飲めそうな飲めなさそうな清水かな 黒岩徳将なんともとぼけた魅力のある一句。山道を歩いていて、なんだか空気も水もおいしい所に来たような気がする。さてこのあたりの水なら大丈夫なのではないか、いやまだダメだろうか。冗談めかしているようで、不思議なリアリティーのある句である。作者と一緒に山を歩いているような気分になる。
2016年8月26日金曜日
【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [黒岩徳将]/東影喜子
2016年8月19日金曜日
【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [高勢祥子]/東影喜子
仰向けや死にゆく蝉も眠る子も 高勢祥子ものすごい並列である。仰臥、という姿勢の一致を認めてしまうこと、それを一つの作品の中で、ぽんと並べて見せること。俳句という詩形だからこそできてしまう有無を言わせぬ迫力がある。
2016年8月12日金曜日
【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [山田露結]/東影喜子
大きさの違ふ三つの枯野かな 山田露結不思議な把握の句である。一度に三つの枯野を捉えることは難しい。上空から見ているのだろうか。しかしそれでは枯野の味が落ちてしまうような気がする。記憶の中の枯野と、眼前のそれとを比較しているのであろうか。それでは三という数字が引っ掛かる。親子三人で枯野を見ているというのはどうだろうか。幼い子の視界と大人の視界で、感じられる大きさも異なってくる。子には広大な枯野も、親には果てまで見渡せるかもしれない。そんな「三つの枯野」・・・・・・拡大解釈になってしまったかもしれない。とても惹きつけられた作品。
2016年8月5日金曜日
【俳句新空間No.3】平成二十六年甲午俳句帖 [杉山久子]/東影喜子
秋の蚊の脚のふれゆく広辞苑 杉山久子秋の蚊から垂れている頼りない脚が広辞苑に触れる。やや力のなくなってきた飛行を見て、作者がそう感じたのかもしれない。広辞苑の印字を見つめていると、広大な海に迷い混んでしまったかのような気持ちに、ふとなることがある。秋の蚊のその後を、私は見たことがない。広辞苑に触れた脚は、この後どこに降り立ったのだろう。それともどこかで迷ったまま帰ってこないのだろうか。
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