま(おそれおののく)を、草に例えていう語。そのひれ伏す上を繰返される「手毬歌」。この手毬歌はピョンヤン放送、北京放送のようにも思えたが、ひれ伏すまではいかぬものの民草が萎びつつある某国のN□Kのようにも思えた。妙に怖い「手毬歌」。他句に〈若水を闇もろともに汲み上げぬ〉初詣の折に若水を柄杓で汲む。まだ明けやらぬので「闇もろともに」汲みあげた。この「闇」が戦前という闇に繋がらぬよう願うばかりだ。
土門拳亡し石炭の山もなし 中西夕紀写真集『筑豊のこどもたち』を出した土門拳も今は亡く、またモノクロに映っていた石炭の山(ボタ山)も今はもう緑の山なのだが、土門拳と言えばモノクロ。石炭の山と言えばモノクロを想起させ、又、その述語で「亡し」「なし」と畳みかける技がすぐれて妙。他に〈彼岸から吹く北風もありぬべし〉子規、最晩年の〈鶏頭の十四五本もありぬべし〉を遠く想う。子規(死者)のいる彼岸から吹く北風もあるだろうなぁというほどの意だが、彼岸から此岸へ俳句という現場に吹く北風は厳しい。
死者係御中こちら八手咲く 秦夕実いくら長寿社会になれども、実際、七十歳を超えるとまわりに冥途へ発つ人が多くなる。そんな中、あちら様へ「死者係御中」と封書おもてに書いた。中の文面は「こちら八手咲く」つまりまだまだこちらで頑張る決意。季語「八手咲く」のみごとな使用例。題は「おさだまり」つまり「御」「定」で、最初の十句には「御」、あとの十句には「定」が兼題として入っている。冥途に発つ前に「御定(おさだまり)」ではあるが俳句でおもいっきり遊ぼうという隠し味。最後の句は〈冥府への定期便出づ木菟の森〉。
俳の象徴としての葱、それを用いての鞭。若い衆に使うのか自らに使う鞭なのか、たぶん両方に使っている。最近の老婆はとても老婆とは言えず、福田さんはもちろんのこと、金原まさ子さんはじめ、姿勢は良いしPCはこなすし、疲れた初老を凌ぐ。年を重ねることで世界の多様性に気付き自由になれる力というものがあるのではないかと最近思う。で、この鞭はけっこう痛い。他句に〈初蝶のかの一頭はダリの髭〉クールな銀の額縁に入れギャラリーに飾りたいくらい、おしゃれ。
葱の鞭ときおり使う老婆いて 福田葉子
「硝子切る音」とは思わず耳を塞いでしまういやな音がするものだ。その音が成人の日にどこよりかすると云う。式典で市長がブチ切れ、騒ぐ新成人に「出て行きなさい!」と怒鳴ったニュースなどが記憶に新しいが、成人の日は祝日であるものの不穏な日。他句に〈日脚伸ぶ宗右衛門町に研師来て〉「日脚伸ぶ」という奥行きを与えられて「宗右衛門町(そえもんちょう)」「研師」という輪郭線の太い木版画のような一句。
成人の日硝子切る音どこよりか ふけとしこ
「花すすき」穂がでたすすきに出会うたびに、いにしえ人がすでに白髪となり老婆老翁となり群立っているように見える。中にはあの五百年生きている安達ヶ原の鬼婆もまじっているように思えるのは私だけだろうか。そこは、古語ともつかぬ声がかすかに聞こえる幽玄の世界。他句に〈その真ん中に空蝉の観覧車〉「その真ん中に」なので都心梅田ファションビルのあの真っ赤な観覧車か。観覧車のゴンドラを「空蝉」に見立てた吟さんの内的世界を想う。
声のみをまじわらせおる花すすき 堀本吟
苔むして落葉の中のタイヤかな 前北かおる題は「日光・湯西川」。古タイヤは再利用されよく小公園などで見かける。見ると落ち葉の中のタイヤが「苔むして」いた。キッチュな景の発見。他句に〈踏む人のなくて汚き霜柱〉句意は明瞭。「踏む人のなくて」というひねりが効いて、自然界「霜柱」を堂々と「汚き」と詠む。この眼差しはなかなかに貴重。嘱目吟とは不条理劇の一場にあるリアルさとどこか通ずるような気がする。
瓢箪鯰は辞書に瓢箪で鯰をおさえるように、捕え所のない要領を得ぬ男をいうとあった。ここでは「という構図」とあるので、具体的な絵としての瓢箪と鯰であろう。初夢から滑稽まじる複雑な夢。具象画を提出しておいてアナロジーがいくらでもきく「という構図」。しかも中七のぬるぬる感を保証するべく下五で句の重心を効かせた技術的したたかさに感服。他句に〈三界の無明を照らす初茜〉凡夫が生死を繰り返しながら輪廻する三界(欲界、色界、無色界)の真っ暗闇が少しずつ茜色に染まりゆく。極めてアイロニーの効いた一句。
初夢の瓢箪鯰という構図 真矢ひろみ
西行をクリックすれば花ふぶき 夏木久夏木さんのPCのデスクトップには「西行」というアイコンがあり、そこをクリックすると「花ふぶき」のごとく沢山の作品がでてくる様子を想像した。最近、『神器に薔薇を』というハンドメイドの句集を上梓されたのだが、句集自体そのものがオブジェのようであり、所収されている句も攝津幸彦が生きていたら、思わずニヤリとするだろう句が並んでいる。他句に〈鮮明な義眼の夢を水中花〉「鮮明な義眼の夢を」というひねりようといい、下五の「水中花」をさらにゆらゆらと揺らす効果として格助詞「を」で切る技が冴えている。季語を手放すことなく前衛的な試みをしている作家だ。
桜ひとくくりに活ければ 日の丸 豊里友行沖縄の桜は緋色で、一月末頃から咲きほこり、それはソメイヨシノの満開とは全く違う赴き。生きているうちに一度は見ておきたい光景の一つだ。豊里さんは沖縄の写真家で俳人。季語ということに中央主権的なものを感じ、それに強く違和を表明している。他句に〈撮始めみんな月と太陽(ティダ)のワルツ〉彼の撮る被写体はさぞいきいきとした静止態として仕上がるのだろう。明るい躍動感が伝わる。確かに沖縄の太陽は本土のとは違う「ティダ」なのだ。又、沖縄へ行ってみたい。
チリ紙・水・電池を積みし宝船 北川美美東日本は、本当に地震が多く宝船も時代により載せる荷物が違ってくるのだ。今は非常時持出し袋の中味であるチリ紙・水・電池などを積んでいるという諧謔。他句に〈重箱の中はしきられ都かな〉年末、デパートなどで予約するお重などは細かく仕切られている。下五の「都かな」と表現されたことでまるで京の都のような料理の華やかさが目に浮かぶ。
アガペーもエロスもつどへ盆をどり 筑紫磐井おおまかに言えばアガペーとは神の愛、無償の愛。エロスは異性間にある愛と言えるか。まぁ、ここでは色々な愛が集え(命令形)と言っている。そして「盆をどり」をご一緒にということなのだ。この「盆をどり」とは、句会、吟行、結社、同人誌の集い諸々である。俳句は、奇しくも他者がいなければ成立しない表現形式なのだ。加えて〈一流であつてはならぬ俳の道〉なるほどと思った。俳句で一流、二流というのはないのかもしれない。大先生も、時にとてつもない駄句(しかし駄句の魅力というものはある)を発表するし、攝津幸彦のように母上(攝津よしこ:S55角川賞受賞・代表句〈凍蝶に夢をうかがふ二日月〉)に攝津の句を電話で披露したら「なんだい酔っ払いの句かい?」と言われたエピソードなどを思い出した。この無記名の句が真ん中にある表現形式の不思議さとその恩寵のようなものをいつも感じさせられている。
顧みてみれば、私のような者が、俳句歴の長い諸先輩の俳句を怖いもの知らずとはいえ、よくもまぁ、書きまんな~と(なぜか突然、関西弁で)私の中の誰かが呟く。ふだん怠惰な私に、このような機会を頂き、読むという事により大変勉強になった事と、最後の磐井氏の二句には勇気付けられた事を申し添えて終りとしたい。深